「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」公式Twitterより

写真拡大

 お笑い芸人がアメリカの黒人俳優に扮し、黒塗りメイクをして出演したテレビ番組が、日本在住の米国人作家の指摘をきっかけに、差別的で配慮が足りないなどと批判されている。

差別問題に直面した『Vogue』、アジア・サッカー連盟の対応

 欧米では、非黒人が黒人に扮する「ブラック・フェイス」は、黒人にステレオタイプを植え付け、偏見を助長する差別表現として扱われる。日本テレビの番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 大晦日年越しSP絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』で、浜田雅功さん(ダウンタウン)が米俳優エディー・マーフィーさんに扮して映画『ビバリーヒルズ・コップ』(パラマウント映画)のパロディを演じた問題については、アメリカやイギリスなどでも報じられた。

「知らなかったでは済まされない」「日本は差別的で無知な国だと思われる」という厳しい指摘がある一方、国内からは「差別ではなく、むしろマーフィーに対する敬愛の思いが感じられる」「シュワルツェネッガーの物まねはOKだけど、マーフィーの物まねがダメというのは変」など、批判は納得しがたいとの声もある。

 差別の問題は、それぞれの時代や社会の文化と歴史と分かちがたく結びついている。アメリカは長い黒人差別の歴史があり、白人が黒人に扮した“ミンストレル・ショー”が、白人の目で見たステレオタイプな黒人像を広めたこともあった。ブラック・フェイスに差別を感じ、不快感を抱く感性は、そういう歴史や今も続く黒人差別の体験から生まれてきた。

 このように文化的歴史的な前提が異なるために、差別性を指摘されても、すぐにピンとこないことは、これまでもあった。

 たとえば昨年2月、女性誌「VOGUE」(コンデナスト・パブリケーションズ)に白人モデルが日本の芸者風の出で立ちで登場したところ批判が殺到し、当のモデルが謝罪した。掲載された写真そのものは美しく、少なからぬ日本人が「なぜ、あれがダメなのか」と首を傾げた。

 この時は、ブラック・フェイスと同じように白人の側がアジア人に扮し、白人の側が解釈したアジア人像を見せるイエロー・フェイスや、「日本と言えばフジヤマ、ゲイシャ」といったステレオタイプな表現などが問題視されたようだ。ただ、黄色人種の割合が圧倒的に多い日本で暮らす日本人は(私自身を含めて)、人種ゆえに差別を受ける実体験がないためか、差別性を言われても、なかなか理解できなかった。

 一方、文化や歴史を知って、想像力を働かせば、理解できそうな問題もある。

 4月には韓国で行われたサッカーの試合で、川崎フロンターレのサポーターが掲げた旭日旗が没収され、アジア・サッカー連盟(AFC)は人種や政治的な信条などによる差別を禁じる倫理規定に反したとして、川崎に対し1年間の執行猶予付きで、ホームゲーム1試合を無観客とする処分と罰金1万5000ドルを科した。川崎側は「政治的、差別的な意図はない」と不服申立を行ったが、「旭日旗の掲出は差別的なもので、韓国国民の尊厳を傷つける行為」として棄却された。

 韓国や中国など東アジアでは、日本の軍国主義を象徴するとみなされており、国際サッカー連盟(FIFA)の規定では「攻撃的、挑発的な内容を含んだ横断幕や旗」として扱われる。そうでなくてもナショナリズムをかき立てられるサッカー国際の試合で、その会場に旭日旗が翻れば、韓国では屈辱的な過去を思い起こさせる侮辱と受け止められることは、歴史の知識と想像力を動員すれば理解可能だ。

 ただ、これに納得できない人も少なくなかった。確かに、旭日旗のデザインは、大漁旗や新聞社の社旗にも使われており、今の日本人にとっては必ずしも旧日本軍と直結するものではない。菅義偉官房長官も、この問題を受けて「(旭日旗は)日本国内で広く使用されている」として差別には当たらないという認識を示した。読売新聞は、社説で「旭日旗に差別的な意図はない」と主張し、AFCや問題視した韓国サポーターを批判した。

「差別的な意図はない」からOKなのか

 差別の問題になると、決まって持ち出されるのが、この「差別的な意図はない」という弁明や反論である。ただ、こうした主観的意図を述べることに、果たして意味があるのだろうか。問題とされる表現の多くは、「差別してやろう」という悪意からではなく、格別の自覚なく発せられるもので、「差別的意図はない」という弁明は虚しく響くことが多い。

