バングラデシュの難民キャンプにある、仮設「モスク」。集まるのはイスラム教徒ロヒンギャの男たちだ(写真:木村聡)

母国ミャンマーで迫害を受けたイスラム教徒ロヒンギャが、隣国バングラデシュに避難を開始して早数カ月。2017年12月にはローマ法王が支援を表明するなど国際社会では彼らを擁護する声もあがりますが、その一方、ロヒンギャたちはバングラデシュ国内で別の問題を引き起こしています。
救いを神と信仰に強く求めるからこそ、生み出される軋轢の実態――。フォトジャーナリストの木村聡氏が現地よりリポートします。

ロヒンギャ難民たちが集まるモスク

イスラムの礼拝を呼びかける「アザーン」が遠くから聞こえ始めた。斜面に乱雑に並ぶバラック小屋の間から、粗末ななりをした男たちがぞろぞろ集まり出す。

「サラマレクン(あなたの上に平和あれ)」

口々にアラビア語で挨拶を交わす人々。だが、ここは中東アラブではなく、彼らもアラビア語を母国語とする人ではない。みなベンガル系の「ロヒンギャ」と呼ばれる人たちで、この場所はバングラデシュにある難民キャンプの中だ。

ロヒンギャはイスラム教徒とされる。隣国ミャンマーから逃れ難民となった彼らは、自分が住むテント小屋と同時に、すぐにイスラムの礼拝堂も建てた。何十万人にも膨れ上がった難民キャンプには今、竹と土とビニールシートで造られた「モスク」が大小たくさんできている。


イスラムの戒律に従って難民たちはひたすら祈りを繰り返していた(クトゥパロン難民キャンプ)

「われわれはとても困難な状況に身を置いている。いまこそイスラムの戒律を守り、深く熱心に信仰に生きなければならない」

もっとも大切な金曜日の礼拝。モスク内にはもう200人以上がひしめき隙間はない。もちろんすべてロヒンギャ難民だ。男たちの汗と熱気と、どうしようもなくスエた体臭。人いきれでむせ返る中、自身も難民であるイマーム(宗教指導者)は、ことさら強い言葉を投げかけた。そして一斉に難民たちは身を屈め、アッラーの神へ祈る。

このモスクを主催するイマームのサラモ・ウラさんは、3カ前に最大の難民収容所「クトゥパロン・キャンプ」に入った。難民となった当時の記憶は、まだ生々しい。

「ミャンマーで私のモスクは国軍に襲われ、焼かれた。イスラム教徒の住民の赤ん坊が燃える火の中につぎつぎ投げ込まれ、いとこは家族全員が殺された。彼も聖職者だった。イスラムのモスクはまっ先に仏教徒からの攻撃と虐殺のターゲットになったのです」


サリーをまとうヒンドゥー教徒の女性。手には爛劵鵐疋ァ爾離蹈劵鵐ャ瓩判颪れた登録証があった(ヒンドゥパラ難民キャンプ)

宗教がからむ形での住民殺戮は、バングラデシュにある別の難民キャンプでも聞かされた。迫害されているはずのロヒンギャたちは、別の宗教を攻撃しているのだ。

「イスラムに改宗しろ、さもなくばヒンドゥー教徒は殺すと脅された。行方不明になった人たちだってたくさんいる」

そう話すのは、夫を失い、必死にミャンマーから出国した女性。彼女が身を寄せているのはクトゥパロン・キャンプからほんの数キロ離れた、「ヒンドゥパラ」と呼ばれる難民キャンプ。人数は約500人と小規模で、全員がヒンドゥー教徒だという。幹線道路にまで人があふれるイスラム教徒のキャンプとは異なり、そこは奥まった場所にひっそりとあった。

ロヒンギャから迫害される人たち

「われわれを襲ったのはロヒンギャです。ここに来てからもイスラムのロヒンギャから暴力を受けて安心できない」


ヒンドゥー教徒が「ロヒンギャに暴行された」と傷跡を見せてくれた

多くのヒンドゥー教徒難民が、ミャンマーで経験したロヒンギャからの迫害と被害を口にする。中には「ARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)」と武装勢力の名前を挙げ訴える者もいたが、他方、ミャンマー軍に追い出されたと話す難民もいて情報は錯綜していた。

ミャンマー軍は最近になって国内で虐殺されたヒンドゥー教徒の集団墓地をたびたび発見し、そこに埋葬された人々の殺害を「ロヒンギャの仕業だ」と報告している。対してバングラデシュに避難したロヒンギャ難民は、ヒンドゥー教徒の虐殺は仏教徒、すなわちミャンマー軍が行ったと主張する。ミャンマー軍の言い分に同意し協力するヒンドゥー教徒を非難する声も、ロヒンギャたちからは聞こえた。

