国境を超えて“暴力”の根源に迫る 『セールスマン』が映し出す、切実なイランの社会問題

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 『ムーンライト』と『ラ・ラ・ランド』が作品賞争いを繰り広げた、第89回アカデミー賞。この年の外国語映画賞に輝いたのは、イラン映画『セールスマン』だった。しかし、その晴れがましい授賞式には、アスガー・ファルハディ監督も、主演俳優タラネ・アリドゥスティらも出席していなかった。授賞式に出席し、壇上に上がった代理人は、「アメリカに入国できなかった国の人々を代表し、感謝します」とメッセージを読み上げた。

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 彼らの欠席は、ドナルド・トランプ大統領が下した、イラン、イラク、シリア、スーダンなど7つのイスラム国家の国民のアメリカ入国を期限付きで禁止する措置への抗議の意味があった。この「テロリストの排除」を名目とした排外政策は、イスラム教徒全体をあたかもテロリスト予備軍だと決めつける乱暴なものだとして、イスラム社会のみならず、アメリカ国内で抗議デモが起こるなど大きな問題になった。

 本作『セールスマン』は、切実なイランの社会問題を扱った作品だ。その内容は国境を超えて、「暴力」の根源に迫ろうとするものだった。それを思うと、本作の作り手たちが暴力的な措置へ反発するというのは必然的なことだったように思える。ここでは、そんな本作が描いたテーマを、作中の描写や背景に迫りながら、できる限り深く考えてみたい。

■検閲の下で描くリアルなイラン社会

 1979年の革命を経て、イスラム法学者が独裁的に政治を行う宗教国家となったイラン。国ぐるみでアメリカを中心とする西洋文化を否定し、女性は頭部をスカーフなどで覆う伝統的なドレスコードを強制された。その閉鎖的な社会では様々な表現が規制され、映画作品も厳しく検閲を受けることになった。

 革命の時代に映画を撮っていたアッバス・キアロスタミ監督は、宗教国家が成立した当初、子どもを題材にした作品を発表。イラン国外の人々は作中の子どもの目を通すことで、ヴェールの裏に隠されたイラン社会の実情を垣間見ることができた。キアロスタミ監督に師事したジャファール・パナヒ監督は、作品が反体制的だという理由で投獄され、釈放後は映画制作を禁じられながらゲリラ的な撮影を余儀なくされている。

 アスガー・ファルハディ監督作は、緻密な脚本と計算された演出が特長だ。しかし、イラン国外の観客からすると驚かされるのは、意外に西洋化されたイラン社会の側面が作中で切り取られているということだ。本作においても、学生に普及したスマートフォンや、子どもに人気の『スポンジ・ボブ』、宅配ピザなど、市民の間でアメリカ的な文化が親しまれていることが良くわかる。以前やはりアカデミー外国語映画賞を獲得した監督作『別離』(2011)、そして『彼女が消えた浜辺』(2009)でもそうだったように、ミステリー仕立ての物語のなかに、そういった描写を紛れ込ませることによって、作品は娯楽映画であること以外に、ドキュメンタリーに近しい価値をも持つことになる。

■社会によって覆い隠される女性への犯罪

 本作で描かれるのは、小さな劇団に所属する、教師のエマッド(シャハブ・ホセイニ)とその妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)の物語だ。アーサー・ミラー原作の舞台劇『セールスマンの死』の上演初日の夜に事件は起こる。先に帰宅したラナがシャワーを浴びている間、男が部屋に侵入し、暴行に及んだのだ。ラナは肉体的な被害と精神的なショックを受けてしまう。しかし、彼女は警察に訴えることを断念することになる。

 イラン社会で女性が訴えを起こすことに消極的なのには理由がある。イランでは1000年前より運用されているイスラム法「シャリーア」が法律の基本となっている。「シャリーア」では、女性の命は男性の命の半分の価値だとされており、女性を殺害する罪は男性殺害よりも軽くなる。男性一人の証言に対抗するには、女性二人の証言が必要となるし、男性の協力的な証言がなければ、女性の訴えは嘘と見なされ、訴えた相手の名誉を毀損していると判断されることもあるのだという。

