『シルトの梯子 (ハヤカワ文庫SF)』グレッグ イーガン 早川書房

写真拡大

『宇宙消失』では人間原理、『ディアスポラ』では六次元時空構造、『クロックワーク・ロケット』では直交物理学......と、手を変え品を変え、読者の科学理解をあっさりとぶっちぎってくれているイーガンである。多くのSFファンはサッパリわからないといいながら、そのなんだか凄えイメージと案外叙情的なところもある物語に大喜びして読んでいるわけですが、こんかい訳された『シルトの梯子』はもうわからなさの極地。下敷きになっているのは量子グラフ理論。聞いたこともありません。


 サルンペト則はあらゆるグラフについて、それが別のグラフに変化する確率に量子振幅をあたえる。サルンペト則が予測するさまざまな事柄のひとつは、もしグラフに三つの三価の節点と三つの五価の節点が交互に並んだループが含まれているとしたら、そのグラフは、同じパターンを持つけれど隣接する節点の集合へ移動したものに変化する確率がもっとも高いだろう、ということだ。このようなループは光子として知られる。


 だあー。書き写すだけでタイヘンだ。こんなの、よく訳したなあ。マコトに偉い。

 もちろん、ぼくとて伊達に何十年もSFを読んでいるわけじゃない。こういう理論的蘊蓄につぶさに理解しようとすると、かえって全体が見えなくなると知っている。ここは思い切って「カッコイイ修辞だ」と割りきって、雰囲気だけ味わってすませてしまおう。

 物語は、このサルンペト則の実験のため、青色準巨星ミモサから半光年、地球からは三百七十光年離れた宇宙ステーションへ、研究者キャスが到着するところからはじまる。スペースに余裕がないため、キャスは生まれたままの姿ではなく、身長一ミリメートルの身体に入っている。いまから二万年後の未来なので、人間はオリジナルの身体にこだわりがないのだ。こうした事情もイーガンは細かく書きこんでいるのだけど、マジメに読みとろうとすると骨なので、オリジナルの身体にはこの世紀の人間はだれもこだわらないけれど、(1)身体があるほうがしっくりするね派と、(2)ないほうがサッパリしてイイじゃん派----がいるくらいを押さえておけば大丈夫。

 このキャスの実験の顛末を描く第一部がこの作品の最大難関で、物理学ジャーゴンのオンパレードで、たいていの読者は置いてきぼりになる。この邦訳には、物理学者・前野昌宏さんの解説がついているのだけど、これも難しすぎて手助けにはならない。楽に読みたい読者は第一部は飛ばして読むといい。キャスという研究者が実験をしくじって、別な物理法則を持つ宇宙がどんどん拡大し、こちらの宇宙を浸蝕するはめになる----とだけ了解しておけば、その先を読むに支障はありません。

 第二部は、その実験失敗から六百年後。別な宇宙----新真空と呼称されている----は光速の半分のスピードで拡大をつづけ、人類が住む惑星もいくつか飲みこまれていた。人類はその境界面近くに宇宙船〈リンドラー〉を置いて観測をつづけており、そこへ新しい主人公チカヤが到着する。チカヤは人類が新真空に順応する手段を模索する「譲渡派」だが、それに対抗して新真空を破壊すべきと主張する「防御派」もいて、両者のあいだで緊張が高まりつつある。もっとも、譲渡派も防御派もいまだ具体的なプランすら立っていないのだが。なにしろ、相手は物理法則が違う----そしてどう違うのかすらわからない----領域で、境界面を超える探査さえままらないのが現状だ。

〈リンドラー〉内でおこなわれる議論で大きな焦点となるのは、キャスが実験の根拠としていたサルンペト則の正当性である。サルンペト則が正しければ、キャスがつくった別な宇宙は六兆分の一秒しか存在しないはずだった。それが崩壊せずに拡大しつづけている。あるいはニュートン力学がごく特殊な条件下でしか厳密でないように、サルンペト則も限定的にしか成立せず、それを含むより包括的な理論があるのかもしれない。

