高倉健さんは今でも語り継がれる名優だ(撮影:十文字 美信)

2014年鬼籍に入った「日本最後の映画俳優」高倉健さん。なかなか取材を受けなかった俳優としても知られている。没後3年たった今年発売となった『高倉健ラストインタヴューズ』の取材で得た音源から、本に収録できなかった「秘話」を書き下ろしでお届けする。

「心友」だった検事と警察庁長官

高倉健さんの親友が敷田稔さん。旧制東筑中学以来のつきあいだった。残念なことに本書『高倉健ラストインタヴューズ』が出る前、9月12日に心不全で亡くなった。わたしはご存命の時にご自宅に行って、話をうかがった。

敷田さんは1932年、北九州生まれ。年齢は高倉さんよりも1歳下だけれど、戦後の混乱もあって中学、高校は同級である。東筑高校を出た後、九州大学法学部に進む。司法修習生を経て検事に任官したのは1956年。その後、ハーバード大学ロースクールに留学、検察官としてさまざまな仕事をし、名古屋高検の検事長として定年を迎えた。1961年、国連アジア極東犯罪防止研修所の創設に関わり、国際検察官協会副会長も務めた。

亡くなる前、わたしが訪ねていったのは湘南江の島が見えるマンションだった。夫人とふたりで暮らしていた敷田さんは「高倉さんのことで覚えていることはありますか」と訊ねたら、ひとことだけ呟いた。

「いい男だったねえ。子どもの頃からうんといい男だった」

「僕らは筑豊の川筋で育ったんですよ。あの辺は男っぽい雰囲気で、ケンカなんて当たり前だ。義理人情を重んじる気性の人たちばかりですよ。剛ちゃん(高倉健のこと 小田剛一)もお父さんも川筋者の典型でした。男っぽいけれど、人見知りで、まさか剛ちゃんが人前で演技する俳優になるなんて、あの頃は考えられなかった。

ふたりで英語の勉強をして、密航しようと企てたこともありました。剛ちゃんのところの使用人に、止めてください、俺が大将から殺されますと言われたから」

1986年、法務省矯正局長の時、敷田さんは幼馴染の高倉さんに川越の少年刑務所で講話をしてくれないかと頼んだ。

「川越の少年刑務所での講演が初めての慰問だったのじゃないか。他の人が頼んでも、剛ちゃんはああいう性格だから、やらんよ。真面目だから、一生懸命、考えるんだよ。講演について。結局、言ったことは短かった。早く、ここを出て帰ってくれ、と。だが、高倉健が言ったことだから、少年たちも耳を澄ませて聞いていた。剛ちゃんでなくてはできないことだった」

その後、高倉健さんは生涯に何度か刑務所、少年刑務所で話をしている。いずれも本人にとっては長い話だけれど、実際にはせいぜい10分程度で、長い話ではなかった。遺作『あなたへ』(2012年)の撮影後、舞台となった富山刑務所を訪れ、映画の観賞会に合わせて、入所者たちに簡単なスピーチをしている。

講演があったのは2012年の秋、所内の講堂だった。

高倉健を紹介する係官の声はのんびりしたものだった。

─―それでは、ただ今から、招集行事を始めたいと思います。本日の招集行事の趣旨につきましては、すでに獄中放送をしているところではありますが、この機会に改めて説明したいと思います。

昨日、映画が公開になりました。東宝製作所製作、降旗康男監督の『あなたへ』という映画です。全国一斉公開となりました。この映画は、富山県地方の神輿(しんよ)の作業教官を主人公にして、亡くなった妻の生まれ故郷である長崎県の生月島という所へ旅をする途中、さまざまな人々と出会いながら、亡くなった妻との思い出を振り返り、妻の本当の愛情に接するまでを描いた作品です。

映画の中では、富山刑務所の作業教官役を、俳優の高倉健さんが、そして、その妻役を、女優の田中裕子さんが演じられています。昨年(2011)の9月上旬、高倉さんや田中さんが当所にお越しになり、約2週間の間、当所内外で撮影が行われました。

