今、東京の男女が密かに抱えている悩みがある。

恋人や夫婦間での、肉体関係の喪失だ。

この傾向は、未婚の男女においても例外ではない。

2017年冬、相思相愛だったはずの彼・健太からプロポーズされた美和子は、涙を流す。

ふたりの5年間に、何があったのか?

実は同棲1年が経つ頃から、ふたりは不完全燃焼の夜を境に“プラトニックな恋人となっていた。美和子は思いをぶつけるが、レス問題は一向に解決しない。

30歳になった美和子は、学生時代の友人・茜に悩みを相談。御曹司・瀬尾を紹介され、健太と別れることを決意し家を出る。

そのまま瀬尾と夜を共にした美和子は彼のマンションで暮らし始めるが、大学時代の友人・杏奈から彼の過去について知らされ動揺する。




瀬尾さんの暴走


「美和子、週末は空けておいて」

朝、一糸乱れぬスーツ姿の瀬尾さんにブラックコーヒーを手渡すと、彼は思い出したようにそう言った。

相変わらず、否定する余地のない言い方。黙って頷く私に、彼は一方的に続ける。

「両親に会ってもらいたいんだ。僕から美和子のことは話してあるし、形式的な顔合わせだから緊張しなくて大丈夫。両親も結婚に賛成してくれているから」

「え!?」

その言葉に慌てた私は、高い声が出た。

結婚前提の付き合いであることは理解していたが、まだ正式にプロポーズされたわけではない。私の気持ちを確認する前に、まさか両親にまで話がいっているなんて。

抵抗の意図で聞き返したのだが、彼は私がただ気後れしているのだと思い込んでいるようだ。

「僕の母親は美和子と同じ学校なんだ。母は茜と同じで小学校からの付属組だけどね。そのことと、父親が銀行員、母親は専業主婦だということも話したら両親はとても好意的に受け取っていたよ」

瀬尾さんは満足そうにひとり頷くと、無言のままの私を気にすることもなく「じゃあ、また連絡する」と言って家を出て行ってしまった。


暴走する瀬尾さん。その強引さに、最初は惹かれていたのだが…


-このままではいけない。

私はようやく、自分の置かれている状況に危機感を抱いた。

瀬尾さんの強引さに惹かれたのも、そしてそれに甘えたのも、他ならぬ自分自身であることは重々わかっている。

杏奈に聞かされた彼の過去、そして徐々に浮き彫りになっていった、彼の私に対する異常な執着。

しかしその歪さに気づいた後もすぐに彼の元を離れなかったのは…彼に抱かれるたびに満たされる女の部分が、私の判断力を鈍らせていたからに他ならない。

支度を終え、玄関でパンプスを履き、鏡の前に立つ。

そこに映る、スリットの入ったペンシルスカートをはいた自分が妙に艶かしく見えて、急に恥ずかしくなった私はもう一度靴を脱ぎ、パンツに履き替えるため寝室へと戻った。

「…しっかりしなきゃ」

着替えを急ぎながら、私は覚悟を決めるように、自分に言い聞かせるように、そう声に出した。




先輩・百合さんからの助言


「ちょうど良かった。私も美和子に話があったのよ」

その日の夜、東急プラザ銀座の『アポロ』で、私は百合さんと随分久しぶりに乾杯をした。

お昼休みに私から“今日の夜会えませんか”とLINEをしたら、すぐに快諾の返事が届いたのだ。

百合さんがレスだった夫と離婚してから、早いもので半年以上が経つ。

彼女の再婚の噂は聞いていないが、Vネックから覗く胸元やノースリーブから伸びる腕に艶があり、きっと誰かいい人がいるのだろう、と私は勝手に推測した。

「私から話してもいいかしら」

先手を打つように百合さんが私に尋ねて、私は「どうぞ」と笑いながら頷く。

彼女の幸せそうな雰囲気から、きっと自身の恋愛近況を報告したいのだろうと思ったのだが、しかしそれはまったくの思い違いだった。

「…健太くんから、聞いたわ」

しばしの沈黙の後、百合さんは絞り出すような声で、まるで自分の事のように苦しそうに、そう言ったのだ。

「山ちゃん覚えてる?...ほら、私の大学同期で健太くんの先輩の。実は山ちゃんを通じて、健太くんから呼び出されたのよ…美和子のことで相談があるって。それで、全部聞いた。…美和子も、私と同じ苦しみを味わってたなんて」

