明治初期に孟斎芳虎が描いた「東京繁栄馬車往来之図」(所蔵・中央区立京橋図書館)

明治末期のある日、取材記者の石井研同(陸奥国郡山)は、三ノ輪の埃っぽい裏路地にある長屋を訪ねた。「零落した豪商が住んでいる」と聞き込んだからだ。
6畳1間の主は伊勢屋加太八兵衛(かぶとはちべえ)。かつて麹町7丁目で呉服店を営み、「山手随一の豪商」と言われた「伊勢八」である。幕府御用商人として苗字帯刀を許され、旗本や諸大名の資金調達も担ったが、維新ですべて踏み倒された。「諸大名に数万金の貸し流れあり、その証書のみにて、つづら籠一つに満つ」(『明治事物起源』)。
明治維新で、たびたび御用商人に課せられた「御用金」など、幕府への債権は貸し倒れとなった。各藩への売掛債権の返済は新政府が肩代わりするが、20年以上前の天保年間以前のものは時効、それ以降は50年債での返済とされ、実際には棒引き。伊勢八はたまらず倒産したのだ。

幕末、幕府の統制が揺らぐと江戸の治安は悪化。ある日、日本橋西河岸の榮太樓の店に、京都・大覚寺の寺侍を名乗る数人の武士が訪れ、「誰の許しを得て『榮太樓』を名乗っているのか。『樓』は高貴な文字だ」と脅した。こんな謂われのないゆすりが横行し、群衆が大店に暴れ込んでの略奪や打ち毀(こわ)しも相次いだ。彼らは「天狗がやった、やったのは天狗だ」とうそぶいたという。今に続く老舗は、存亡をかけた試練をどうやって乗り切ったのか。

業態を華麗に変更した「ふとんの西川」


日本橋の南側、日本橋通りをはさんでの通1丁目は「間口一間値千両」と言われた江戸第一級の商業地で、近江商人の店が集中した。豊臣の楽市楽座政策を機に、近江商人は全国に活躍の場を求め、御朱印貿易にも携わった。

今でも近江八幡や五個荘(ごかしょう)など北国街道沿いの街並みを歩くと、他の地方には見られぬ「勢い」が感じられる。

橋を渡ってすぐの「西川」は「近江八幡の御三家」、初代西川仁右衛門(にえもん)が元和元(1615)年、畳表や蚊帳を商う近江本店の支店として設けた。江戸はまだ普請中、畳表は江戸城や武家屋敷からの引き合いが多く、町屋向けに手代が売り歩いた蚊帳への需要も、江戸の街と一緒に膨張し続ける。売上は右肩上がりだった。

西川は経営の近代化に熱心だった。売上から運転資金、原材料費、当時多かった大火などの損失引当金を引いた分を従業員に分配する「三ツ割銀制度」は現代の会計理論にも通じ、寛文7(1667)年の勘定帳は、わが国に残る最古の帳簿とされる。「近江八幡の本家で拝見しました」と日本橋西川の店長・執行役員の伊藤敦司さんは語る。売り手、買い手、世間の「三方よし」とともに、近江商人の先進性と精神を現代の社員たちに伝える存在だ。


明治初年ごろ、日本橋1丁目に開設した西川の支店、つまみ店(だな)。江戸時代の面影を残している(提供・西川)

幕末、第2次長州征伐にあたり、幕府は西川に冥加金(みょうがきん)1800両の上納を命じている。さらに明治元年、旧幕府への売掛金2550両を新政府に「上納」した。債権放棄である。だが、社史に掲載されている当時の年商からざっと計算すると、西川にとって経営の屋台骨を揺さぶる額ではなかったようだ。さらに成長分野を見極め、大阪店の開店、木綿の扱いの開始などに続き、ついに明治20年、現在の主力商品である蒲団(ふとん)の扱いを開始した。


寛文7(1667)年の、日本で現存する最古の勘定帳。西川家が江戸時代初期から早くも近代的な「計数管理」に基づく経営を行い、在庫管理や利益管理の概念のもとに運営されていたことがわかる(提供・西川)

近くに店を構える柳屋は、鬢付油「胗清(りゅうせい)香」で名を馳せた。唐人の漢方医・呂一官(ろいっかん)が、徳川家康の江戸入城と同時に通2丁目に御朱印地を拝領、「紅屋」として紅、白粉(おしろい)、香油の製造販売を開始した。のち近江商人の外池(といけ)家が継承、店は隆盛を誇る。だが維新により思わぬ危機が訪れた。明治4年の断髪令で、男性用鬢付油が不要になったのだ。しかし、女性用油「瓊姿香(けいしこう)」が柳屋を支え、大正9年の「柳屋ポマード」の大ヒットでさらに飛躍する。日本橋交差点角の、ガラスブロックが美しい柳屋ビルディング(昭和39年竣工)の場所こそが、創業の御朱印地なのである。

醤油醸造業から食品問屋へ国分の変身

西川の向かいに店を構える国分のルーツは、「近江商人と日本橋を二分する」伊勢商人だ。四代國分勘兵衛が射和(いざわ)(現在の松阪)から元禄時代に江戸に出、正徳年間に日本橋で「大国屋」の屋号で呉服商を始めたと伝えられているが、同じ頃、土浦で醤油醸造業にも着手する。続く五代勘兵衛は江戸店を本町から現在の国分本社がある西河岸町に移した。醤油の日本橋川からの陸上げを考えてのことだろう。宝暦7(1756)年「亀甲大(キッコーダイ)醤油」の販売を開始、最上級の醤油との評価を得て、日本橋でトップクラスの問屋となった。

