お正月と言えば、おせち料理、おとそ、初詣、鏡開きなど、日本の様々な習俗が想起され、その一つひとつに「常識の源流探訪」ネタが山のように詰まっています。

 今年はその中から「おみくじ」を取り上げて、考えてみたいと思います。そもそも、なぜ、おみくじと言うのでしょう?

 「御神籤」と漢字で書く場合がありますが「御」を取っても「神籤」は「みくじ」とは読みません。「御御籤」とか「お御籤」と書く場合があるのと同様、これは典型的な二重尊称と言うべきでしょう。

 数年前のお正月に、神社の屋根に乗っている「かつお木」「ち木」の話題に触れたことがありました。あの折「お宮」という言葉で同様のことを記したかと思います(「正月は神社の屋根に注目しよう 千木・鰹木の由来とは」)。

 「おみや」と言いますが「宮」は音読みすれば「キュウ」とか「グウ」で、これを訓読みで「ミヤ」と読むのは「御籤」を「ミクジ」と読むのと同様、当て字になります。

 実際には「お御家」あるいは「御御屋」かもしれませんが「とてもとても尊いおうち」として神の居ます所を「ミヤ」というようになったものでしょう。

 これはそのまま皇族や親王家にも適用され「三笠宮家」とか「高円宮家」といった単語、あるいは「浩宮」「紀宮」といった呼称にもつながっている。天皇の自尊表現の二重敬語と符号しているのも面白いところです。

 ちなみに二重敬語というのは「その年の夏、みやすんどころ、はかなき心地に煩ひて、まかンでなむとし給ふを、暇さらに許させ給はず (源氏物語「桐壺」)」などというときの「せ+給ふ」と敬語表現が2つあることです。

 畏れ多い主語を明示することなく、動作主が帝であること知らせるという、日本語独自の用語法で、主語や動詞すらしばしば不在という、極めて特異な言語である日本語の特徴を示す、非常に興味深いシンタックスと思います

 「おみや」とか「おみくじ」などという見慣れた表現の中にも、実はそこには「疑ってはならない神意」という、微妙な共同体タブーが潜んでいる。

 右傾化した議論をする人に、こうした日本語の機微を細かく検討する人がもう少し増えると、ずいぶんセンシティブになるようにも思うのですが・・・(苦笑)。

 さて、その「神意」を問う「おみくじ」に頼る日本のメンタリティを少し考えてみます。

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不合理に対する対処法

 古代の人々は、例えば地球という天体が「球体」であるとは知らなかったし、病気の原因が細菌やウイルスであるといったことも知りませんでした。

 地震や津波、落雷などの科学的メカニズムも知るわけがなく、落雷については「かみなり」、つまり神が鳴るという表現がいまだに残っているくらいで、私たち人類に襲いかかる様々な災厄は、原因不明の不合理であることが大半だったと言ってよいでしょう。

 これは文化の別を問いません。古代ギリシャではデルポイの神殿で神託が問われ、古代エジプトでもメソポタミアでも、古代中国でも、ありとあらゆる人類の文化は「占い」と縁を切っても切れません。

 もっと言えば、こうした「未知への探索」が、神聖文字などの書記言語を生み出したり、未来予測学として近代科学の源流にすらなっている。

 ご存知の方も多いと思いますが、「ケプラーの法則」で知られるヨハネス・ケプラーやその師匠と言うべきティコ・ブラーへの天体観測は、王室が占いのためにスポンサーとなって厳密測定が行われ、ケプラーは大真面目に

 「30年戦争に加えて、黒死病まで流行っているのは、星の運行が・・・」と言ったことを、その主著「世界の調和」などに延々と記しています。

 近代科学の祖と言われるアイザック・ニュートンも錬金術と縁深く、今日私たちが考えるような科学的合理性は21世紀に入っても、どれほど人類に定着しているか、知れたものではありません。

 しばしば(大半は保守の)(あまり頭の涼しくない)政治家が、お抱え占い師のようなものを囲い込み、水晶玉で税金の使途が決められる・・・といったことが、決して冗談ですまない、情けない現実もあるようです。

 くじ引きで政治決定を下したり、クガダチ(熱湯に手をつけてうそを言っている人を炙り出す)ような裁判法で訴訟を扱ったりすれば、しょせんはむちゃくちゃなわけですから、ろくなことになりません。

 穏当に歴史の一例を挙げるなら、足利幕府初期の隆盛を極めた3代将軍義満がいいかもしれません。

 嫡男・義持に将軍職を譲りますが、実権を握っていた親父の義満が亡くなると(1408)、義持は父に溺愛されていた弟の足利義嗣を冷遇、ついには殺してしまう(1418)など、次第に室町幕府は酷い状態に陥っていきます。

 そのとどのつまりが応仁の乱(1467-77)と言っていいでしょう。

 父に愛され、容姿端麗で才気に富み、音楽の演奏にも秀で、諸大名から嘱望の声も高かった弟、義嗣を殺した4代将軍義持は、息子の義量(1407-25)を名ばかりの将軍につけます(1423)。

 しかし、ほかに元服まで生き延びた子がいなかった義持期待の少年将軍は数え年19歳で早世、結局その3年後、跡継ぎを決めないまま1428年1月18日、数え年43歳で亡くなってしまいます。

