(写真提供=SPORTS KOREA)

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1988年のソウル、1998年の長野、2008年の北京と、東アジアでは、末広がりで縁起がいいとされる八の年に、五輪が開催されている。

そして2018年の今年、平昌で冬季五輪が開催される。

金正恩氏が表明した「代表団」とは

その元旦、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は、平昌五輪に「代表団の派遣など、必要な措置を講じる用意がある」ことを表明した。

平昌五輪への北朝鮮の参加を熱望している韓国政府は、この呼びかけにすぐに応じた。

ただし、金正恩氏が表明したのは「代表団」であって、「選手団」ではない。

IOC委員である張雄(チャン・ウン)に、少数の随行員を加えても代表団だし、仁川アジア大会の閉会式のときのように金正恩の側近である実力者を派遣することもあるし、選手団を派遣することもある。

どのような規模、形にするかは今後の交渉次第ということだろう。

平昌五輪まで時間はそれほど残されていないが、韓国側には、地に足がついた交渉姿勢が求められる。
(参考記事:【画像】キム・ヨナとイ・ボミだけじゃない!! 平昌五輪の“美しすぎる広報大使”たち

ソウル五輪は“人質”だった

年末年始にかけて韓国で話題になった映画に『1987』という作品がある。

1987年1月、公安の水拷問でソウル大生の朴鍾哲が死亡。この事実が明るみになると、民主化を求めるデモ、いわゆる6月抗争が起き、韓国は民主化へと進む。

私はまだこの映画を観ていないが、当局が必死に隠そうとした拷問死がいかに明らかになり、6月抗争に発展したかを描いた作品のようだ。

私が初めて韓国に行ったのも、1987年の夏だった。

当時はまだ全斗煥による軍事政権の時代。至る所に銃を携えた軍人や警官が立ち物々しかった。

新興工業国とか、中進国とか呼ばれ、先進国入りも遠くない状況であったが、交差点で信号待ちをしていると、物乞いが駆け寄って来るなど、貧しさも感じられた。

それでも、ソウル五輪を翌年に控え、国中が熱気やエネルギーに満ち溢れていた。

当時の全斗煥政権は、ソウル五輪を成功させ、長期権力の意地を目論んでいたようだ。

しかし6月抗争が起きると、戒厳令を敷いての手荒な弾圧は、ソウル五輪にも影響しかねない。いわば五輪を人質に取られた形で、国民が求めていた大統領の直接選挙制度を認めざるを得なかった。

五輪のような巨大イベントは、政治家の権力意識をくすぶるが、権力者の思い通りにいかないのも、五輪である。

それでもソウル五輪は、軍事政権の暗いイメージがあった韓国のイメージを一変させ、世界に存在感を示す契機になった。

長野五輪が韓国に与えた影響

そして民主化の方は、1987年12月の選挙では民主化のリーダーである金大中と金泳三がまとまらず、票が分散したため、全斗煥の側近で軍人出身の盧泰愚が大統領に就任したが、1993年に金泳三が大統領に就任し、本格化する。

軍事政権時代、知事や市長は官選であったが、民主化が実現した1995年からは、直接選挙で選ばれることになった。

民選初期の知事や市長は、形に残る実績作りに躍起になった。1990年代後半から2000年代の初めにかけて、韓国各地にコンベンションセンターや歴史資料館などの箱物が作れた。

同じ流れの中でメガスポーツイベントが相次いで招致される。2002年の日韓共催のW杯、同年の釜山アジア大会、2003年の大邱ユニバーシアード、2011年の世界陸上大邱大会、2014年の仁川アジア大会、2015年の光州ユニバーシアードなどである。

その中で取り残されたのが、平昌のある江原道(カンウォンド)であった。2002年のW杯で韓国では、済州島を含めた10都市が会場になったが、江原道は外された。

ちょうどその時期に開催されたのが1998年の長野五輪であった。

長野五輪は、ボブスレー会場などが「負の遺産」になるなど問題を残したが、新幹線が開通するなど、インフラが整備された。

1998年から2010年まで江原道知事を務める金振兟は、そのことに刺激を受け、五輪招致に本腰を入れる。

そして2度の落選を経て、2011年に平昌五輪の招致に成功する。

そしてソウルと平昌、江陵(カンヌン)を結ぶKTXが開通するなど、インフラ整備の目的は、ある程度達成された。

平昌五輪は“時代の変わり目”

けれども、ソウル五輪から平昌五輪までの30年の間に、韓国は大きく変わった。

ソウル五輪や日韓共催のW杯の頃の韓国は、スポーツイベントは、そのイベント自体の収支よりも、外観を飾り、発展し、躍動感のある姿を海外に見せることで、国のブランド価値を高めるという宣伝効果の方に重きを置いていた。実際、この両イベントの宣伝効果は抜群であった。

ところが、イベントも数を重ねると宣伝効果は減少し、イベントそのものの収支が問われることになる。

その転機になったのが、14年の仁川アジア大会であった。

韓国ではアジア大会もメガスポーツイベントとして重視されてきたが、オリンピックやW杯を経験した国民にとっては、大したイベントではなくなっていた。

しかも大会の赤字により、住民福祉の予算までが削られると知らされると、メガスポーツイベントに対する韓国での熱気は、急速に冷めていった。

韓国では「58年戌年」という言葉が盛んに使われる。朝鮮戦争などの影響で、韓国のベビーブームは日本より約10年遅く、1958年生まれが、そのピークの団塊の世代となる。

ソウル五輪の頃は、韓国人もまだ若かった。しかしその後の少子高齢化は、社会問題になっている日本よりもさらに速いペースで進んでいる。

そして今年、ベビーブーム世代が還暦を迎える。韓国は外見的な華やかさより、福祉など、生活の質が重視される時代になった。

そこに平昌五輪である。

平昌五輪は、ソウル五輪の成功や地方自治時代の始まりの熱気を受けて招致されたメガスポーツイベントの最終走者である。

韓国はこの時代の変わり目をどう捉えるか。

その観点からも、今回の平昌五輪は興味深い。

ただし、平昌五輪で韓国のメガスポーツイベントの開催が当面打ち止めになるかどうかは分からない。

それは、平昌五輪を韓国の人たちがどう評価するかにかかっている。

(文=大島 裕史)

初出:ほぼ週刊 大島裕史のスポーツ&コリアウォチング