山本健一・元マツダ株式会社会長が逝去されました。1922年9月16日- 2017年12月20日、享年95。

山本さんから頂戴した私的回想録の1冊『REに挑戦した二人の男』(松田恒次社長と山本さん)の始まりには次の一文があります。

発明者 フェリックス・バンケル* 1988 享年86
NSU社長 G. S. ハイデカンプ 1983 享年78
NSU部長 ワルター・フレーデ 1984 享年74
マツダ社長 松田恒次 1970 享年75
(注* 人名カナ表記は山本さん式)

…既に鬼籍に入ってから相当の歳月が流れているが、REの歴史に新しい、世代の世代が来ていることを感じさせる。」そして『最後の革新者』山本健一さんが他界されました。

山本さんは、広島人父君の日窒工場長時期に熊本に生まれました。

山本家は日窒の東洋工業(マツダ旧社名)との資本提携で、広島に戻り、山本義雄氏は東洋工業専務まで務めらました。REを導入された松田恒次社長とは同期に役員に就任された方です。

山本さんは1944年東京帝国大学機械工学科卒業。私のモーターファン誌人物シリーズ・インタビューの山本さん第1声は、「私はロマンチスト、私のロマンは空と海の飛行艇」でした。飛行艇メーカーとして名高い川西航空機社に入社しましたが、太平洋戦争勃発で海軍技術士官として軍務に就きます。霞ヶ浦、木更津海軍工廠で特殊攻撃機“橘花”機体製作監修が任務でした。

終戦で広島実家に戻りますが、敗戦空白ゆえの無為で荒んだ生活を憂えた母堂が、亡父のマツダ時代僚友役員の村井時之助技術担当常務を訪ね、雇用を梱願します。

 

村井さんは、戦前海軍工廠技術幹部退官後にマツダに入社された方です。材料、鋳鍛造、製法の権威で、戦後のマツダ先進技術の基礎を構築された技術者、経営者でした。1967年八重洲にあった東京本社での2代目ファミリア発表会、71年モーターファン・カーオブザイヤー(現COTYのルーツ)授賞式で村尾副社長(当時)にお目にかかれたのは幸運でした。

山本さんは、唯一所有した海軍士官正装を着用し、マツダ本社で村尾役員の面接を受けました。「君はいったい、なにをしたいのだ。」という問いに対して山本さんは、「現場をしばらく習得し、設計に移りたい」なる希望に返ってきた一喝。「現場を選ぶなら一生の仕事と覚悟せよ。」山本社員は、主商品3輪トラックのトランスミッション組み立て部門に配属されます。上司の特別許可を受け、設計図面を勉強した彼に着目したのは、ある日工場を訪れた設計エンジニアなる逸話が残ります。山本さんご自身は、村尾役員と、村尾さんを通じて家系を知った松田恒次専務(当時)が目をつけておられ、設計者として起用されたと感じたとのことです。

 

1949年初半、設計部に移り1年半たった山本さんは、村尾専務に呼ばれます。

3輪トラックの大型化に対応する新型OHV・V2気筒エンジン設計開発担当を命じられます。26歳の青年“発動機設計係”の興奮と緊張は察するに余りあります。英2輪車アリエルを手本にした初作は失敗、サイドバルブに固執したベテラン設計者たちが、村尾専務と若手の対策会議に現れ猛反対。黙って聞いていた村尾専務、ベテランに向かい、「下がってよろしい。」若手技術者との会議を継続しました。

山本チームが次に参考にしたのが、某2輪店主が屋根裏に隠蔵していた英トライアンフ2輪エンジンでした。アリエル、トライアンフともに機種名は不明ですが、興味のあるのが2ブランド同設計者の可能性です。CTエンジンのシリンダー外部2本のパイプに収めたプッシュロッド、燃焼室形状など、アリエルからトライアンフに移った鬼才エドワード・ターナー設計に共通します。これは、1958年浅間レースでトライアンフに敗退したチーム裏方の推理です。

CTエンジンは、OHV、半球形燃焼室、回転排気バルブ、油圧タペット、そしてセルフスターターなる最新技術を盛り込んでいました。CTと派生型は、大成功商品となり、山本さんは設計主任に昇進します。

 

 

計部次長に昇格した山本さんの秘密計画が軽3輪車です。

通常タイプの縮小版ではなく、風雨防備フルキャビン、ステアリングホイール、低重心化のため、キャビンと荷台間の低い位置ミドシップの搭載したOHV・V2気筒など、先進的機構とマツダ・デザインを指導した小杉二教授の傑作の一つです(次のマツダ最初の乗用車、軽R360なども小杉指導です)。山本さんの責任でプロトを製作し、恒次社長の承認を得ました。オーナー社長下では、たいへんな賭けだったでしょう。

 

1959年秋、独NSU社とバンケル研究所は、画期的回転型(往復運動ピストンに対し)内燃エンジンの実用化を発表した。「バンケルRE」である。欧米日の自動車、モーターサイクル、船舶、汎用機器メーカーがライセンス購入のため、門前市を成したと報じられました。

 

折しも日本自動車産業は、政府主導の再編成が噂されていました。松田恒次社長は、独立存続と成長の強力な手段としてバンケルREライセンス取得に動き、成功しました。

当初、マツダのRE研究は、複数技術部門から編成したRE研究委員会が実行しました。NSUからKKM400プロトエンジンが到着、それをべースにマツダ型を試作、実車実験しますが、問題続出。山本健一設計部次長は、委員会メンバーではなく、REは松田社長の将来を見据えた先行プロジェクトと受け取っていたとのこと。しかし、村尾副社長は、山本次長にネッカーズルムNSUを訪れ、開発状況を調査、報告するように命じます。山本次長の報告は、NSUのライセンサーとしてRE多分野適用の逸り、企業規模として材料研究部門能力不足などを率直に指摘しています。

 

 

 

山本さんにとっては、晴天の霹靂でした。村尾副社長は、松田恒次社長直々の命令として、山本次長にRE研究部を設立し、組織をつくり、部長に就任すべしと伝えます。山本さんのお言葉、「自動車産業とは保守的なもの。確立されている技術、継承、生産、販売、整備などの規模を考えると、そうならざるを得ない。既存のレールを走ってきて、その上で会社の存続と成長への貢献に努力してきた。そのレールを降り、未知の土地に新しいレールを敷設せよなる令。」一時は、設計部の組織と人・物資源を離れ、独立部門の設立は降格ではないかと、疑義を抱いたともらされました。しかし、松田恒次社長のREなる新天地への情熱と執念に感動されました。「松田社長に応えねば、人として生まれてきた価値がない」が山本部長の決意でした。

 

私のマツダRE車取材は、1967年英誌MOTORのコスモスポーツが最初で、対応して下さったのはRE研究部調査課長の烏田祥三課長。まず、面接でRE知識範囲について質問を受けました。そして宇品工場脇の広場(コース以前)で試乗。翌1968年ファミリア・REクーペは、三次テストコース試乗許可、そして山本健一RE研究部長のお話を聞くことができました。コスモは世界最初の2ローター市販車、ファミリアは世界最初の量産販売RE車となります。(つづく)

(山口京一)

 

『最後の革新者』山本健一・元マツダ株式会社会長の思い出/山口京一【RE追っかけ記-特別編1】(http://clicccar.com/2018/01/09/547313/)