 こういうとき「オミクジ」が登場するわけです。

 不合理としか言いようがない状態。そこで「神意」によって、誰も反対できない形で将軍の跡継ぎを決めるということになった。こんな選び方をした将軍がどういう最期を遂げたかと併せて、簡単に見てみます。

 義持将軍の亡くなった翌日、政治日程に空白を作らぬため、義満将軍の遺児たちを候補者に「おみくじ」が引かれ、出家して天台座主となっていた大僧正「義円」(1394-1441)が当たりとなり、将軍に押し立てられます。

 義円の前半生は「歴代天台座主随一の逸材」と言われるほど周囲の嘱望が高く、それで当たり籤に仕込まれたというのが実のところだったのでしょう。

 すでに35歳になっていた十分大人の義円は幾度も辞退します。そもそも子供の頃に出家して元服すらしていなかった義円でしたが、結局、将軍職に就き6代将軍義教となります。

 この義教は、勝手知ったる比叡山と中身を知るからこそ深く対立し、延暦寺根本中堂が抗議の焼身自殺で焼け落ちたり、切れ者ゆえに有力大名家の家督に介入して対立を深めたり、結果的に室町幕府を傾ける最悪の事態を生み出してしまいます。

 これは日本史でも広く知られるところでしょう。能楽をこよなく愛した義教将軍でしたが、能楽観世流「観世音」の3代「観阿弥」「世阿弥」(が名高いですね)の中で「音阿弥」を溺愛、父義満に愛された世阿弥を弾圧して佐渡に流すなどもよく知られた事実と思います。

 最期は、その音阿弥の能でおびき出された赤松氏の屋敷で殺害されるという(嘉吉の変)戦国時代のとば口を切るような死に方をしています。足利義教の市政すべてを「おみくじでの選出」に帰するつもりは毛頭ありません。

 しかし、かつては「天台座主史上最高の逸材」だった青年が「悪御所」とあだ名され、その名に違わぬ大量殺戮などを繰り返し、最期は室町将軍初の非業の死を遂げるに至るきっかけは「おみくじ」による人生の歯車の狂いだったのは間違いないでしょう。

 このとき誰が6代将軍職に就いたとしても、結局は戦国時代が到来していたはずで、歴史の流れは押しとどめることができなかったとは思います。

 でもその「くじ引き」で、誰が当事者となり、結果的に因果なことになるか、の選択は、各自が主体性をもって選び取って行った方が、個人にとっては幸せだったのではないかと思います。

おみくじはAIと相容れない

 さて、このおみくじですが、いま神社の類でこれを引くと「大吉」「末吉」「凶」といった運勢が一つ確定的に示されます。

 こういう考え方が「21世紀に妥当か?」と問われれば、あまり流行ではない、と答えるのが正確と思います。

 おみくじは確率的に引き当てるものですが、その結果「真の運勢が1つに定まる」という考え方は、とても古典的なものと言えます。

 これに対して、2010年代に流行しまくっているディープラーニングが端的な現代統計、ベイジアンなどの考え方は、真の値を1つに定めず、分布を考えます。

 これは天気予報の変化を例に挙げると、少し似たところがあります。私が子供の頃、高度成長期の日本では、お天気予報は「晴れ」「雨」「曇り」「雪」といった形で示されていました。

 それが、気象衛星などを用い、正確な情報の知見が増えるにつれて、「降水確率40%」といった表現に変化していった。

 今日、私たち人類が知り得る情報は、年々爆発的に増大しているわけで、それに従って「天気予報」も「おみくじ」も、運勢を一点の真値で示すより、分布として提示する方が、よりリアルな予言に近づくことになる。

 AI大明神に詣でておみくじを引くなら「大吉の確率30% 中吉の確率40% 凶の確率20% 大凶の確率10%」なんて御託宣が出た方が、現実に即している可能性が高い。

 これだと判断ができなくて困るという政治家は、すでに頭が20世紀以前で固まっているので引退した方がいいでしょう。

 実際に分布として期待値などが示されれば、それに即して公共投資などの配分も賢明にできるはずです。少なくとも資産のリスク分散で考えれば当然のことでしょう。

 公共事業が投げ銭的だったり、コストパフォーマンスを考えなかったりする古代的な発想ならまだしも、「大吉」「凶」といった一方的なご託宣が2020年代以降にまじめに通用するとは到底思えません。

 逆に、風物詩としてのおみくじは、100年経っても別に変える必要はなく、大吉が出ても大凶が出ても、「ははん、そんなものかな」と木の枝にでも結びつけて、忘れてしまうのが賢明というものでしょう。

 思考停止のためにご託宣に頼る、といった意思決定は、「何にせよ褒められたものではない」。これだけは間違いなく言えると思います。

 必要な情報が不足して判断に困るとき、人は「困ったときの神頼み」をしたくなる。これ、単に退嬰に過ぎません。

 賢明な地頭が活用できるなら、いま不足している情報をどのように集めたら、より確かな意思決定ができるかを、弛むことなく検討し続けるのが、本来のあり方、私たちの主体性という特権だと思います。

 逆に言えば、例えば入試で答えが分からず、鉛筆を転がし始めたら「桜散る、残念」への階段に一直線ということになってしまう。

 こういう神頼みは、やめておいた方がいいでしょう(苦笑)。

筆者:伊東 乾