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スポーツ競技や五輪にはドーピングがつきものだ。ロシアが国ぐるみでドーピング問題を起こし、最近でもカヌー日本代表候補がライバルの飲み物に禁止薬物を混入するニュースがあった。なぜ、いまだになくらないのだろうか。

勝利への執着と薬物による増強

現代では、薬を飲むのは病気で患者になったときだけとは限らない。

医学技術の進展は、病気を治療するだけではなく、健康な人たちの性質を改良(増強:エンハンスメント)するためにも用いることができる。

1990年代から、病気治療を超えたエンハンスメント目的での医学技術の利用は医学界でも問題視されている(参照『脳のエシックス』)。

ただし、エンハンスメントそのものがすべて悪いという意味ではない。

たとえば、生活習慣の改善やサプリメント服用から美容整形手術まで含めてのアンチエイジングもエンハンスメントの一例だ。美容整形には賛否あるだろうが、すべてのアンチエイジングを否定する人もいないだろう。

身体能力を高めるエンハンスメントはスポーツに関わる場合、ドーピングと呼ばれて規制される。

また、薬物によって注意力や記憶力を向上させたり、落ち込んだ気分を改善させたりすることは認知的エンハンスメントや「脳ドーピング」とも言われる。

今回、取り上げたいのはスポーツとくに五輪でのドーピングの問題だ。

スポーツ選手にとって、勝利はもちろん重要だが、もしドーピングが発覚すれば競技生命を絶たれるというリスクもある。

にもかかわらずドーピングはなぜ行われるのだろうか?

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オリンピックとドーピング

来る2月に平昌で開催される冬期五輪では、国家ぐるみでのドーピング不正容疑のため、ロシアは国として参加することは不可能となった。

ただし、この国際オリンピック委員会の制裁があっても、ドーピングがないとの潔白が証明された選手に限っては国家代表ではなく個人としての参加は許されるという。

ドーピングとは、スポーツ競技の成績を向上させるため、薬物を使用したり、それ以外の方法を用いたりすることをいう。薬物としては、筋肉量を増大させるステロイド薬、覚せい剤の仲間の薬物(興奮剤)などがよく知られている。

薬物以外の方法としては、たとえば自分の血液を保存しておいて赤血球を自分に輸血する「血液ドーピング」がある。

これは、マラソンやノルディックスキーのような競技では赤血球を増やして血液の酸素運搬力を高め、競技での持久力を強化する目的で利用している。

反ドーピングのとりくみ

スポーツにおいてドーピングは例外的なものではない。

むしろドーピングの歴史は近代スポーツの歴史と同じくらいに古い。興奮剤はすでに19世紀から使われていた。

とくに20世紀初頭に覚せい剤(アンフェタミン)が開発されてから、それを興奮剤として利用するドーピングが広まった(覚せい剤は、常用性や依存性が問題となる前には、もともと空軍パイロットなどの眠気防止用に合法的に使われていた)。

これに対して、反ドーピングの対策が組織的に世界規模で行われるようになったのは1999年に世界反ド―ピング連盟(WADA)の設立後である。1998年に自転車競技ツール・ド・フランスでドーピングが大きな社会問題となったことをきっかけとしている(フェスティナ事件)。

ロシアのドーピング・スキャンダルは、2014年にドイツの公共放送で、ロシアの陸上競技をめぐる内部告発があったことで露呈した。その後のWADAによる調査の結果、ロシア陸連は資格停止処分となった。

さらに2016年にはソチ冬期五輪(2014)での国家ぐるみのドーピング疑惑が浮上した。五輪からのロシア全面排除は見送られたものの、リオ五輪(2016)への参加は各国際競技連盟の判断に任された。

こうした経緯のなかで、平昌五輪では国としてはロシアの参加不可という形となったのだ。

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ドーピングが悪である三つの理由

ここで冷静に考えてみよう。なぜドーピングはスポーツの世界から排除されなければならないのだろうか。

大きく分けて三つの理由がある。

一つは選手の健康に危険があるとのリスク上の理由である。ドーピングに限らず薬を服用したり輸血したりすることにはもちろんリスクはある。

だが、個人の自由が尊重される近代社会では、他人に危害を及ぼさない限り、かなりの程度のリスクをとる選択の自由が認められている。

そもそも、競技スポーツそのものが怪我や事故などと隣り合わせであり、プロスポーツ選手には故障がつきものだ。

そう考えれば、選手本人が健康リスクについて十分に理解していて同意したのであれば、わざわざ国際組織がでしゃばって規制するのは行き過ぎといえなくもない。

これだけでは、ドーピング禁止の理由として根拠薄弱だ。

第二の理由は、人間が努力することの価値の切り下げにつながるとの道徳的非難である。これは倫理学では、エンハンスメント/アチーブメント(達成)論といわれる。

つまり、同じ結果の達成でも、医薬品や身体的処置ではなく、自分の行為に責任を持って自発的意志に基づいて節制努力して達成した結果の価値が高いとする考え方である。

だが、結局のところ競技スポーツは、人間の不平等を肯定し勝敗や優劣の結果を競うものであって、アチーブメントや努力を公平に評価することを第一目的にはしていない。強い競争主義の圧力のもとでは、建前的な道徳論は実際の歯止めとして分が悪い。