 社会が保守的で偏見が残っているほど、女性は性的な暴行への被害を訴えづらいといえる。日本においても被害を訴えたことで、逆に被害者が好奇の目にさらされたり、周囲の者や無関係の人間から攻撃的な言葉を投げかけられたりなど、二次的な被害が起こる場合がある。本作は訴えを断念させられる被害女性のリアルな姿を描くことで、閉塞的な社会自体を告発しているのだ。

 この事件が原因で、ラナは活発さを失って打ち沈んだ性格となり、穏やかなエマッドは日常的に怒りを抑えられなくなってしまう。二人の心はすれ違い、夫婦仲は険悪になっていく。エマッドは復讐心に駆り立てられ、警察に頼らず独自に事件を捜査する。

■『セールスマンの死』が暗示するもの

 第87回アカデミー作品賞に輝いた、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は、演劇を描く「劇中劇」映画だった。レイモンド・カーヴァーの小説『愛について語るときに我々の語ること』を翻案した舞台に主演する元ハリウッド俳優が、芸術性と商業性の間で、かたちのない「評価」を追い求め翻弄される姿が、「愛」とは何かを考える舞台劇とシンクロしていく。

 舞台監督の修士号を持っているというアスガー・ファルハディ監督も、劇中で演じられる舞台劇『セールスマンの死』にメッセージを託している。この舞台劇で描かれる一人のセールスマンの死が表現するのは、アメリカン・ドリームの死であり、かつてアメリカが示した幸せのモデルの崩壊である。

 アメリカのアニメシリーズ『FはFamilyのF』は、70年代のアメリカに暮らす家族を描き、この種の価値観が引き起こす問題を描いている。主人公である一家の父親は、家族をコントロールできないことに終始苛立っており、自分が失職すると、大黒柱としてのプライドを守るために、働きに出た妻の仕事の失敗を望んでしまう。ここで表現されているのは、社会が与える旧弊で保守的な価値観が、男にとって都合のいい社会をかたちづくるとともに、男たち自身をも、あるモデルに縛りつけ苦しませているという実態である。この問題は現在も継続されており、日本の社会も同じような病理に包まれているといえるだろう。

 本作で『セールスマンの死』を演じるエマッドが成し遂げたかったことは、アメリカ的価値観の失墜を表現することによって、同様の保守性を持つイラン社会が、人間の生き方を強制するような「暴力性」を持っていることをあぶり出すということだったのだろう。しかし、エマッド自身もまた、自らの暴力性をコントロールできなくなっていくのだ。

■暴力によって起こる悲劇と、示される希望

 復讐を遂げようとするエマッドを、「そんなことをしたら私たちは終わりよ」とまで言って、ラナは制止しようとする。なぜ被害に遭ったはずのラナはエマッドを止めるのか。それは、エマッド自身のなかにある衝動的な暴力性こそが、自分を襲った暴力そのものであると感じたためだろう。そして、女性が抑圧される社会をかたちづくるものも、この種の暴力性なのだ。ファルハディ監督は、一組の男女の関係のなかに、イラン社会の閉塞性と暴力性を投影してみせている。

 相手に対しての想像力を失い、ひとつの価値観によって乱暴に人間をコントロールしようとする暴力。本作が厳しい目を向けるイラン社会の現実は、イランだけにとどまる問題ではない。イスラム教徒全体を危険視し、排除しようとする現在のアメリカ政府もまた、イラン政府と同様に閉塞的であり、暴力的なのだ。その点でイランとアメリカは、反発し合いつつも同種の社会になりつつある。その構図は、排外的な思想が目立ってきている、世界の国々の一部の風潮にも重ねられることができる。

 そういう社会を構成しているのは、私たち一人ひとりである。どんな人間の中にも暴力的な衝動はある。本作はその事実と、それによって引き起こされる悲劇を描くことによって、問題の根源を描いているといえる。そして、社会を変える一歩は我々自身の心を見つめることから始まるということを教えてくれるのだ。(小野寺系)