そこまで言うと百合さんは、胸のつかえを吐き出すように大きく息を吐いた。

私は表情を固くしたまま何も言えずにいたのだけれど、百合さんの包み込むような瞳を目にした途端、それまで抑えていた感情が堰を切ったように溢れてしまった。

熱い、と思った時には、涙が頬を伝っていた。

「やだ、泣くつもりなんてなかったのに。…ごめんなさい」

慌てて涙を拭う私に、百合さんはゆっくりと首を振る。

「私は美和子の味方だし、同じ思いを経験しているからこそ、美和子がどれだけ傷ついたか、悩んでいたかわかる。そしてそれを、パートナーにどう伝えて良いかわからなかった気持ちも。私は夫と別れたことを、後悔してはいない。でも…」

百合さんはそこで一度口を閉じ、私が顔を上げるのを待って、そして力強く言い切った。

「美和子と健太くんは、今ならまだやり直せる」


健太とやり直せる?百合さんの言葉に美和子は…


後悔の涙


-健太と、やり直せる?

百合さんの言葉は私の心に、一筋の光を差した。しかしそれを希望の光だと感じる自分に、私は同時に絶望する。

そんな都合のいいことが、できるはずないのだ。長年のレスに耐えきれず、瀬尾さんの元に走ったのは、他でもない、私自身なのだから。

「健太くんね、美和子と一からやり直したいって言ってた。レスになってしまったのは、自分のせいだからって。毎日一緒に暮らすうちに存在が当たり前になって、美和子を女性として扱うことを怠ってしまった自分が悪かったって。

改善できるかどうかは…正直、わからないけど。それでも、もう一度だけ向き合ってみてもいいんじゃないかな?少なくとも、健太くんはそれを望んでた」

百合さんは私の顔色を伺いながら、慎重に言葉を選ぶようにして健太の思いを伝えてくれた。

健太が、今でも私を必要としてくれている。他の誰でもなく、この私を。

その事実に、私は胸が締め付けられる思いがした。

「私にはそんな資格ないんです。今さら健太の元に戻るなんて。だって私はもう、他の人と…」

言いながら、また涙が溢れた。

それは紛れもなく、後悔の涙だった。

「…そう、だったの。でもね、さっきも言ったけど、私は美和子の味方だから。この先どういう選択をしようと、美和子が幸せになってくれればそれでいいの」

最後まで言えず言葉を詰まらせた私に、しかし百合さんはすべてを理解した様子で穏やかな笑みを向けた。

「美和子、自分を責めないで。誰だって間違うことはある。だけどそういうお互いの過ちも弱さも赦しあっていける相手こそ、人生を共にするべきパートナーなんじゃないかな。まあ…離婚した私が言っても、説得力ないか?」

最後は冗談っぽく笑って舌を出すと、百合さんは小さく息を吐き、そして窓の外を眺めながらワインを流し込んだ。




百合さんと別れたあと、銀座の街を歩きながら、私は夢中で賃貸物件を検索していた。

健太とやり直すことは、考えていない。さすがにそれは都合が良すぎるし、そもそもよりを戻したところで、また同じことの繰り返しになる可能性の方が高いのだから。

しかし百合さんの助言は、私にとても大切なことを思い出させてくれたのだ。

-過ちも弱さも赦し合っていける相手こそ、人生を共にするべき相手。

健太は、レスになってしまったのは自分のせいだと語っていたと言う。しかし私は、長年のレスに悩み、不満を募らせてはいたものの、それを健太のせいだと考えたことはなかった。

健太が悪いわけじゃない、誰のせいでもない。苦しんではいたけれど、彼を責めたことは一度もなかった。

一方で私は、瀬尾さんの過去、異常な執着、他人の気持ちなどお構いなしの言動…そういう彼のマイナス要素を赦すことができるだろうか?

その答えは、迷いなく否だった。

▶NEXT:1月16日 火曜更新予定
ようやく自分の気持ちに気づいた美和子。しかし回り始めた歯車は、簡単に止められない。