この映画の全国公開を機会にして、高倉さんから、映画撮影に協力していただいたことに対してお礼を述べいたいというお申し出がありまして、本日、関係者の方々が来所されました。(略)

静まってから語った言葉

さて、登場した高倉健は聴衆に向かって深々と頭を下げる。ここで拍手が起こる。係官が制する。しかし、拍手が続く。また、係官が制する。

高倉健は静まるのを待って周りを見渡す。そして、しゃべり始めた。

「初めまして。映画俳優の高倉です」

拍手で、なかなか次の文句を話すことができない。また、静まるのを待って、話し始めた。

「えー、昨年、この富山刑務所で、とてもお世話になりました。本日、みなさんがご覧になる『あなたへ』の大事なシーンをたくさん撮らせていただいたことに心から感謝いたします。本当にありがとうございました」

敷田の他にもうひとり、高倉健さんが信頼し、講演を承諾した親友がいる。田中節夫さん、元警察庁長官である。親友で、高倉健が亡くなった時、最後に見送った6人のうちのひとりだ。しかし、なんと、高倉健さんと田中節夫さんはたった一度しか会っていない。

田中さんはこう言っている。

「高倉さんにお目にかかったのは長官になった年(2000年)の2月でした。福岡市で開催された『銃器犯罪根絶の集い・福岡大会』のゲストスピーカーに来ていただいたんです。スピーカーにお願いしたのは私ではありません。全国の大会でしたから、誰か警察庁の担当者が決めたのでしょう。


『鉄道員(ぽっぽや』は高倉健さん代表作の一つ。(C)1999「鉄道員(ぽっぽや)」製作委員会

高倉さんはちょうど『鉄道員(ぽっぽや)』に出た頃でしたから、観客は多かった。おかげで大会は大盛況でした。そして、講演が終ってごあいさつした時が初対面で、あとにも先にも面と向かって話をしたのはその時だけです」

しかし、ふたりのつきあいは長く続く。すべては手紙のやり取りだった。わたしはふたりが交わした手紙は見ていない。しかし、田中さんからの手紙は何通か持っている。達筆というより、女性的なやさしい文字で流麗だ。しかし、細い万年筆で書かれた字はしっかりと紙のなかに浸透している。

一方、高倉さんの筆跡は男性的で、筆圧も強く紙に彫り込むようにインクが入っている。

見た目は対照的だが、インクの色は漆黒である。


日本画に墨絵というものがある。墨絵を描く時、画家は表面を撫でるように墨を載せるのではなく、紙のなかへ墨を入れていく。

「カンナで紙を削っても墨が残る」ように描くのが墨絵だ。どれほど淡い色であっても、一流画家が描いた墨絵の色は漆黒で、髪に浸透している。ふたりの文字はそれだ。

たった一度、ふたりが会った時、高倉健は饒舌で、「何度でも講演しますよ」と語ったという。彼にとってはとても珍しいことだ。

田中さんは語る。

「こうおっしゃってくれました。『警察のキャンペーンで協力できることがあればやります。他にも俳優をご紹介します』

その後、実際に小林稔侍さんをご紹介いただいて、小林さんにも講演していただいたのです。

高倉健さんが親友に送った手紙

そして、私がつらい時期を過ごしていた時、手紙をいただきました。そのなかに言葉がありました。

『冷に耐え 苦に耐え 煩に耐え 閑に堪え
激せず 躁がず 競わず 随わず 
以って大事を為すべし』

今も時々、読み直しています。

高倉さんは大きな人物でした。包容力があって……。静かな感じで……。ええ、なんとも言えない方でしたね」

高倉健さんが心友と呼んだのが敷田稔さんであり、田中節夫さんだった。敷田さんも田中さんも実際に会うと、ゆったりとしていて、静かで、眼光の鋭い男だ。そのふたりが「大きな人物でした」と呼んだのが高倉健さんだった。