ジョンとヨーコのヌード表紙、米大統領選取材など、RS誌にまつわる10の真実

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新参者の雑誌からロックンロールのバイブルへと成長したローリングストーン誌を追った新たなドキュメンタリー映画が、米HBOで制作された。

『Rolling Stone: Stories From the Edge』で監督を務めたアレックス・ギブニーとブレア・フォスターは、歴史的なパフォーマンスの映像、アイス-Tをはじめとするアーティストや、ビル・クリントンら大統領のインタヴュー、伝説的ジャーナリストのハンター・S・トンプソンを演じたジョニー・デップの特集記事など、同誌の歴史に残る重要なアーカイブの数々をつなぎ合わせ、一つのドキュメンタリー映画として仕上げた。同ドキュメンタリーでは、ローリングストーン誌の歴史を年ごとにただ追うのではなく、1972年のハンター・S・トンプソンによる大統領候補ジョージ・マクガヴァンへの密着取材から、3年後のパティ・ハースト特集記事へというように、同誌の歴史上の重大事が次から次へと展開する。以下に、ドキュメンタリーで明かされる数々の真実の中から、同誌にまつわる10のエピソードを紹介しよう。

1.創刊のきっかけは、当時軽視されていたとある芸術に正当な評価を与えるため

今ではとても考えられないことだが、ヤン・ウェナーがローリングストーン誌を創刊した1967年当時、ポピュラー音楽を真面目に取り上げる出版物など、ほとんどなかった。「ロックンロールは、とてつもない変化を遂げたものの典型例で、今も、そしてこれからも変わり続ける」と若きウェナーは、テレビのインタビューで明言している。「これまではロックンロールを取り上げられるべき形で取り上げ、扱われるべき方法で扱っている出版物が一つもなかった」

2. ジョン・レノンとオノ・ヨーコの裸の姿が、無名だったローリングストーン誌に対する注目度を高めた


Annie Leibovitz

1968年、ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、アルバム『トゥー・ヴァージンズ(原題:Unfinished Music No. 1: Two Virgins)』のアートワーク用に、自分たちのヌード写真を使うことを決めた。レノンとしては、有名になった引き換えに常に好奇の目に晒されることへの反抗のつもりだった。「僕のような人間はいつでも、”何かあいつの秘密を暴いてやろう”という人々に監視されている。”今何をしているんだろう?”とか”トイレへ行くのか?””食事はするんだろうか?”という感じさ。それで言ってやろうと思ったんだ。”俺たちのありのままを見ろ”ってね」

アルバム・カバーは即座に発禁となった。ローリングストーン誌はこれをチャンスと見てレノンに手紙を送り、問題となっているカバーのオリジナル写真を掲載する許可を得た。「とにかく、我々が世間の注目を集めた初めての出来事だった」とウェナーは振り返る。「サンフランシスコ・クロニクル紙は”ビートルのヌードがサンフランシスコを危険に晒す”との見出しの記事を掲載した。私はこれですべてを悟った。有名人のペニスを掲載すれば、世界中から人々が殺到するということをね」

3. ローリングストーン誌はライターを長い目で見てくれる

読者の興味が持続する時間がみるみる短くなっていくのは、Twitter世代には当たり前のこと。しかしこの現象は、昨日今日始まったものではない。「若者世代の興味が持続しないと言われていた時代にローリングストーン誌は、エンドレスな特集記事の掲載を始めた」と、70年代から同誌のライターとして記事を書き始め、自らもいくつかの特集記事を担当したトム・ウルフは証言する。さらに、ウルフが1回あたり5500ワード以上で連載を始めた物語は、後に『虚栄の篝火(原題:The Bonfire of the Vanities)』として映画化もされた小説となった。

「ローリングストーン誌は、チャンスと裁量を与えてくれた。ロード・バックリー(訳註:20世紀前半に活躍した米国の舞台俳優・歌手)の言葉を借りれば、地球の広大な大地の上で跳びはねて踊っているようなものさ」とハンター・S・トンプソンは言う。「そんな扱いをしてくれるところは滅多にない」

4. ハンター・トンプソンのおかげで、重要な政治的オピニオン誌としての地位を確立できた

1972年の大統領選再選へ向けたリチャード・ニクソンの選挙活動を取り上げたトンプソンの取材記事は、型通りのつまらない政治ジャーナリズムから脱却する特集だった。「我々は、2億2000万人の本当にただの中古車セールスマン国家で、すべてのお金は銃を買うために費やされ、自分の気に入らない人間を躊躇なく殺す。この国で大統領になるには、どれだけ身を落とせばよいのか?」

トンプソンの連載は、後に『Fear and Loathing: on the Campaign Trail 72』として出版された。

彼の執筆活動は常に順調という訳ではなかったが、ローリングストーン誌は彼が書き上げるまでに必要なサポートを与えた。「私は締め切りというものに関して扱いやすい人間ではない」とトンプソンは認める。「私が3、4日間姿を現さないと、ローリングストーン誌のスタッフは”これしかない”という実に論理的な行動に出た。ある午後、彼らは予告なしに家に押しかけてきて、どっさりと差し入れを置いていった。メキシコビール2ケース、ジンを5リットル、グレープフルーツの山、そしてスーパーボウル6回分の結果を覆すに十分なスピードを持ってきたんだ」

5. ロック・イズ・デッド 1974年版

ローリングストーン誌の創刊から10年も経たない70年代、既に読者の興味の持続性が問題となり、ロックは昏睡状態を宣告されていた。「ロックはこれまで以上に人気が出ている。しかし社会的なインパクトは全く失われてしまったようだ」と、ライターのジョン・ドーランは1974年に述べている。「カントリー、ジャズ、ストレートポップの要素をユニークな方法で採り入れ、10年前と比べてロックは幅広い音楽になっている。しかしそれでも私には、均一化してしまったように聴こえる。今のロックの大きな欠点は、イマジネーションの欠如だ」