 たとえば、昨年11月に前地方創生相の山本幸三・自民党衆院議員が述べた「なんであんな黒いのが好きなんだ」発言。同氏は、三原朝彦・自民党衆院議員の政経セミナーの来賓あいさつで、三原氏との交友関係を強調しつつ、同氏が長年続けるアフリカとの交流について触れ、こう言った。

「ついていけないのが(三原氏の)アフリカ好きでありまして、なんであんな黒いのが好きなんだっていうのがある」

 これが報じられると、山本氏は次のように弁明した。

「人種差別の意図はまったくない」
「表現が誤解を招くということであれば、撤回したい」

 格別の「意図」なく、無意識に差別的な発言をしてしまっただけでなく、指摘された後も、問題を自覚できていないようだった。この発言は、山本氏の救い難いまでの無知と認識の甘さを印象づけた。マツコ・デラックスさんは、これにあきれ、「もはやそういう人はこの時代の政治家には不向きなんですよ」と一喝した。同感である。

 特定の表現を差別的・侮蔑的であるとみなすのは、その表現をした当事者の主観ではなく、その社会に共有される倫理観であり感性だ。旭日旗の問題でも、いくら主観的には差別的意図は込められていないと主張しても、そこに他者の尊厳を傷つける差別性や挑発を感じ取るのがアジアのサッカー界の常識的な感覚であるならば、そのような受け止め方をされない表現方法を選択するよう努めていかなければならない。内輪だけに通用する価値観だけでなく、広く外の世界にも目を向けて、そこでの倫理観や感性を身につけていくのが、教養というものではないか。差別性が問われる表現というのは、人権感覚が問われる以上に教養、たしなみの問題だと思う。

 同じ社会であっても、そこに共有される倫理観や感性は、時代によって変化していく。それをつくづく感じさせたのが、昨年9月、フジテレビ系で放送されたバラエティー番組『とんねるずのみなさんのおかげでした 30周年記念SP』内で、同性愛者を揶揄したと批判された問題だ。

 番組では、80〜90年代に流行ったキャラクター「保毛尾田保毛男(ほもおだ・ほもお)」を復活させ、とんねるずの石橋貴明さんが演じた。別のキャラに扮した木梨憲武さんとの間で、「あんた、ホモなんでしょ」「あくまでも噂なの」などといったやりとりを交わした。

 ツイッターなどネット上には、これに不快感を感じた人たちの書き込みが相次いだ。それは、同性愛者自身に限らない。フジテレビにも「同性愛者を笑いものにしている」など、多くの批判が寄せられ、同社は放送翌日に謝罪した。

 30年前には「おもしろい」と笑っていたものに、人々は嫌悪感を覚えるようになったのだ。それはつまり、LGBTを笑いの種にするのは差別であり人権侵害であるという倫理観や、そうしたものを不快に感じる感性が、多くの人々に共有されようになってきたことを示している。フジテレビの対応が早かったのは、同局の中にも、「これはまずい」と感じた人が多かったのだろう。

 このような展開になったのは、性的少数者が直面している差別や困難についての知識が広まってきたためだ。昨今、カミングアウトしたLGBT当事者がさまざまな発言をし、イベントなどの啓発活動が行われ、「アライ(Ally)」と呼ばれる理解・支援者も増えてきた。身近にLGBT当事者の友人がいればなおのこと、その心情を想像し、こういう番組を不快に感じるようになる。知識や体験は、人の倫理観や感性を変えていくのだ。

 もちろん、そうした感覚がすべての人に共有されているわけではない。番組でとんねるずと共演したビートたけしさんは、東スポの連載で「LGBTの団体も喜べばいいじゃん。お笑いで普通にやってるんだから、十分に認めてるってこと」「もうちょっと、笑うような寛容さがほしい」と注文をつけた。

 また、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんはツイッターで「お前だけが被害者面すんな」と番組を批判するLGBT当事者にかみついた。さらに、そのコメントを批判した認定NPO法人フローレンス代表理事の駒崎弘樹さんを、「あれはみんなゲイを笑っているんじゃなく石橋貴明って人を笑ってる。バカが偽善者面して当事者を語るな」と罵った。

 こうした声に共鳴する人もいる。そういう人たちは、おそらく自分が差別に加担しているとも思っていないし、自分の中に差別する心があるのにも気づいていないのではないか。

「日本には人種差別の歴史がない」は本当か?

