人事部ー。

社内の人間模様や、人間の黒い欲望に直接触れることもある部署。

時に残酷で、時に計算高く。

すべては会社のために機能する部署だが、そこに一切の私情が入らないなどということは、おそらくない。

人事部から見た社内、それは人の業が蠢く社会の縮図であった。

高橋涼子(29)が働く恵比寿のベンチャー企業で、ある人事異動が発表された。それは、管理本部長・坂上の黒い思惑にまみれたもの。その内情を知っている人事部の涼子は、一人心を痛めていた。




人事部涼子の、飲み会リサーチ


「後藤さん、ご昇進おめでとうございます。後藤部長の昇進を祝し、かんぱーい!!」

後藤さんの昇進を祝う飲み会が、中目黒の『水炊き しみず』で開かれた。

この会に呼ばれた涼子は、揃ったメンバーをさりげなく見渡す。そこにはもちろん、管理本部長坂上さんの姿もある。

今回の歪な人事異動に、涼子は後悔を抱えていた。

それは坂上さんの思惑のために、後藤さんが利用されていることは明らかなのに、なんの異議も唱えず見過ごしてしまったこと。

たとえ微力であれ「それはおかしい」と言えなかった自分を、涼子は許せずにいた。

こうなってしまった今、涼子自身、何ができるかもわからずにいるが、事態を好転させられる材料がでてこないか、と淡い期待を持ってこの会に参加したのだ。

「いやぁ、後藤くんが順調に昇進してくれてよかったよ。きみの実力だな。」

今日も上質なスーツに身を包んだ坂上さんは、後藤さんの肩に手を置きニヤニヤしながら話しかけていた。

後藤さんは、「ありがとうございます。恐縮です」と困った顔を浮かべ、何度もお辞儀を繰り返している。

「今後は、後藤くんが今まで以上に活躍してくれるだろうし、私はラクできるよ。楽しみだ。」

坂上さんは大きく口を開け、上品なスーツには似つかわしくない下品な笑いを浮かべたまま、瓶ビールとグラスを持って若い女の子が集まるテーブルへ行ってしまった。

-さあ、どのテーブルにリサーチに行こうかしら…

涼子が密かに観察を続けていると、既にほろ酔いの誠がビールを片手にやってきた。


人事涼子 黒幕坂上へジャブを試みるが…


「お、涼子じゃねーか。寂しく一人酒か?」

誠が来てすぐに席を立つわけにもいかず、涼子は仕方なく彼の相手をすることにした。

リサーチにまわれないもどかしさはあるものの、誠といるとさっきまでの緊張感は嘘のように消えて、何も考えず楽しい時間を過ごせるから、涼子にとってはありがたい存在だ。

それは誠が同期だから、という気安さもあるが、やはり営業成績トップ3に入る彼ならではの、生まれ持った人当たりの良さもあるように思う。

しばらく誠と最近の恵比寿の新店情報の交換に熱中していると、随分酔っ払った坂上さんが来た。

「お、高橋じゃないか。最近どうだい。」

涼子の苗字を呼びながら、涼子と誠の間に座った。

誠は営業部なので坂上さんの管轄外ではあるが、それにしても坂上さんの視界に誠はまったく入っていないようだ。

「坂上本部長、わざわざありがとうございます。おかげさまで元気にやっております。ビールでよろしいですか?」

涼子はとりあえずビールを注ぎ、何を切り出そうか体制を整えることにした。

「それにしても今回の後藤さんの昇進は、驚きました。これも坂上本部長のフォローや方針が功を奏したんでしょうね。」

涼子は、少しわざとらしいかなと思いながらも坂上さんに切りこむ。

「いやいや、後藤君の実力だよ。」

「またまたご謙遜を。総務は今年社内システムの入れ替えに注力していらっしゃいましたもんね。」

触れられたくない話題なのだろうか。坂上さんの眉がピクリと動き、瞬きが早くなったのを、涼子は見逃さなかった。

「そうなんだよ、後藤くん主導で動いてくれてね。完了まではもう少しかかるようだが、部長の裁量を持つことで、今まで以上にスピード感をもって進めてくれると期待しているよ。新システムもそのうち使用できるようになるから、そのときはデータ移行など協力頼むよ」

