今、東京の男女が密かに抱えている悩みがある。

恋人や夫婦間での、肉体関係の喪失だ。

この傾向は、未婚の男女においても例外ではない。

2017年冬、相思相愛だったはずの彼・健太からプロポーズされた美和子は、涙を流す。

ふたりの5年間に、何があったのか?

実は同棲1年が経つ頃から、ふたりは不完全燃焼の夜を境に“プラトニックな恋人”となっていた。美和子は思いをぶつけるが、レス問題は一向に解決しない。

30歳になった美和子は、学生時代の友人・茜に悩みを相談。御曹司・瀬尾を紹介され、健太と別れることを決意し家を出る。

そのまま瀬尾と夜を共にした美和子は、体を重ねるたび心まで塗り替えられていく自分の変化を、心地よく感じていた…はずだった。




31歳の夏


開け放たれた窓から、爽やかな風が頬を撫でるように通り過ぎた。

『葉山庵Tokyo』で、プールに張られた水が光を反射するのを眺めながら、私は穏やかな季節の訪れに思わず頬を緩める。

「ああ、幸せ…!」

久しぶりに会う大学時代の友人・茜が、シャンパンを見つめながら噛みしめるように言うので、私は隣に座る杏奈と顔を見合わせながら笑った。

この日は茜から「久しぶりにゆっくりランチがしたい」と声がかかり、皆で青山に集まっていた。茜の夫は開業医で休日も仕事だが、1歳を迎え卒乳した娘はシッターに預けてきたのだという。

杏奈と私が、茜の娘の写真を見せてもらいながら「目はパパ似ね」「笑った時の口元が茜にそっくり」などと言い合っていると、茜が思い出したように私を覗き込んだ。

「美和子、瀬尾さんとは順調なの?」

その問いに、私は迷わず頷く。

実際、私と瀬尾さんの関係は良好と言えた。

彼のマンションで暮らし始めてから早3ヶ月。瀬尾さんは、相変わらず忙しく東京にいないことも多いが、時間を縫うようにして会いに来る彼は、私を少しも不安にさせることがなかった。

