現在の新宿駅西口の様子(筆者撮影)

かつてイギリスの鉄道を取材中に、現地の鉄道ファンから面白い話を聞いた。イギリスやドイツなど鉄道趣味が盛んな国のファンは、我が国のような「撮り鉄」は少なく、コアな研究をしている人が多いという。

その中には、日本の鉄道に関心のあるファンもいる。ヨークの鉄道博物館で知り合った「日本の鉄道研究会」なるものを立ち上げた人は、「今の時間、新宿駅○番線からは『あずさ○号』が出発しますね」などと、新宿駅に強い関心を抱いていた。1日当たりの利用客数がギネス記録に認定されるほど巨大な駅と化した新宿駅は、海外の鉄道ファンにも興味の的となっているのだ。

2016年には南口に「バスタ新宿」が完成し、今年12月からは新型の「スーパーあずさ」が走り始めるなど、変化がやむことのない新宿駅。日本の戦後の発展とともに歩み、今や世界一の大ターミナルとなった新宿を改めて見つめてみたいと思う。

新宿駅の「正面」はどこ?

駅には必ず「駅舎」「駅本屋」というものがある。巨大駅の新宿の場合、どこにあるのかよくわからないというのが率直な感想だろうが、正面玄関口にあたるのは「ルミネエスト」のある東口だ。ここに駅長室など駅務を掌る事務所があり、この駅長室から近い順にプラットホームの番号が決められている。

現在、ホームは8面16線ある。東口に最も近い1番線から4番線までは埼京線や湘南新宿ラインが発着。5・6番線は「成田エクスプレス」や東武線直通の特急用だ。7番から12番は中央線快速と中央線の特急列車が使用しており、13番線は中央・総武線各駅停車の千葉方面行き。14・15番線は山手線で、駅舎から一番遠い16番線には中央・総武線の各駅停車が発着している。

ラッシュ時の新宿駅は今も混雑が激しいが、筆者が取材、体験した記憶では、昭和40〜50年代の山手線と中央線の朝夕の混雑ぶりは、それはもうすさまじいものだった。駅員だけでは間に合わず、学生アルバイトによる詰め込みの「尻押し部隊」で満員電車に対応、それでも乗り切れない乗客に対しては「引きずり出し」人員まで登場した。


新宿を発車して東京へ向かう中央線特別快速の101系電車。冷房が搭載された直後の姿だ(筆者撮影)

その頃の通勤電車、いわゆる「国電」にはエアコンなどなく、夏場には窓を全開にして、天井からは扇風機が熱風を送り続けていた。このような過酷な通勤電車は、誰言うとなく国電をもじって「酷電」と呼ばれるようになった。酷電に揺られた我慢のサラリーマン諸氏が日本の高度経済成長を支え発展させてきた、と見るのは同時代を生きた同世代の筆者の感傷であろうか。

若者たちが形作った街


新宿駅周辺の賑わいは今も昔も変わらない(筆者撮影)

新宿といえば駅周辺の歓楽街が世界的に知られているが、特に昭和40年代は若者たちが中心となって新宿の街を形成したように思える。筆者が上京したのはいまからちょうど50年前の1968(昭和43)年。まず住んだのが中野坂上で、何かあると丸ノ内線で当時ひと駅(現在は西新宿駅がある)だった新宿に出るのが日常だった。当時はベトナム戦争の激化などで世相が不安定な時代であり、退廃的なムードが高まっていた。


新宿駅付近を走るEF15形電気機関車牽引の貨物列車。1970年代にはこのような列車が新宿を走っていた(筆者撮影)

そしてついには新宿駅を舞台とした反米デモなどが起こった。1968(昭和43)年10月21日の国際反戦デーには新左翼による暴動事件が勃発、暴徒と化した学生たちは駅構内に乱入、機動隊に線路の石(バラスト)で投石を繰り返し、電車や駅の施設を破壊し放火した。俗に言う「新宿騒乱」である。この事件以後、駅構内の線路はバラストの石をバラけないように固定して投石を防いだという。


新宿駅西口地下広場から見上げた空。広場が完成したのは1966年だ(筆者撮影)