こうなると本当はなにが起こっているのか分からなくなってくる。確かなことは、ミャンマー国内においてもっとも少数派であるヒンドゥー教徒が、自分たちより多数派の“何か”に迫害され、難民化したということだ。


仏教寺院で祈る仏教徒。増えるロヒンギャ難民にバングラデシュの仏教徒は危機感を募らせる(コックスバザール郊外の町ラモ)

今回の難民の大量流出は、ロヒンギャの武装勢力とミャンマーの軍治安部隊の衝突がきっかけだった。背景にあるのはミャンマー南部ラカイン州に住むイスラム教徒ロヒンギャへの、長年にわたる仏教徒たちからの迫害とされる。政府はロヒンギャを「ベンガル人の移民」などと呼び、少数民族として認めてもいない。

そもそもロヒンギャとはどんな人たちなのか。歴史的、民族的な特長で括られる存在なのか。イスラム教でつながる彼らの宗教的エスニシティ(ひとつの共通な文化をわかち合い、その出自によって定義される社会集団)を指すのか。実は明確には定まってない。

この地域を研究する専門家たちに実際に聞いても、意見は分かれる。さらにロヒンギャが暮らしていたラカイン州には、ロヒンギャと同じベンガル系住民のヒンドゥー教徒が隣り合って暮らす。

バングラデシュの難民キャンプで彼らは、「ヒンドゥー・ロヒンギャ」という名称で難民登録さえされていた。ロヒンギャ問題の解決の難しさは、この地域の人々が形成するアイデンティティの複雑さにも一因があるのだろう。

国家間での難民の押し付け合いが始まっている

ミャンマーとバングラデシュ両国は11月、ロヒンギャ難民の帰還を進める合意書に署名をした。しかし、具体的な帰還手続きや期限は盛り込まれてはいない。難民化したロヒンギャという“厄介者”を早期返還したいバングラデシュ側と、追い払った異分子はもう受け入れたくないミャンマー側。合意からは問題解決の意思よりも、難民を押し付け合う両国の思惑がいっそう透けて見えてしまう。

バングラデシュの中で、今回の事態をもっとも危惧しているのは国内の仏教徒たちだ。ミャンマーとは逆に、バングラデシュでは仏教徒は少数派であり、イスラム教徒から迫害を受ける立場だとされる。コックスバザール郊外に約3万人の仏教徒が住む「ラモ」という町があるが、ここでは5年前、イスラム教徒によって12の仏教寺院などが襲撃され焼失した。

「当時、イスラムの暴徒にはロヒンギャも混ざっていました。彼らは難民キャンプからやって来た。ロヒンギャはとても好戦的で、再び大量流入している現状を私たちはとても心配しています」(シマビハール寺院のシラピリャ僧侶)

そう言われたロヒンギャ難民にしても、なにも望んでバングラデシュにやって来たわけではない。彼らだってできることなら一刻も早く故郷に戻りたいのである。しかし、迫害が続くミャンマーへの帰還を巡っては、難民の間でも揺れる気持ちがあるようだ。


ロヒンギャ難民のノルさん夫妻に新しい家族が誕生した。子どもはイスラム教徒が多数のバングラデシュで育てたいと話す

難民キャンプで生まれた子の未来は

バングラデシュ最大の難民収容所、クトゥパロン・キャンプでの礼拝後、モスクから足早に自宅へと向かうロヒンギャの男の姿があった。彼、ノルさんにはその朝、ひとりの男の子が生まれた。身重のまま国境の川を越えた妻コリーさんが、出産を終えたのだ。キャンプでは、コリーさんが近所の人たちに祝福されながら、ようやく目が開きかけた赤子を抱いて待っていた。

「幸せです。この子のためにもう危険なミャンマーには戻りたくない。イスラム教徒がいるバングラデシュで教育を受けさせたい」


ミャンマーからの難民流入は60万人を超えた。その半数以上は子どもたちだとされる

ミャンマーで教師をしていたというノルさん。彼の願いが叶えば、生まれた子にとってはバングラデシュの難民キャンプこそが“故郷”になる。難民として異国のイスラムコミュニティーで育つこの子の未来は、はたしてどんな世界が待っているのだろうか。名前はまだなかった。イマーム(イスラムの指導者)に相談していい名を付けたいと、若い父親は語ってくれた。