「英雄」の真の姿に、歴史家の武田鏡村氏が迫ります(写真:アフロ)

今晩20時からNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」がスタートする。主人公の西郷隆盛といえば、歴史小説・ドラマなどでも数多く取り上げられてきた薩摩(鹿児島県)の大英雄である。鈴木亮平が西郷を演じる今回のドラマでは「愛に溢れたリーダー」として描かれるという。
しかし、西郷の実際の行跡をたどっていくと、「愛」とは真逆の冷酷非情な人物像が浮かび上がってくる。『薩長史観の正体』を刊行した武田鏡村氏に、知られざる「西郷どん」の実像について解説していただいた。

「最大の功労者」と「悲劇のヒーロー」の両面

西郷隆盛は「薩長同盟」を結んで維新回天を行い、江戸城を無血開城した明治維新の最大の功労者として「大西郷(だいさいごう)」「大南洲(だいなんしゅう・隆盛の号)」とも呼ばれ、最高の尊敬を集めている。

しかも、明治政府に反逆した西南戦争に担ぎ上げられた総大将で、敗北して自決に至ったにもかかわらず、悲劇的なヒーローとして国民的な人気を集めている。

明治維新の偉業と明治新政府への反逆という矛盾した行動をとった西郷の人気は、実は数々の暴虐や策謀の末に成立した明治新政府への国民の無言の反感によって成り立っているといってよいだろう。いわゆる「判官びいき」である。

明治新政府がつくり上げた「薩長史観」(参考:なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)では、当然のことながらこのあたりについての評価を下すことなく、西郷を単に傑出した偉人と見なすことで、明治維新で行った数々の不行跡を隠蔽しているように思える。

そればかりか、幕臣であった勝海舟が「おれは今まで天下に恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠(しょうなん)と西郷南洲だ」と、熊本藩士で改革を推進した横井と共に讃えていることを引き合いに出して、幕府の重臣からも認められた人物として西郷を評価する。

あるいは、坂本龍馬が「少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く」と西郷の人物の大きさを語っていることを引き合いに出して、人並みはずれた包容力があったと賛美している。

だが、勝海舟の場合は、西郷と会見して江戸城を無血開城させて江戸を戦火から救ったことから、西郷の度量の大きさを讃えることで自分の業績を誇示したといえる。

坂本龍馬の場合は、西郷は周囲の影響によってしか「響かない」という主体性のない人物であったことを正確にとらえている。事実、西南戦争でも煮え切らない態度を取って、懇願された末に、ようやく総大将についたという経緯がある。

果たして西郷隆盛は本当に傑出した人物であったのであろうか。

僧侶を「殺害」してしまった過去

「私事、土中の死骨にて忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候次第……、天地に恥ずかしき儀の御座候えども、今更になりて候ては、皇国の為にしばらく生をむさぼり居り候」(私は一旦死んだ人間であり、土の中の死骨に等しく、その恥を忍んでいる身であるが、しばらくは皇国のために命を長らえている)(長岡監物宛の西郷隆盛の書簡)

西郷は、幕府の追っ手から逃れてきた京都清水寺の月照(げっしょう)という僧侶と入水自殺を図って自分が生き残り、結果として月照を殺した。先の書簡は、生き残った西郷の悔恨の告白である。

安政5(1858)年11月15日夜半、西郷は月照と鹿児島の錦江湾で入水を図った。月照46歳、西郷が32歳のときである。薩摩藩は月照を殺せと命じていたが、西郷は殺すのは忍びないと、月照と合意して入水したとされている。

だが、維新後に西郷の述懐を聞いた人の話が、『南洲翁逸話』(鹿児島県教育会編)に載っている。

「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。月照が舟の舳先に出て小便をしているところを、後ろから自分が抱き込んで飛び込んだところ、月照のみは死し、自分が生き残ったのは、至極遺憾なわけである」

これによれば、入水は合意ではなく西郷による無理心中で、西郷が生き残ったのであるから、殺人を犯したと見ることもできる。

事件後、奄美大島に流された西郷は、そこで出会った少壮学者で、のちに東大の教授となる重野安繹(やすつぐ)に対しては、次のように語っている。

「さてさて残念な事をした。和尚(おしょう)独り死なして自分独り死に損ない、活きて居るのは残念至極だ。士の剣戟を用いずして身を投げるなどということは、女子のしそうなことで、誠に天下の人に対しても言い分がない。ただ和尚は法体のことであれば、剣戟を用いずして死んだ方が宜(よ)かろうという考えで投身したけれども、寧(むし)ろ死するならば、女子のなすようなまねをして自分独り活き残って面目次第もないと、歯咬(か)みなし涙を流して拙者に話した」(『重野安繹演説筆記』)

薩長史観では、西郷の偉業の前に、この入水は語るに値しないと見ているようだ。

だが、西郷の心には深い悔恨が残り、その屈折した感情の発露として、討幕へのさまざまな卑劣で残虐な行為を行ったと指摘することができるのではないだろうか。

「不犯」から「好色」に変心

西郷は「生涯不犯」、つまり一生涯女性と交わらないといっていたという。そのため月照とは「男色」であったという説もある。

だが、奄美大島に流されると、生き残ったことへの慙愧(ざんき)の涙を流す一方で、現地の女性との間に二児をもうけていた。また、沖永良部(おきのえらぶ)に再流罪になったとき、台湾へ密航して現地の女性に子を産ませたという伝承もある。