国分は創業期より決め事、順守すべき事柄を「式目、定目」として明文化し、従業員のモラルを高く保った。これらは時代とともに何度か書き改めながらも、現在もその精神は「平成の帳目(ちょうもく)」として受け継がれている。

幕藩体制の崩壊は、江戸城や土浦藩などの大口需要先が失われ、御用金も貸し倒れとなった。加えて新政府が金銀の国外流出対策で貨幣価値を切り下げると、インフレが進行して原材料費が高騰。低価格品の醤油も出回りはじめたことは、亀甲大醤油を売り物とした店にとって打撃であった。

八代勘兵衛は、安政年間から製茶の輸出も手がけており、明治13(1880)年、大国屋は170年弱続いた醤油醸造を断念、新時代に沿った食品を扱う事業に大きく転換した。日本人の伝統の食を扱い続けると同時に、洋風化への貢献を一貫して続けている。


二代目山本紱治郎。安政5(1858)年に襲名。顧客ニーズに応じ海苔を8種類に分類して販売したのは、当時としては画期的だ(提供・山本海苔店)

「変わらねえのは山本の海苔屋さ、あすこくらい流行る家もねエね」。報知新聞記者・篠田鉱造の聞き書き集『明治百話』。関東大震災後、魚河岸が築地に移転して寂れた室町を嘆く老人の話にこんな一節が出てくる。

日本橋の北側、室町1丁目の表通りには、魚河岸関連で鰹節、乾物、蒲鉾、海苔などの海産物問屋や小売店が軒を連ねたが、商流により入れ替わりが激しい一角でもあった。だが山本海苔店は、創業以来この地に建つ。

嘉永2(1849)年、初代山本紱治郎が海苔店を出店したが、当時の流通は浅草の海苔問屋の手に握られ、日本橋の新興勢力は参入に苦労した。しかし浅草問屋の汚職が摘発され、本格的な商売が可能になる。開店から10年近くの安政5(1858)年、大きな転機が訪れた。家督を継いだ二代紱治郎が、海苔を家庭用、焼海苔用、寿司屋用、佃煮用など8種類に分類して販売、これが大当たりしたのだ。「欲しいものを適切な価格で売ったこと、これが支持された要因でしょう」と、営業推進グループの中島美冬さんは語る。元禄12(1699)年創業の「にんべん」も、御用達の高級鰹節の他に「徳用節」を売って一般向けの販路を開いたことが、商いを大きくする要因となった。

山本海苔店では震災と空襲のため、幕末から明治維新にかけての資料が失われている。だが、当時の一大ヒット商品が幕末・維新の混乱の中、店の生き残りに貢献したのは間違いない。


嘉永2(1849)年、日本橋室町1丁目に創業した山本海苔店の復元図面(提供・山本海苔店)

それは「味附海苔」であった。明治2(1869)年に明治天皇の御用達商品となったのだ。なぜ維新後こんなに早く? そこに登場するキーマンが山岡鉄舟(幕臣)だ。二代目紱治郎は剣術をたしなみ、鉄舟と同門であった。後に明治天皇の相談相手と言われた鉄舟が、宮内省から京へ還幸する際の手土産をどうするか問われ、紱治郎に相談したという話が伝えられている。

続く三代紱治郎は目利きに優れ、「海苔の神様」と呼ばれた。「仕訳」に全霊を傾け、その仕事中、新海苔を手にしたまま亡くなったほどだ。その姿勢は今に至るも続き、鉄舟の揮毫した「東海名産無双佳品」の書は包装用シールとして健在だ。変わらぬ顧客志向と、新商品によるイノベーションが、山本海苔店を支え続けている。

呉服屋からデパートへ三越の経営改革

冒頭の、倒産した伊勢八の歴史を調べると、大きな分岐点が浮かんでくる。安政6(1859)年の横浜開港と同時に、伊勢八は幕府の要請で、他の商人らと横浜に進出、輸出絹物商を開業した。だが、貿易の新しいルールは面倒、慣れた商売相手がいいと撤退が相次ぐ。伊勢八も店をすぐ共同経営者に譲ってしまった。しかし、「椎野正兵衛商店」と名前を変えた店は、当時の呉服界の商売の常識を破り、自らデザインしたスカーフなどを「S.SHOBEY」ブランドとして展開。日本ブームに沸く欧米各国への輸出で大きなシェアを占めるに至った。もし伊勢八が、経営権を手放さないでいたら―。

江戸から明治にかけての日本橋で、最もドラマチックな業態転換をしたのは三越だろう。維新で経営不振に陥った三井呉服店。明治5(1872)年、銀行開業をにらむ三井家は、大蔵大輔・井上馨の指示に従い呉服店を分離する。だが、分離された「三越」は28(1895)年に導入した陳列場が大当たり、さらに「デパートメントストア宣言」に至った。

その一方で、昔ながらの手仕事の業種は、打刃物の木屋や、浴衣と江戸小紋の竺仙のように唯一無二の存在として生き残るか、三越・郄島屋に代表される百貨店へ納入する大口の仕事を得るかに分かれた。

日本橋の商店が扱う品目も欧風化し、室町の北側の本町には洋小間物、時計メガネ、医療機械、写真などの店が並んだ。明治2(1869)年には洋書取扱いの丸善も開店。元治元(1864)年から小舟町で両替商を営んでいた安田善次郎は、維新後太政官札や公債の取引で財をなし、呉服町の東京建物など数々の企業を設立する。丸の内に設立され、昭和8(1933)年に本社を京橋に移した明治製菓(現・MeijiSeika ファルマ)など、日本橋界隈でも企業オフィスの集積が始まった。日本橋が、さらに近代の装いに変貌する前夜の話である。