 さて、ここで冒頭のブラック・フェイスの問題に立ちかえりたい。

 この番組の制作者やエディー・マーフィーに扮した浜田さんに「差別する意図」があったとは思えない。それに、今回の番組で、浜田さんは黒人一般をステレオタイプに表現したのではなく、エディー・マーフィーという特定個人のいわば物まねだろう。

 私自身は、表現はできる限り自由であるべきだと考えている。「差別」を理由に、さまざまな表現が使いづらくなるような「言葉狩り」のように、表現を制約するようなことはあってほしくない。それに、黒人の俳優やコメディアンが多い国々では、黒人の著名人の物まねは黒人がやればよいだろうが、日本だとそういうわけにはいかない。欧米での基準をそのまま持ち込んで、表現の選択肢を狭めてしまうことには、違和感がある。

 しかもこの番組は日本語で、日本の国内に向けて放送されている。「ブラック・フェイスは黒人差別が激しいアメリカだから問題になった。アメリカ人は自分たちの価値観を、日本に押し付けないでほしい」という意見は、説得力があると思う。

 その一方で、「これはアメリカの問題でしょ。日本は人種差別の歴史がない」という感覚で、この問題を語っている人が少なくないのも、同じくらいの違和感を覚えている。

 確かに、アフリカや中東、中南米での植民地支配や奴隷制の過去があり、今も人種差別の克服が大きな課題である欧米に比べれば、日本は肌の色に起因する差別を実感する機会が少ない。しかし、だからといって日本人の中に、肌の色で人を差別する心がないというわけではないだろう。

 日本人の母親とアフリカ系アメリカ人の父親を持ち、2015年のミス・ユニバース日本代表に選ばれた宮本エリアナさんは、次のように語っていた。

<ゴミを投げつけて笑われたり、知らんぷりされたりしました。「色が移る」と言われて、遠足や運動の時間に手をつないでくれませんでした。プールの時間もそう言われました。日本生まれ日本育ちなのに「アメリカへ帰れ!」と言われました>
<外見のせいで受けたつらい経験から、肌の色がコンプレックスに変わっていきました。当時を乗り越えられたのは、お母さんが「あなたの肌は綺麗よ」「みんな羨ましいからそんなことを言うのよ」と、肌の色を褒めてくれていたからだと思います>(2015年8月8日ハフポスト)

 ナイジェリア人の父と日本人の母を持つ、東北楽天ゴールデンイーグルスのオコエ瑠偉さんもこう言っている。

「正直に言いますけど、ハーフの人はみんな感じていると思います。日本人はいじめ、差別じゃないっていうと思うけど、日本で暮らしている人にはいろんな思いがあるんです。生まれ育ってきても内心どこかで自分自身は日本人とは違う(とみられている)というのがある」(2017年9月5日ベースボールチャンネル)

 在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチなどを考え合わせると、「日本には人種差別の歴史がない」と言うのは、現実を知らないか、自分自身の差別意識から目を背けているかのどちらかではないか。

 また、在留外国人も訪日外国人も年々増えている中、日本の価値観では「差別する意図はない」からそれでよい、とだけ言っていてよいのだろうか、とも思う。最初に問題を指摘したのは、横浜在住のアメリカ人である。しかも、彼のツイッターなどにより、浜田さんのブラック・フェイスの写真は世界に発信された。SNSの世界では、国境は関係ない。

 それに、ブラック・フェイスを差別的に受け止める倫理観や感性を共有しているのは、アメリカだけではない。イギリスも同様だ。そうした価値観はさらに広がり、オランダのクリスマスのお祭りで、サンタクロースの従者として登場する「ブラック・ピート」に対しても批判が起きている。最近のアムステルダムでは、白人が顔を黒く塗って黒人に扮する代わりに、灰色の顔をした煙突掃除のピートが登場した、とイギリスBBCは報じた。

 来年にはラグビー・ワールドカップが開催され、再来年にはオリンピック・パラリンピックで世界中から人が集まる。

 海外での倫理観と感性の変化を知らないまま、日本が全く「差別する意図」なく、むしろ敬愛の情と共にブラック・フェイスで“おもてなし”をしたとしたらどうだろう。ブラック・フェイスに対して、私たちが「保毛尾田保毛男」に感じるような嫌悪感を抱いている倫理観と感性の持ち主たちに、「差別する意図はなかった」という弁明は通用しない。

 ブラック・フェイスは、自身への侮蔑や差別的な表現として少なからぬ人々に不快の念を抱かせることは、実感をもって共感できないとしても、少なくとも教養として知っておくべきだろう。公共の電波を使い、人々の倫理観と感性に大きな影響を与えるテレビ局はなおさらだ。漫然と、面白いからというだけでブラック・フェイスを流し続けるのではなく、こういう企画が上がってきた時に、まずは立ち止まって考える必要はあるのではないか。

 私自身も、今回の問題を機に、自分の中にも差別する心があることを認めながら、時代に合った倫理観と感性とは何なのかを考えていきたいと思う。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)