―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人は “新婚クライシス”を迎え、夫婦のすれ違いは深まる。そんな中、英里は元彼・きんちゃんとの偶然の再会に触発され、ついに「子どもが欲しい」と吾郎に宣言する。しかし夫婦仲はギクシャクしたまま、英里は後輩・新一に心を開き始める。




―ふざけるなよ...。

吾郎は高速のランニングマシーンと格闘するように汗を流しながら、英里への苛立ちを募らせていた。

結婚式だの子作りだの、自分に超無理難題を押し付けておきながら、目を潤ませ頬を紅潮させ、フラついた足元で深夜に帰宅した妻。それも、この直近で2回目である。

会社の友だちと飲んでいたというが、きっと先日のように男も同席していたに違いない。

だとすれば、もともと酒に弱い英里がそれほど無防備に酔ったという事実にも怒りが募る。しかも彼女に反省の色は見られず、あの晩以降、夫婦関係はさらに悪化の一途を辿っているのだ。

自覚はないが嫉妬深い吾郎にとって、それは自分への愚弄行為に等しかった。

―もう、絶対に俺から歩み寄ることはないぞ...。

吾郎は自分を奮い立たせるように、BOSEのワイヤレスイヤホンから流れるハードロックのボリュームを一気に上げる。

英里の方からきちんと謝罪を申し出るまで、決して心は許すまい。

だが、プライドを傷つけられ、嫉妬を煽られ、単純に“拗ねて”石のように頑固化した吾郎は、英里から見れば、ただただ氷のように冷酷な男であることに、本人は気づいてはいなかった。


吾郎の嫉妬に気づかぬ英里。気持ちはますます追い詰められ...?


私は、もう必要のない存在?


夫の吾郎が、まるで空気のように英里の存在を無視するようになってから、数日が経過した。

もともとクールで口数は少なく、合理主義の強さゆえに嫌味な態度や物言いも多い吾郎だが、日々一緒に過ごしながらこれほど冷たくされるのは初めてだった。

彼が家で過ごす時間はさらに減り、会話もほとんど皆無。顔を合わせても、吾郎は不機嫌そうな硬い表情を崩さず、目を合わせることすら避けている。

これほどあからさまに夫の態度が急変した原因は、深夜の帰宅の件だけでないはずだ。きっと、英里が提示した4項目についても嫌気が差したのだろう。

英里はそんな夫の横顔を盗み見するたび、胸が締めつけられるような苦しさを感じた。顔が整っているだけに、その寡黙な表情は冷たさを増長させ、妻への愛情のカケラも感じられない。

この重苦しい空間で過ごすのは、英里にとってはまるで拷問のように辛いもので、何度も逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。

しかし一番心に堪えたのは、吾郎の方は、彼自身の生活を何の支障もなく順調に送っていることだった。




気まずい空気の漂う夫婦のベッドでも、吾郎は横になればすぐにスヤスヤと深い眠りに落ち、朝は相変わらず日の出前に起床して運動に励んでいる。

―どうして、吾郎くんは平気なの?

リビングのソファでビジネス書を読むのに集中している吾郎を視界の端に感じながら、英里は心の中で夫に問う。

妻の存在などなくとも、朝から晩まで自分のペースを微塵も崩さず平然と過ごしている吾郎に比べ、英里はどうしても夫を完全無視することなどできない。

ちゃんと食事はしているのか。日々冷えていくこの夫婦関係を、どう捉えているのか。そして、吾郎にとって、もう自分は必要ない存在なのか...。

結局、自分が吾郎に合わせて媚びを売り続けない限りは、この夫婦生活は成り立たないのだろうか。

結婚に否定的な吾郎が自分を妻にしてくれたのだから、共同生活の負担や息苦しさを絶対に感じさせてはいけない。少しでも「結婚してよかった」と思ってもらえるよう、理解ある良き妻でいなければならないと、英里はこれまで自分なりの努力を惜しまなかったつもりだし、その結果、吾郎との関係も良好だった。