…しかしこの時、私と茜のやり取りを聞いていた杏奈の表情が、さっと翳ったのだ。


杏奈の顔が曇った理由。知らなかった、瀬尾さんの本性


知らなかった、彼の過去


タクシーに乗り込む茜を青山通りで見送った後で、外苑前駅へ向かおうと歩き出したところを杏奈に呼び止められた。

「美和子、ちょっと時間ある?話したいことがあるの」

ついさっき、私と茜が瀬尾さんの名前を出したときの、杏奈の不穏な反応が頭を過ぎる。

学生時代から男関係が派手だった杏奈は今なお独身で、彼女のSNSからは、未だにまったく落ち着く様子のないナイトライフが垣間見える。

彼女の「話したいこと」はおそらく瀬尾さんのことで、そして明らかに良い話ではないだろう。

正直なところ、聞きたくはなかった。

予定があると言って断ろうかとも思ったが、しかし杏奈の射るような眼差しが私に、目をそらすことを許さなかったのだ。




休日の『ロイヤルガーデンカフェ』はいつも通り混んでいて、私たちはちょうど2席だけ空いていたカウンターに並んだ。

「悪く思わないでね。これは…本当に、美和子のためを思っての忠告だから」

声を潜めて切り出す杏奈に、私は半ば諦めたように頷く。

「瀬尾さんのこと。彼、御曹司だし、界隈では割と名が知れているから私も色々噂を耳にするんだけど…瀬尾さんって、女関係であまりいい話がないのよ。

好みかどうかは別として、彼って優良物件でしょう。それなのになぜ未だに独身なのか不思議だなと思ってはいたんだけど…」

杏奈は躊躇いを滲ませていったん言葉を切り、そして思い切ったように再び口を開いた。

「彼、長い間人妻に熱をあげていたらしいのよね」

私の反応を伺うように告げる杏奈の言葉を即座に理解できず、私は彼女をただ無言で見つめた。そんな私を諭すように、彼女は遠慮がちに続ける。

「…つまり、人のモノに執念を燃やすタイプなのよ。だから美和子のことも...。茜はあんな感じだから、何も知らずに紹介したんだろうけど」

そこまで言うと杏奈は、小さくため息をついてカフェラテを啜った。

「そ…そんなの、ただの噂でしょ」

動揺を悟られまいと私は作り笑顔を浮かべたが、反論の言葉は弱々しく震えてしまう。

-人のモノに執念を燃やすタイプ。

杏奈の言葉に、実際、思い当たる節は数多くあった。

一緒に迎えたある朝、コーヒーを淹れてあげた時に、ふとした言葉の弾みで私が「瀬尾さん“は”ブラック派でしたよね」と言ってしまったことがあった。

その瞬間、彼は無言でキッチンにやってきたと思ったら、苛立ちを静めるかのように私を強引に抱き寄せ、荒々しく服の中に手を入れてきたのだ。

思えば最初に抱き合った夜も、事を終えた後で彼は「僕のものになってくれて嬉しい」と満足げに言っていた。

見え隠れする彼の異常さに、引っかかりを感じなかったわけじゃない。しかし私はそれも愛ゆえだと思っていた。

それに、多少の違和感を感じていたとしても、瀬尾さんに女として求められる悦びを前にすれば、簡単に目を瞑ることができてしまったのも事実だった。

「どうするかは、美和子が決めればいい。私はただ、長い付き合いの友達に知らぬふりをしたくなかっただけだから…」

杏奈の言葉が遠くで響く。私は目眩を感じながら、どうにか「ありがとう」とだけ口を動かした。


杏奈の忠告を、美和子はどう受け止める?




そこにあるのは愛、なのか?


「課長へのお祝い、美和子さんも参加でいいですかぁ?」

週明け、朝の会議を終えて席に着いたタイミングで、同じPRチームの遥(はるか)に声をかけられた。

遥は百合さんがいなくなった代わりに配属になった後輩で、私は慌てて頷く。

「そっか、二人目が生まれたのよね」

先週、課長夫妻に二人目が誕生した。その話を聞きつけた遥からの提案で、チームの皆でささやかなお祝いを贈ろうという話になったのだ。

私の言葉に、遥は含んだ表情で首を縦に振る。

「美和子さんだから言いますけど…いつもあれだけ奥さんのこと悪く言ってるくせに、やることはやってるんだって感じですよねぇ。奥さんが気の毒」

眉をしかめる遥に、私は否定も肯定もせず曖昧に笑って返したが、心の中は彼女と同じ気持ちだった。

今年40歳になる課長は、言葉や態度の節々に男尊女卑な価値観を滲ませる男だ。

自分の妻のことも完全に見下しており、飲み会の席などで酒が進むと「あいつは何もできない女だから」「結婚したのが間違いだったよ」などと暴言を吐いては、私たちに苦笑いを強いている。

それなのに、第二子が生まれたとは。

夫婦の数だけ愛の形があると言うが、外から見ると尊敬の念などまるでないように見える課長夫妻にも、課長夫妻なりの愛の形があるのだろうか。

それとも…互いに尊敬の念などなくとも、身体の繋がりがそれを補完して夫婦関係を成り立たせているのかもしれない。ふたりの愛の結晶として子どもが生まれてしまえば、尚更。

昔の私なら遥と同じように、そんな愛など偽物だと切り捨てていただろう。

しかし今の私は…。

そこまで考えた時、デスク上でスマホが光るのが見えた。

“遅くなるけど、今夜会いに行く”

瀬尾さんから届いたメッセージに目を走らせ、私の心は喜び、期待、不安、そして怯え…様々な感情が入り乱れて息が苦しくなる。

今夜瀬尾さんが部屋に来たら、きっとまた私は求められるまま、彼と肌を重ねるだろう。

しかしそこにある感情は、繋がりは、本当に愛なのだろうか。

…その問いの答えを、この時の私はまだ見つけられなかった。

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百合さんから聞かされる健太の近況。美和子の求める愛は、どこにある?