坂上さんはポンポンと涼子の肩を叩き、また別の席へフラフラと歩いていった。

-なるほど。責任を押し付ける一つは、納期を守れなかった、とかにするつもりなのね。

「システム入れ替えは後藤さん主導だったかぁ。それが認められたのかぁ」

後ろで誠の、のんきな声が聞こえる。

実際の主導者は坂上さんだ。

社内システム導入の不具合から3ヶ月経った今も、いまだ再稼働の目処すら立っていないことは、他部署の人間にはほとんど知らされていない。

なぜなら坂上さんに揉み消されているからだ。

「昨対比150%の平山さんにも、昇進してもらいたかったなぁ。」

誠の目が座ってきた。ここで平山さんの名前を出すなど、一歩間違えればタブーとなる話を普通にしてくるあたり、既に酔っているようだ。

涼子が言っていないにしろ、人事がこんなことを言ってたなど、尾ひれがついて出回りそうなので、そろそろ誠と離れようと席を立つ。

すると、後藤さんが帰ろうとお店から出て行く姿が見えて、涼子は慌てて荷物を取りに戻り、後藤さんを追いかけた。




渦中の人物 後藤の心中


「あれ、高橋さん。もう帰るんですか?」

涼子が後藤さんの背中に声をかけると、彼は驚いた声でそう言った。

「ええ。少し酔ってきそうだったので、もう帰ろうかなと。飲み過ぎちゃいました。」

後藤さんを追いかけてきました、だなんて絶対に言えず、涼子はとっさに嘘をつく。

『人事は会社の飲み会で酔ってはいけない』

これは、涼子に人事のいろはを教えてくれた上司の言葉である。涼子はその教えを忠実に守っている。

酔った勢いでいらぬことを喋ってしまったり、誰かの口車に乗せられたり、正常な判断ができない恐れがある為である(そんなことをしているうちにお酒には随分と強くなってしまったが)。

「いつも冷静沈着な高橋さんでもそんなこと、あるんですね。」

後藤さんの温かい笑顔に、涼子もつられて笑顔になる。

だが笑顔になりながらも、今回の人事異動について切り込むタイミングを密かに伺ってもいた。


黒い人事異動に翻弄される、後藤の本心とは…


後藤さんは、誰に対しても必ず「さん」付けで呼び、敬語で接する。

以前、涼子がその理由を聞いた時、後藤さんは当たり前のようにこう答えた。

「尊敬しない方なんて、いませんから。」

後藤さんの人柄がよく表れているその言葉は、涼子の胸に響いた。

後藤さんは細身で背が高く、少し爬虫類系の顔は一見すると冷たくみられがちだが、内実とても思いやりがあり誠実な男なのだ。

聞けば今夜は、後藤さんの奥さんが体調を壊しているため早く帰るのだと言う。

「じゃあ駅まで一緒に」と涼子が言うと、後藤さんはまた優しい笑顔で頷いた。

後藤さんは今年46歳になるが、30代後半でも通じそうなくらい若く見える。

健康的に焼けた艶のある肌や、引き締まった身体がより一層彼を若々しく見せる。休日に、中学生になった息子さんのキャッチボールの相手をしているため、自然とそうなっているらしい。

聞けば聞くほど、後藤さんの人間性や感性に、本当にできた人だなと涼子は思う。

「あ、遅くなりましたが、この度はご昇進おめでとうございます。」

ホームで電車を待とうとベンチに座ったときに、改めて伝えた。




すると、それまで笑顔だった後藤さんの顔色が少し曇る。

「おめでとうなんかじゃないですよ。私なんて、部長に値する人間ではないんです。世の中には、みんなの目標となり、指針となり、みんなを引っ張っていける素質を持った方がたくさんいらっしゃいます。私はそういう人間ではない。私は部長になる資格はないんですよ。」

後藤さんは少し酔っているのかいつもより口数が多いが、真剣なまなざしは空を仰いでる。

「そんなことないです。後藤さんのお人柄や仕事に対する姿勢は、目標にすべき存在です。後藤さんが部長になられて、総務部は安泰だと思います!」

涼子は正直な気持ちを伝えるが、後藤さんは首を横に振る。

「社内システムも上手くいってないですしね」

「それは、坂上さんが―――」

つい、涼子が勢い余って言いそうになると、後藤さんがぴしゃりとそれを遮った。

「高橋さん。いいですか。社内システムの中断は私のせいです。私のせいなんです。時には長いものに巻かれることも必要ですよ。あなたのような正義感ある優秀な女性に、傷ついてほしくない。」

後藤さんは珍しく涼子の話を遮り、低くゆっくりとした、しかし反論を許さないような重みのある口調で言った。

「どういう意味ですか?」

涼子の震える声をかき消すように、ホームに電車が入ってきた。

後藤さんに涼子の質問が聞こえたかどうかは定かではない。

「私はこの急行にのるので、こちらで失礼しますね。私も少し酔い過ぎたようで、いらないことを話し過ぎました。忘れて下さい。」

後藤さんはそうつぶやくと、電車の中に消えていった。涼子はホームに立ち尽くす。

その時、コートのポケットでスマホが震えた。反射的にポケットから取り出し画面を確認すると、誠からの着信だった。おそらく、2次会に来いというお誘いだろう。

だが涼子は行く気にならず、そのままスマホを鞄に押し込む。

電車を待つ間、後藤さんとの会話を思い出していると、ある言葉に引っ掛かった。後藤さんは涼子に「傷ついてほしくない」と言った。

それは思いやりのある後藤さんの単なる気遣いなのか、それともまだ涼子が知らない込み入った事情があるのか。

涼子はおそらく後者だろうと検討をつけて、今夜は引き続きリサーチしようと決め、一度しまったスマホを取り出す。

そして冷たい空気を大きく吸い込み、さっき通ったばかりの改札へと戻った。

▶NEXT:1月9日 火曜更新予定
総務部に突き付けられた現実