共同テレビジョン社長の港浩一氏

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――12月7日、「とんねるずのみなさんのおかげでした」(フジテレビ系)で、2018年3月を以て番組が終了することが発表された。1988年10月にスタートしたレギュラーの「みなさんのおかげです」より連なる「とんねるず」の冠番組はおよそ30年続いた。

 2人が視聴者へ挨拶するために選んだのは、フジテレビではなく共同テレビジョンの社長室。“小港さん”役の木梨憲武(55)、石田弘番組エグゼクティブプロデューサーに扮した石橋貴明(56)が、エンディングで番組終了を発表したのだ。その様子を後から見守っていた“小港さん”こと港浩一・共同テレビジョン社長(65)が「とんねるず」秘話を語る。

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 あれはね、番組終了を発表するのに、この部屋(社長室)を使わせてくれと現プロデューサーの太田一平から連絡があったんですよ。貴明が“ダーイシ(石田氏)”、憲武が“小港”に扮して、番組が終わること、これまでの感謝の気持ちをコント仕立てで発表したいと。当日になって、僕にはこの席に座っててくれと言うわけですよ。じゃあ、最後に俺も一緒に頭下げた方がいいよね、ということになったんです。「とんねるず」らしい、やり方だったと思います。

共同テレビジョン社長の港浩一氏

――港氏は、今も木梨演ずる“小港さん”と同じ長髪。フジテレビのディレクター、そしてプロデューサーとして「とんねるず」を見出し、石田氏と共に、番組を作ってきたことで知られる。13年6月、フジの常務取締役に就任。15年6月からは共同テレビの社長を務めている。

 永遠に続く番組なんてないですからね、もちろん寂しくはなりますけど。とはいえ僕が番組に関わったのは、番組立ち上げの1986年の「火曜ワイドスペシャル」時代の特番から、2001年に部長になって番組を離れるまでの、およそ14年。彼らはその後、もっと長く続けてくれたわけです。それがうれしいですね。

「ダーイシ」と「小港」の誕生

「みなさん」はパロディーを得意とする番組でしたから、身近にいる人をデフォルメすることも多かった。そうした中で、貴明が石田さんをデフォルメしてやり出すと、それがウケた。ただね、物語を作る上で、ダーイシが暴走するのを止める役割が必要になる。それでできたのが“小港”です。それとね、石田さんが街を歩いているだけで笑われるようになっちゃって、石田さんが怒るんですよ。

「お前はズルい! 俺ばっかり笑いものにされて」

 それで“小港”が誕生したというのもある。憲武はよく“小港”が手帳をめくる仕草をやるんだけど、僕には全然似ていないと思ってる。でも、みんなは似ているというから、やっぱり観察眼があるんですよね。

――港氏は76年にフジテレビに入社。当時、フジでは番組を作る制作部門は制作プロダクション化され、本社から切り離されていた。そのため最初に配属されたのは人事部だった。80年に大改革が行われ、日枝久(現相談役)が編成局長に抜擢される。漫才ブームを起こした横澤彪氏、港氏の師匠となる石田氏らもいた。港氏も念願叶って制作部に所属することになる。

 このときにキャッチフレーズが“楽しくなければテレビじゃない”へと変わるんです。プロダクションにいた人たちも社員化されて、そのエネルギーが爆発した。人間のエネルギーって凄い!と思いましたね。

一気に民放トップへ

 80年代のフジテレビはバラエティでした。まずは横澤班が「THE MANZAI」(80〜82年)に始まり、「笑ってる場合ですよ!」(80〜82年)、「笑っていいとも!」(82〜2014年)、そして「オレたちひょうきん族」(81〜89年)と人気番組を作っていった。

 僕は「ミュージックフェア」(64年〜)などをやっていた石田班に入りました。特にきっかけはなかったと思うんですが、石田さんも僕も音楽好きだし、なにか相性が良かったんでしょうね。

 当時はまだ24時以降の深夜番組はなかったんです。景気が上向いてきたということで、その日の最後の番組だよッという意味で「ザ・ラストショー」(80年)という30分の若者向けの情報番組をやりました。これが僕のディレクター・デビューで、このときに秋元康と組むことになったんです。

――AKB48グループや乃木坂46・欅坂46のプロデューサーの秋元康(59)は、この頃番組の構成作家だった。港と共に作った「夕やけニャンニャン」での“おニャン子クラブ”はAKBの原型といえる。また、80年と言えば、とんねるずがコンビを結成した年でもある。同年、「お笑いスター誕生」(日本テレビ系)にプロとして10週勝ち抜きに挑んでおり、翌81年からは朝の情報番組「モーニングサラダ」(同)にレギュラー出演していた。