第三は、ドーピングはルール違反だからという形式的な理由である。

じっさい、世界反ドーピング連盟や国際オリンピック委員会の考え方は、ドーピングの定義についてダメだからダメという点に尽きている。スポーツ精神の涵養より、重い処罰規定による威嚇が進行しているのが現状だ。

ドーピングとして禁止される薬品や方法は、ドーピング禁止表に列挙されたものとして定義されている。裏を返せば、その時点での禁止表のリストにのっていない薬物であれば、競技能力を向上させる効果があってもドーピングではないことになる。

なぜドーピングはなくならないのか

スポーツ選手が、発覚すれば競技生命を絶たれるドーピングを行うのはなぜか?

これは個人としてのスポーツ選手が無知で愚かだからというわけではない。

注目すべきは、現在の商業化したスポーツ文化のなかでは、プロ・アマを問わずスポーツ選手は、個人としての人間というよりも、コーチやスポンサーやお抱えドクターなどのサポートチームさらにはスポーツ団体や国家をひっくるめたブランド名のようになっている事実だ。

いったん、こうしたシステムに組み込まれれば、競技能力のエンハンスメントを目指すため、選手には特別なトレーニング・メニュー、特別な食事、サプリメントなどが提供される。

それらの延長線上で、信頼していたチームドクターから渡された錠剤や施される特殊な処置が存在していたというのが、ロシアも含めた多くのドーピングの実態だったようだ。

パフォーマンス向上のための一種の「エンハンスメント連続体」のなかで、どこからがドーピングとして社会的に非難されるかは専門用語で書かれた最新の禁止表に掲載されているかどうかで恣意的に定まる。

こうした事態は選手個人の道徳性や知識の問題ではなく、競争圧力に過度に曝された近代スポーツというシステム全体の問題とみるべきだろう。

問われるべきは競争主義

『ドーピングの哲学』を書いたジャン=ノエル・ミサはドーピングを単純に悪とみなす通念を批判して、次のように述べている。

公式のルールはドーピングを反則とみなしているが、非公式のルールは、一部の競技において、選手たちがドーピング精神に手を出すように強いているのである。このような二重のシステムは、すさまじい偽善を生み出している。

こうしたなかで生じつつあるドーピングの重罪化は、社会学の用語でいえば違反選手の「悪魔化」(ひどい悪人としてレッテルを貼ること)とまとめられる。

ドイツのように反ドーピング法を持ちドーピングそのものに刑事罰を科す国は少数派だが、ドーピングに詐欺罪や偽証罪を適用したりする国もある。

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また、マスメディアによるバッシングやスポーツ界からの追放など、ドーピングを行った選手は道徳的な悪の象徴のように扱われる。

普通のスポーツ選手たちに対しても、反ドーピングのため、競技大会以外の時期での日常生活への監視や抜き打ち検査、禁止薬物や機器の家宅捜索や個人の遺伝子検査などが行われる。

さらに、ドーピング検査を拒否することそのものがドーピングと同罪と見なされている。こうしてドーピング検査は選手のプライバシー権を侵害する程度を高めつつあるのだ。

また、本人にドーピングの意図がなくても、薬物陽性となった時点で処罰されることもある。

最近、日本でもカヌー・スプリント選手権でライバル選手の飲み物に禁止薬物を入れて蹴落とすというケースがあった。選手自身が自分の飲食物を十分に管理できなかった「自己責任」とされているが、こうした被害者非難もまた「悪魔化」の一種だろう。

システムそのものの競争主義という問題は反ドーピングだけではコントロールできないため、代わりに責任を追及しやすい選手個人への道徳的非難や監視が強まるわけだ。

ドーピングと反ドーピングのいたちごっこを続けるのではなく、身体や精神に介入する医学技術が飛躍的に発展しつつある現代、「より速く、より高く、より強く」というオリンピックの競争主義的価値観にまだ意味があるのかどうかを再考すべきときではないか。