しかし、等身大以上の自分を今後何十年も演じ続けるのは到底不可能だし、そもそも、吾郎には“妻”の存在など最初から必要なかったのかも知れない。

―このまま、本当に......離婚......になるかも...。

だが、それも一つの選択であるような気がした。

身の丈に合わない結婚生活を捨てたら、少なくともこの針の筵のような寂しさからは解放されるだろうか。それにこのままでは、年齢的に子作りが難しくなる恐れだってある。

途方もない孤独に暮れる英里だったが、そこに届いたスマホの通知が、心に小さな火を灯す。

それは、今ではすっかり英里の理解者となった、新一からのメールだった。


一方の偏屈吾郎にも、まさかの“理解者”が現る...?!


不覚にも芽生えた、セクシー弁護士への尊敬


「吾郎先生は、今日は奥様同伴されなかったんですか。私、先生を射止めた女を拝見できるの楽しみにしてたのに」

パレスホテル東京のパーティ会場の受付で、ナオミが悪戯ぽく微笑んだ。

今日は、吾郎の事務所が毎年都内の一流ホテルの会場を貸し切って開催する“イヤー・エンド・パーティ”という名の贅沢な忘年会だ。

そして、ナオミというのは松田のチームの若手女弁護士である。

まだ28歳の彼女は、帰国子女特有の自信と気の強さを漂わせ、いつも身体のラインにピタリと沿ったボディコンのようなスーツを着て出勤している。

吾郎はこの手のタイプの女が基本的に大嫌いであるが、ただ、もちろん英語は堪能であり、仕事においても優秀であるため、彼女には一目置いていた。

さらに松田情報によると、ナオミはニューヨークの投資ファンドで働くアメリカ人の男と23歳という若さで結婚し、遠距離で夫婦生活を送っているそうだ。




―ナオミちゃんって、まじセクシーだよなぁ〜。

いつも鼻の下を伸ばしてナオミの後ろ姿を目で追っている松田は、今日はパーティに同伴したポンコツ嫁にへつらうのに必死である。

毎年派手さと仰々しさを増していく嫁に尽くすことの、一体何に奴が幸せを感じるのか、吾郎にはやはり理解ができない。

「吾郎先生も、お家では松田先生みたいに、奥さんの尻に敷かれてたりして」

「......」

吾郎は無言でナオミを睨むが、彼女は全く臆することなく、不敵な表情を崩さない。

「実は......松田先生から聞きましたよ。吾郎先生は“新婚クライシス”の真っ只中だって。松田先生じゃ頼りにならないでしょうし、私が相談にのってあげますよ」

「なに......?」

「だって、吾郎先生は普通の日本人男性じゃないもの。松田先生みたいに、奥さんに頭が上がらず愛妻家を気取りながら、若い部下の脚にいやらしい目を向けるなんて矛盾はお嫌いでしょう」

吾郎は心の中で、「ほう」と唸る。

ちょっと頭のいいボディコン娘と思っていたが、意外に話の分かる女であるかも知れない。

「...そっちの結婚生活はどうなんだ。遠距離で旦那から放っておかれて、不満が溜まってるんじゃないのか」

「まさか。私には遠距離婚がちょうどいいんです。毎日24時間他人と共同生活なんて、息苦しいしロマンチックじゃないわ。お互いにある程度自由に過ごしながら、一緒にいるときは夫婦を楽しんでますよ」

「......ほう。しかし、子どもはどうするんだ」

「いやだ。吾郎先生でもそんな野暮なこと聞くんですね。まぁ、子どもがいればそれなりの幸せや楽しみも増えると思いますけど、“作らなければいけないもの”とは全く思いません。少なくとも、今は」

サラリとそう言い放ったナオミの表情は、やはり強気で可愛げゼロである。

しかし吾郎は、この小生意気な娘の意見になぜか小さな安堵を感じ、不覚にも少しばかりの尊敬まで芽生えていた。

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妻と同じく理解者を得た吾郎。そして、英里は吾郎の浮気を疑い始める...?!