 二十世紀の人間が相対性理論によって物理時間の概念を変えなければならなかったように、われわれにも新しい量子グラフ理論に基づく宇宙観がもたらされるのだろうか----と、チカヤたちは感じている。ポストヒューマンがポストポスト宇宙論に思いを馳せているわけで、現代人はこのくだりを読んでいてクラクラするばかりだ。

 そのいっぽうで、この小説には現代人にもわかりやすい人間ドラマもあって、チカヤは〈リンドラー〉でかつての恋人マリアマと再会する。ふたりは同じ町で育ち、かつては甘酸っぱい青春をともにすごしたが、その後、別々の道を歩むことになったのだ。それが四千年の時を経て----この時代の人類は長生きなのだ----、こんなところでまた出逢った。ああ、なんと、運命の前に宇宙は狭すぎることよ!

 しかし、マリアマは「防御派」に属していた。陳腐な物語だと、ここで恋か主張かのコンフリクトがあってドラマを盛りあげるわけだが、もちろんイーガンはそんな手垢のついたことはしない。物理は物理、感情は感情と、チカヤは最初から割りきっている。とはいえ、マリアマのことはずっと気になっており、マリアマもなんだか思わせぶりなのだが。ちなみにこの時代、性差はまったく意味をなさないのだが、小説的なおさまりとしてチカヤが彼でマリアマが彼女という割りふりになっている。

「防御派」が目論んでいるのは、新真空を"食べて"良性のなにかを排出する、量子グラフ・レベルに埋めこまれた自己生成するパターンの開発だった。それはプランク・ワームと呼ばれる。しかし、チカヤにとって、新真空を研究して得られるであろう知見を破棄してしまうことは、知的堕落としか思えない。

 そもそも、人類の多くにとって、新真空はなにか怖ろしい爆発によって生じた火球のようなイメージでしかない。それをまず疑うべきではないか。そんな矢先、新しい観測方法によって、新真空との境界面において興味深い映像サンプルが得られた。もつれあった辺の塊が入り組んだ波になってグラフを貫流している。最近〈リンドラー〉に到着したウムラオというメンバーが、これは生物圏だと看破する。

 なんと、大きさ十のマイナス三十三乗メートルの生物! いくら人格がデータ化されている未来とはいえ、これを生物と見なすことが妥当だろうか? パターンの震動にすぎないのではないか? 登場人物のあいだでそんな議論が戦わされる。

〈リンドラー〉が騒然となるなか、「防御派」が勇み足をしたことで、ひとつのモジュールが三人を乗せたまま境界面へと落ちはじめる。その三人のなかにはマリアマがいた。

 チカヤはマリアマを助けられるのか? そして新真空の生物はどうなるのか? 「防御派」がプランク・ワームを放つという気配もある。さまざまな意味で、一刻の猶予もない状況だ。

 そこから先は、まあイーガンだから一筋縄ではいかないのだが、基本的には宇宙SFや冒険物語の流れに乗っていく。難しく考えずとも充分に楽しめる展開だ。気になるチカヤとマリアマの恋のゆくえも、ちゃんと決着がつく。

 グラフ理論に関するこみいった叙述は別にしても、随所にイーガンらしい発想がちりばめられていて、ファンにとってはそれが堪らない。

 ぼくがとくに感心したのは、人格が容易にデータ化される時代にあっても、人間には生体由来の身体感覚や内分泌腺的反応が残響のように残っていて、新しい身体----人間離れした形態の----になっていても、ときおり意識するところだ。

 恋愛感情や性衝動についても、それと似たところがあって、チカヤの〈リンドラー〉の仲間のひとりヤンは、つぎのように言い放つ。


「きみたちが伝統的なやりかたを守っているのを、まちがいだといっているんじゃないよ。きみたちはゆるぐことのない哺乳類の神経生理学的特性のある部分をマップしていて、それは原型の段階では病的すぎるということはない。それはいまでも軽い実存的偽薬の役割とともに、有用な社会的機能を果たしているんだろう。だが、影響されやすい精神構造を持っているときには、快楽を得るために快楽を増強するのは、とても退屈な袋小路だ」


 こうした妙な理屈っぽさが、いつもながら面白い。

(牧眞司)