学校を監督するモノづくり教育本部長の飛田和彦は、長く勤労・人事畑を歩み日立の「人の流れ」を見てきた。飛田が入社した35年前、日立の国内従業員8万5000人のうちブルーカラーは4万5000人もいた。今は4000人。比率も10分の1に減った。

 しかし飛田は「これ以上国内生産はどんどん減らないだろう」と見る。逆に年200人規模の新人現場作業員を送り込まないと、技能伝承に支障が出るという。高校課程2年の戸村侑司は福島県からやってきた。夢は「技能五輪に出て海外で勤務すること」。

 日立をどんな会社にしたいか?―。社長就任が内定した最初の会見で中西宏明は「人を生かし技術を生かす」と宣言した。いろんな人たちの思いを背負い、中西はもうすぐ「101年目」に向け歩き出す。

よみがえる総本山
 創業100年で社史の新刊編集作業が進んでいる。相談役(元社長)の庄山悦彦が自らこだわって手を加えたのは、1985年に運転を始めた日本初の核融合実験装置「JT―60」。受注時、庄山は日立工場の敏腕設計部長だった。

 日立事業所長の石塚達郎は核融合技術の開発に携わりたくて日立に入った。若き日の石塚は、ダイナミックに人が動く新規大型プロジェクトを目の当たりにし、日立工場マンとして高揚感を味わった。

 ここ数年は海外向け電力設備需要が好調で事業所は活気にあふれている。中国向け100万キロワット級の火力用発電機は出荷間近で作業も慌ただしい。しかし石塚はこの1年、「徹底した見える化」による地道な改善活動を優先してきた。副事業所長の南雄彦とともに週に一度、「グリーンカード」と「レッドカード」を持って工場内を巡回している。

 モーターやポンプなどを生産する山手工場は、一時は価格競争力を失い停滞していた。事業縮小で設計部門に統合されていた製造部門を昨年4月に復活。何十年も改善提案のなかった風力用発電機チームが最優秀の「馬場賞」を獲得。石塚にとって望外の喜びだった。

 今年2月に発電機を生産する電機製造部長に昇格した大源伸次郎は、事業所全体の「モノづくり統括活動」のメンバー。「最初は抵抗もあったが、自動車業界など外部からのノウハウも取り入れた」。ローター(回転子)の加工・組み立てなどメーン作業の時間短縮だけでなく、治具や発送品の配置も緻密(ちみつ)に変更したという。

 去年の夏。プエルトリコから急きょ発電機ステーターコイル(固定子)の取り換え発注がきた。もともと日立の機械ではない。「以前なら断っていたかもしれない」と大源。目立たないが工場内のコイル組み立て現場を整理整頓し、在庫管理を徹底していたことが生きた。材料調達から出荷までわずか1カ月。先方の期待に見事応えてみせた。

 通常、事業所全体の原価低減目標は年3―5%。石塚は円高に先手を売ってガスタービン発電機などには15%以上の数字を設定した。大源らの製造部隊、そして設計部門、外部のサプライヤーも連携しほぼ達成が見えてきたという。

 歴代の日立の社長は日立工場長、副工場長の経験者がほとんど。かつての工場長は王様のように絶対的に君臨する存在だった。工場長(現事業所長)の執務室は本館2階奥。今も変わっていない。JT―60の設計図面は輝かしい栄光として残っている。

 しかし「昔は工場から出すものを売って商売していた。今は工場の中だけで事業を回せる時代ではない」と石塚。“長男工場”として良き伝統と新しい成功体験を発信する役割を期待されている。

「ABWR」先駆者の進化
 戦艦「大和」を建造した旧呉海軍工廠―。バブコック日立(広島県呉市)の工場内には砲塔をつくっていた巨大な穴が当時のまま残っている。通常、穴のふたは閉まっているが、2―3年に1度それが開く。穴は原子炉圧力容器の耐圧試験にうってつけの形状をしている。