一方、1966(昭和41)年に完成した西口地下広場はデートスポットなどとして若者たちのたまり場となり、ここでもベトナム戦争反対を訴える大規模なフォークソングの集いが行われ、反戦活動家や学生、労働者など最大で4万人が集結するまでに至った。筆者も仲間たちと反戦歌を歌い「異議なーし」という当時の流行語を叫びつつこの中に加わっていた。しかし、事が重大な局面に発展するのを恐れた国は集会を禁止し、群衆は排除された。

西口広場の完成、激しい通勤ラッシュ、そして反戦デモや騒乱など、新宿駅の歴史に刻まれる大きな出来事が続いた時代が昭和40年代ではなかったかと、今つくづく思う。

高層ビルと「大人の街」



新宿大ガードの過去(上)と現在(下)。ガードの周辺はそれほど変わらないが、ビルが林立し、背景は大きく変貌した(筆者撮影)

この当時、新宿西口の超高層ビル群はまだなかった。淀橋浄水場跡地の再開発によって、その一角に1971(昭和46)年、地上47階・高さ179mの京王プラザホテルが建ち、その後林立する高層ビルの草分け的存在となった。1974(昭和49)年には「三角ビル」として親しまれている地上52階・高さ210.3mの新宿住友ビルが建設された。1977(昭和52)年にはこの最上階の回廊展望画廊で筆者の「蒸気機関車の詩」の写真展が開催されたのも、個人的な新宿の歴史の1ページである。

若者のパワーが形作った新宿の街だが、駅近くの恋文横丁や新宿二丁目、旧都電の廃線跡近くに現存するゴールデン街は大人たちの歓楽街だった。筆者は今もゴールデン街の馴染みのバーに通っている。このバーではかつて私と同じ歳の作家、中上健次や、コメディアンのたこ八郎、有名演歌歌手が同じカウンターで酒を酌み交わし、カウンターの中ではまだ無名時代の俵万智がホワイトの水割りを作っていた。


1972年当時の特急「あずさ」。ボンネット型の特急車両を使用していた(筆者撮影)

ここで新宿を発着する名列車についても述べてみたい。昭和40年代、筆者の愛用した列車は周遊券が使えた急行「アルプス」で、特に夜行の「アルプス」を利用しては大糸線や中央西線などを走る信州の蒸気機関車を追ったものだった。

当時から現在まで走り続ける新宿駅発着の特急列車と言えば、なんといっても新宿―松本間を結ぶ「あずさ」であろう。「あずさ」は1966(昭和41)年にボンネット形の特急車両181系を使用して登場、1日2往復の運転を開始した。


「あずさ2号」がヒットした頃の特急「あずさ」(筆者撮影)

一躍、誰もが知る有名な列車となったのは、1977(昭和52)年に狩人が歌った「あずさ2号」の大ヒットだ。JR化後の1994(平成6)年には振り子式のE351系による「スーパーあずさ」が誕生。2002(平成14)年には「あずさ」全列車が国鉄時代からの183系・189系からE257系に交代し、現在定期列車は「スーパーあずさ」「あずさ」を合わせて18往復が走っている。

2017(平成29)年12月23日からは、新型電車E353系が「スーパーあずさ」に投入され、E351系も引退が近づいてきた。新宿駅を発着し、東京と信州を結ぶ名列車も時代とともに姿を変えていく。

巨大化する新宿駅の今後は?


現行のE351系「スーパーあずさ」。新型車両への交代で引退が近づく(筆者撮影)

国鉄時代と比べ、現在は新宿から直通で行ける範囲が大きく広がった。国鉄末期の1986(昭和61)年3月に埼京線運行区間が延伸されて埼玉から直通できるようになり、以後JRに移行してからは「湘南新宿ライン」で北関東や湘南方面へ、成田空港や東武線日光方面への直通特急発着と、一大ターミナル化を遂げた。

駅の巨大化によって、構内はまるで温泉旅館のような継ぎ足し建築の様相を見せているが、2016(平成28)年春にオープンしたバスタ新宿は駅舎をもうひとつ建て増したような形となり、新宿は文字通り東京の陸上交通の大ターミナルと化している。

新宿駅は今後も進化を続けていくだろうが、JRが一通りの発展を遂げた今、その大きなカギを握るのは、新宿駅に乗り入れる私鉄、地下鉄各社の動向といえるのではないかと思う。これらについても、機会があればまた述べたい。