「オールナイトフジ」のカメラ破壊事件

 83年に「オールナイトフジ」が始まって、僕は最年少のディレクターとして秋元と組んで月1回くらい担当していました。その時に「誰か若くて、元気のいい、女子大生とも相性のいいヤツいないかなあ」と言ったら、秋元が「『モーニングサラダ』に出ていた『とんねるず』というのがいるよ」と言う。4人で会うとね、ノリも良くって、年齢も女子大生と同世代。“高卒”をウリにしていたこともあって、女子大生と組み合わせると面白いんじゃないかと思ったわけです。

――「オールナイトフジ」で輝き始めたとんねるず。だが、そこで“あの事件”が起きた。

 85年、本格デビュー曲の「一気!」を一生懸命唄っていたわけですよ。スタジオに4台のカメラある中、センターの2カメに貴明が突進した。昔のカメラって土台があってローラーがついてるんですけど、そこに貴明が乗っかったものだから、カメラマンはビックリしてカメラを動かした。そこで貴明も振り落とされないようにつかまったものだから、カメラ丸ごと倒れていったわけです。

 カメラの修理代は800万円。レンズが壊れていましたからね。ただ、保険に入ってましたから、僕が「悪ふざけが過ぎて壊しました」と始末書を書いてどうにか納まった。もっともしばらくは貴明に「弁償してもらうからな」と脅かしてましたけど。

日枝編成局長に直訴

「オールナイトフジ」をやって、85年からは「夕やけニャンニャン」。彼らは毎日フジテレビにいるんですよ。月〜金は“夕ニャン”、土曜は“オールナイト”なんですから、いつも一緒にいた。若い彼らも自分たちの番組を持ちたいと思うのは当たり前のことで、何回か企画書は出していたんです。でも通らなかった。

 なぜなら、フジテレビは82年から視聴率3冠王ですから、枠が空かない。1つだけ「火曜ワイドスペシャル」という90分枠があって、これが色々なことにトライ出来る枠でした。でも、そこには「ドリフ大爆笑」という視聴率30%を誇る番組がドン!といて、ほかにも人気番組があるから、登竜門的な枠なのに取るのは大変だった。でもここで結果を出さないと次へと進めない。

「本当に企画、通らねえよなあ」

 僕らのデスクにちょくちょく来ていた貴明が言うわけですよ。

「やっぱり一番偉い人に言うしかねえのかなあ。ところで一番偉い人って誰?」

 そりゃ、日枝編成局長だよ。じゃ、直訴しよう。自分が代表で行ってくると言って、貴明がレポート用紙に直訴状を書いたわけです。

〈「火曜ワイドスペシャル」をやらせて下さい。視聴率30%を取ります。取れなかったら、石田プロデューサーを彫刻の森美術館に飛ばして構いません〉

 それを持って貴明が編成局長室へ行ったんです。日枝さんはそれ見て、「ホントに飛ばしていいのか?」って、ガハハと笑ってたそうです。それで編成部長に言ってくれて、トントン拍子。あれがなければ番組枠を取るのに時間がかかったでしょうね。それで出来たのが、「火曜ワイドスペシャル みなさんのおかげですSP パート1」(86年11月11日放送)です。

 さすがにハードルは30%ではなく、20%になったんだけど、それでもすごくないですか? 20%取らないと次はないというんだから。

メロンを丸で食べたい

 深夜の“オールナイト”や夕方の“夕ニャン”と比べて、ゴールデンですからね、予算が違う。すると憲武が言うんですよ。

「こういう時って、ホテルのスイートルームとかで会議するんじゃないの?」

 こっちも予算持ってるから、そうだよなって。キャピトル東急の“セミ”スイート押さえて、6人くらいで集まった。するとまた憲武が言うわけ。

「こういう時ってさ、フルーツをルームサービスで取ったりするんじゃないの?」

「そうだな、なんにする?」

「メロンを丸で食べたい」

 1人1個ずつメロンを食べてね、それでようやく、何をやるか話し合った。

 その時からパロディです。放送翌日の水曜日、ドキドキしながら当時フジテレビがあった河田町(東京・新宿区)に行きました。部屋に入るとね、編成部長を中心にバッと立ち上がって拍手してくれた。

 ギリギリだったんだけど20%は達成した。それでパート2もできるという。それでもパート2は半年後、半年に1回ずつ特番を4回やった時に、弱くなった枠が出てきた。10%しか取れなくなったというんですね。木曜夜9時、この枠で「みなさんのおかげです」からの30年が始まったんです。

――フジテレビの勢いと歩調を合わせるように、とんねるずもレギュラー枠を獲得。以来、「みなさんのおかげです」から「みなさんのおかげでした」まで続く長寿番組となっていったのである。

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週刊新潮WEB取材班

2018年1月5日 掲載