もちろん人間の心というものは変化するものである。初心を破ったからといって非難されることはない。

ところが、京都で活躍の場を見出すと、鹿児島に妻がありながら、幕末の志士にありがちな放蕩にふける。奈良屋というお茶屋の仲居のお虎と、祇園の川端井末の女将お末という、肥満した2人の女性を可愛がった。

だが、お末にふられた西郷はお虎に求愛、こちらはうまくいった。お虎は大きな女性で「豚姫」と渾名をつけられていたことが、勝海舟の『氷川清話』に載っている。

西郷は大女が好みだったようで、誰彼となく「お虎の体は最高でごわす」と惚気(のろけ)ていたという。これが土佐藩主の山内容堂の耳に入って、さんざんからかわれたとか。

一夫一妻の現代とは時代がまったく異なり、幕末の志士と称する面々はいずれも愛妾を囲っていたから、西郷だけをやり玉にあげるわけにはいかない。それにしても、「豚姫」の惚気は当時としてもいただけないものがある。

同じ薩摩で西郷の幼馴染であった大久保利通も、無口で実直そうだが、なかなかの女好きで、祇園一力(いちりき)のお勇を囲って子どもをもうけたという。

討幕のシンボルとされる「錦の御旗」は、岩倉具視の側近となる国学者の玉松操(たままつみさお)がでっち上げた草案だが、その材料となる西陣織を買いにやらされたのが、このお勇である。

大久保はこれを長州の品川弥二郎に渡して、「錦の御旗」を作らせた。これが突如として鳥羽・伏見の戦いの最中に翻ったのである。

「討幕の密勅」といい、「錦の御旗」といい、すでに大久保や西郷は、「偽造」と「欺瞞」によって、何が何でも討幕を果たそうとしていたのである。

ちなみに玉松操は「討幕の密勅」にも関与していたが、純粋な「尊皇攘夷派」で、明治新政府の開国方針を約束違反として批判、新政府の招きを拒絶している。

残虐な策謀家としての側面

幕末の日本は開国したものの、いかに外国勢力から自立するかが急務であった。それには国内戦争をせずに外国からの介入を防ぐことである。幕府はもちろん、勝海舟や坂本龍馬も、そのことに腐心していた。

ところが薩摩も長州も、国内の権力闘争に目を向けた。とくに西郷は「自藩意識」だけで行動していた。

西郷は、勝海舟から、幕府を解体して雄藩連合で平和裏に日本をまとめる必要がある、といわれて、はじめて日本を意識するようになったというが、それでも「自藩意識」を取り去ることができない。

西郷にとって薩摩藩は、幕府に代わる権力主体と考え続けたのである。そのためには、さまざまな謀略や恐喝、暴動計画を実行する。

平和的な政権移行として「大政奉還」が行われても、西郷は武力による政権奪取を放棄しなかった。国内戦争への道を追求したのである。

徳川慶喜の「大政奉還」によって新国家への道が開けたと喜ぶ坂本龍馬の暗殺に加担したのは、どうも西郷や大久保であったようである(参考:明治維新より輝かしい「大政奉還」という偉業)。

新体制を決める小御所(こごしょ)会議でも、西郷は「短刀一本あればすむことだ」と反対派を恫喝し、幕府が到底のめない処置を決定させている。冷酷な武闘主義者ぶりを見せたのである。

「大政奉還」後、京都を去った幕府軍を挑発することを目的として、江戸を騒擾化するために薩摩藩士らを送り込んだのも西郷である。

彼らは「薩摩御用盗(ごようとう)」と恐れられるテロ集団をつくり、江戸市中で強盗・殺人・強姦・放火とあらゆる犯罪を行った。大店を次々に襲って、家人らを殺害し、大金を強奪し軍用金とした。江戸城の二の丸にも放火している。江戸の薩摩藩邸を根城にして悪逆非道の限りをつくしたのである。

薩摩の暴虐はここにきわまれり、と怒った勘定奉行の小栗忠順(ただまさ)は、庄内藩を中心にした幕府軍を編成して薩摩藩邸を焼き討ちにした。この知らせを聞いた西郷は興奮して「これで戦端開けたり」と語ったという。

やはり薩摩の暴虐に憤った大坂の幕府軍が鳥羽・伏見に進攻したとき、西郷は桐野利秋に命じて、最初の砲撃を加えさせた。まったく無益な戊辰戦争を始めたのが、西郷であったといってよいだろう。

江戸城無血開場で見捨てられた東北諸藩


江戸城の無血開城は、西郷の英断であるとされているが、そこには、新政府に逆らう藩を討伐することを黙認する約束が、勝海舟との間で結ばれていたのである。

勝は、江戸城を開城することで、東北方面で起こるであろう戦争を黙認したのである。それを知った福沢諭吉は、勝を糾弾している。

その後、東北・越後方面に舞台が移った戊辰戦争では、日本人同士の凄惨な殺戮が行われた。

天皇に忠誠を捧げ続けた会津藩は「賊軍」とおとしめられ、徹底的に蹂躙された。長岡(参考:反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか)や庄内(参考:幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知っていますか)では奥羽越列藩同盟軍が善戦したものの、ほかの東北地方では「官軍」の一方的で残虐な行為が繰り広げられた。

それを惹起したのが西郷隆盛である。NHK大河ドラマ「西郷どん」がどのように都合よく西郷を描こうが、こうした事実は消えない。

庄内藩に対して寛大な措置をとったことがことさら賞揚されるが、それは以前の記事(幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知っていますか)で紹介したような庄内側の努力があったからである。

西郷は「敬天愛人」を唱えていたというが、それとは裏腹な「汚天殺人」を実行した人物であったといわれてもしかたないであろう。