「ロックンロールはもはや誰をも解放しない。ただのバックグラウンドミュージックだ」と、ジャーナリストでライターのロバート・サム・アンソンは言う。「ロックはもう尖っていなし、革命的でもない。ただの巨大産業の一つでしかない」

6. パティ・ハーストを取り上げたことで、国民的なメディアとなる

米国民の関心はパティ・ハーストに集まっていた。新聞社を経営するウィリアム・ランドルフ・ハーストの孫娘という裕福な家庭に生まれた彼女は、シンバイオニーズ解放軍(SLA)を名乗るグループに誘拐され、その後自らが誘拐犯の活動に加担することとなった。1970年代初めのことである。「彼女の話題は広く取り上げられ、大騒ぎになった。まるで70年代のO・J・シンプソンだった。主要メディアは彼女側のネタを掴んでいなかったが、ローリングストーン誌はジャック・スコットという情報源を掴んだ」と、映画ではナレーションが流れる。

SLAに関する本の出版を考えていたライターのスコットは、最終的にハーストの当局からの追究を逃れる手助けをすることとなる。ハーストが勾留されたときには、既にローリングストーン誌はハースト専門家になっていた。「ローリングストーン誌を一流に押し上げたのは、パティ・ハーストの記事だった」とドキュメンタリーでは断言している。「この一連の記事をきっかけに、同誌の認知度がますます上がった」

7. カルチャー記事が増え、「音楽を見捨てた」と非難される

トンプソンとウェナーはいつも一緒に仕事をしていた訳ではないが、80年代初め、トンプソンは古巣へ戻り、パームビーチの新聞王ハーバート・ピューリツァー・ジュニアと彼の妻ロクサーヌの間で争われていた泥沼の離婚訴訟を取り上げた。「ちょうどその頃、我々はカルチャー記事に力を入れていた。”音楽を見捨てた”と非難する者もあったが、決してそんなことはない。我々は(音楽を含む)”カルチャー”を伝えているのだ」

とは言え、音楽シーンがますます細分化されるにつれ、記事として取り上げる方も複雑になっていった。「80年代には、50年代や60年代のように音楽の一つの核となるものがなかった。音楽が多くのジャンルに分かれ、それぞれにメインストリームが生まれた。特集記事はトーキング・ヘッズに割り当て、リードレビューはジョイ・ディヴィジョンに、などページの取り合いだった」

8. ウォルマートから締め出されたローリングストーン誌

テレビ視聴者からの人気も高く影響力のあったエヴァンゲリストで、ジェリー・リー・ルイスのいとこにあたるジミー・スワガートが、ロック雑誌を「純然たるポルノ雑誌だ」と強烈に批判したこともあり、ウォルマートの棚からすべてのロック雑誌が姿を消した。「子ども向けに印刷・発行されるポルノ雑誌が、家族向けの店で販売されている」とスワガートは言う。のちに彼は、売春婦を定期的に買っていたことが発覚し、聖職を剥奪された。

9. ヒップホップの扱いを巡る内部での論争

ドキュメンタリー全体を通じ、編集の優先順位を巡って若いライターとベテランとが対立する姿が描かれている。ドキュメンタリーの前半では、キャメロン・クロウが、ベテランライターたちが見向きもしなかったディープ・パープルなどのバンドを担当する機会を得たエピソードを回想している。80年代後半から90年代初めにかけては、ラップが論争の中心となった。

「ローリングストーン誌で働いているとき、ちょうどニルヴァーナがブレイクし、怒り狂ったことを覚えている」とアラン・ライトは振り返る。「まったく、ロックバンドはたった1曲ビッグヒットがあるだけで表紙になれるのに、世界的にインパクトを与えたアルバムを3枚も4枚も出しているパブリック・エナミーは表紙になれないなんて!」

10. ビル・クリントンの最初の選挙戦取材は幻滅だった

ローリングストーン誌の政治担当は、ビル・クリントンに大きな希望を抱いていた。彼はベビーブーム世代からの初の大統領候補で、当選すれば共和党から12年ぶりの大統領が誕生するという期待もあった。「ヤン・ウェナーはクリントン一家をたいそう気に入り、ハンターも期待に胸を膨らませていた。ハンターはクリントンに、サクソフォン用のフランス製高級リードをプレゼントまでしていた」と、ウィリアム・グレイダーは振り返る。


Mark Seliger for Rolling Stone

ところが、アーカンソーで行われたクリントンのインタビューで、彼に対する皆の見方が変わり始めた。「ハンターは、銃規制法のほか、薬物規制法に関する質問リストを用意していた。しかしクリントンはこのインタビューで、彼がドラッグに対して寛容な一般的リベラルではない、ということを明確に打ち出すことを望んだ。それを聞いたハンターはムッとして席を立ち、15分後にトールドリンクを片手に戻ってきた。それっきり彼はクリントンに質問しようとしなかった。まるで”私からの質問は終わった。あとは勝手に自分がどんな人間か喋っていればいい”といった感じだった」

「私自身もクリントンの可能性については、その頃広く信じられていたように楽観視していた」とグレイダーは続けた。「私の唯一の後悔は、ワシントンで自分が見聞きしたことを誌上で伝えるのが遅れたことだ。クリントンは本質的に、組織労働者や一般労働者を見捨てている。それは政権1年目で現実のものとなってしまった。そしてそれは、若き大統領候補として国民に約束した誓いを破ったも同じである」