矢野博丈氏

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トラック1台の移動販売からスタートしたダイソー
 「Tomorrow Never Knows」。多くの人がこの言葉から連想するのは、日本のロック・バンド、Mr. Childrenが1994年に発表した大ヒット曲だろう。だが、このタイトル自体はビートルズが英国で1966年に発表したアルバム『Revolver』に収録されたナンバーのタイトルをそのまま借りたと思われる。

 日本語に訳せば「明日のことはわからない(から気にするな)」「明日は明日の風が吹く」などとなる。ビートルズの楽曲はテープを逆回転させたノイズが渦巻く、当時としてはかなり実験的なサイケデリック・ロックだ。ジョン・レノンが主な作詞作曲をしているのだが、タイトルはドラムのリンゴ・スターが何気なく口にした一言を採用したのだそうだ。

 『百円の男 ダイソー矢野博丈』(さくら舎)を読了して、まず頭に浮かんだのがこの言葉だった。同書は、100円ショップ最大手の「ザ・ダイソー」を展開する大創産業の創業者、矢野博丈代表取締役の評伝。数奇な運命にもてあそばれた半生、ダイソー誕生秘話、経営哲学や人柄、従業員の声、成功の要因などが余すところなく語られている。

 今では国内3,150店舗と海外26の国・地域に1,800店舗を展開し、年間4200億円を売り上げる(いずれも2017年3月現在)ダイソーだが、スタートは広島でのトラック1台の移動販売だった。

 ダイソーの他にもキャンドゥ、セリアなどの大手チェーンがあり、すっかり街の風景として定着した感のある100円ショップ。大成功した画期的なビジネスモデルだけに、採算が合うかなどを綿密に計算して生み出されたと思うかもしれない。だが、矢野社長によれば、「100円均一」で全商品を売るようになったのは、まったくの偶然なのだ。

 親方から独立し、1972年に矢野商店を創業したばかりの矢野さんは、ある日の朝、いつものように露店での移動販売に出かけようとしていた。ところが雲ゆきがあやしく、雨が降ってきそうだった。雨ならば露店での商売はできない。「今日は、やめだ」と思っていたが、予想に反して晴れてきた。矢野さんは今からでも間に合うと思い、トラックに商品を積んで出かけることにした。

 午前10時ごろに現地に到着すると、何人ものお客さんが待ち構えていた。チラシをまいて宣伝していたためだった。「早くして!」と急かされ、あわてて荷物を降ろし、開店準備を始めた。すると待ちきれないお客さんが勝手に段ボールを開け、商品を手にして聞いてくる。「これ、なんぼ?」

 矢野さんは急いで伝票を探すが、商品数があまりにも多く、なかなか見つからない。その時、思わず口をついて出たのが、その後の矢野さんの運命を決定づける一言になった。「100円でええ」

 それを聞いたほかの客も、次々に「これ、なんぼ?」と聞いてくる。「それも、100円でええ」。本来の値段を確認する間もなく商品が売れていった。こうして、その後矢野さんが売る商品は、すべて100円になったのだ。

未来が不透明だからこそ必要な「えいや!」の決断
 薄利多売の究極ともいえる100円ショップだが、矢野さんは「安かろう悪かろう」「安物買いの銭失い」と思われるのをもっとも嫌うのだという。「100万円の車は安物だけど、100万円の家具は高級品。ダイソーは100円でも高級品を売っている」と、いつでも胸を張る。

 「こんな商品が100円で買えるんだ!」とお客さんを感動させようと常々考えている。そのため原価率をあり得ないほど上げる。良質の魅力的な商品を開発しようと日々努力を重ねる。ちなみにダイソーが取り扱う雑貨の約99%は自社開発商品だという。

 だが、矢野さんは出店プランなど、長期的な経営計画は「作ったことがない」のだそうだ。口ぐせは「ダイソーは、いつか潰れる」。言葉は良くないが、そんなネガティブ思考の「行き当たりばったり」経営で、ダイソーは巨大チェーンに発展していった。

 ここまで読めばお分かりになるだろうが、冒頭で触れた「Tomorrow Never Knows」は、矢野さんの生き方そのもののように思える。明日(未来)はわからない。自分の会社は明日潰れるかもしれない。でも、どうなるかわからないと思っているからこそ、「えいや!」と思い切ったチャレンジができる。

 この評伝を読むかぎり、矢野さんは豪快な性格ではない。リーダーとして頼りなくも感じる人もいるであろう「小心者」だ。だが、「百均」誕生のエピソードからもわかるように、時に「ええい、面倒だ」と、大胆な決断をする。そして後からその決断に辻褄を合わせる努力をするのだ。

 こうした「えいや!」の決断は、経済学者ジョン・メイナード・ケインズが唱えた「アニマル・スピリッツ」をも連想させる。予測不能な不確実性の中で合理性に基づかない思い切った決断をする投資家の心理を表す用語だ。そうした心理がイノベーションの源泉となり、経済が動かされる、というのがケインズの理論だ。

 また、ディシジョンマインド社代表でディシジョンアドバイザーとして活躍する籠屋邦夫さんは「インテリジェントえいやー」という独自の造語を使って、同様の心理を説明している。2014年の著書『スタンフォード・マッキンゼーで学んできた熟断思考』(クロスメディア・パブリッシング)に詳しいが、選択肢や不確実要因、価値判断尺度などを整理し、時間をかけて熟考した後に覚悟を決めて「えいやー」と決断する「熟断思考」の、最後のプロセスが「インテリジェントえいやー」だ。

 籠屋さんは同著書でこの熟断思考を、「曇ったフロントガラスときれいなバックミラーとサイドミラーを持った車によるドライブ」と表現している。ここで言う「フロントガラス」は「未来」を指す。私たちは、バックミラーとサイドミラー、すなわち過去と現在は見渡せるが、未来を見通すのは難しい。まさしく「Tomorrow Never Knows」なのだ。しかし前に進まないわけにはいかない。だからこそ、後ろと横をよく見た上での「インテリジェントえいやー」が必要になるのだ。

 矢野さんのバックミラーに映るのは、凄まじい光景だろう。学生結婚をした妻の実家の養殖業で借金を負わされ、東京に夜逃げ。その後古紙回収業(チリ紙交換)など職を転々とする。起業した後も、放火による火事で全財産を焼失したりもした。だが、こうした過酷な運命を乗り越えてきたことが、「行き当たりばったり」でもやっていける自信につながったのではないだろうか。

 おそらく2018年も、私たちの社会のフロントガラスは曇ったままだろう。むしろ不透明度がさらにアップするかもしれない。それでも、矢野さん流の「えいや!」があれば、力強い一歩を踏み出せるのではないか。

 2018年が良き年でありますように。

(文=情報工場「SERENDIP」編集部)

『百円の男 ダイソー矢野博丈』
大下 英治 著
さくら舎
296p 1,600円(税別)