アイデンティティ主義がもたらす さまざまな不愉快な出来事の原因と解決策 [橘玲の世界投資見聞録]

 2075年、アメリカは環境破壊のためにフロリダをはじめとする沿岸地域が水没しつつあった。そのため化石燃料の使用を全面禁止する法案が成立したが、これに反発したジョージア、アラバマ、ミシシッピの南部三州が独立を宣言、合衆国は歴史上二度目の内戦に陥った――という設定で始まるのが『アメリカン・ウォー』だ。

 著者のオマル・エル=アッカドは1982年にカイロで生まれ、ドーハで育ったのち98年に家族でカナダに移住、新聞社で調査報道に携わり、アフガニスタン戦争、グァンタナモ米軍基地、エジプトの「アラブの春」、米ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官による黒人少年射殺事件などの取材を手がけ、その後作家デビューを果たした。

 この経歴を見ればわかるように、『アメリカン・ウォー』はたんなる近未来小説ではない。そこには中東での現在進行形の紛争の影が色濃く刻まれている。

中東問題は「文明の衝突」とは無関係

『アメリカン・ウォー』の主人公はサラット・チェスナットという二卵性双生児の姉で、妹のダナ、兄のサイモンとともにルイジアナ州の沼沢地で暮らしている。父のベンジャミンはメキシコからの不法入国者、母のマーティナはアフリカ系アメリカ人だ。

 労働許可をもらいに役所に出かけた父のベンジャミンが自爆テロに巻き込まれて死んだことで一家は困窮し、マーティナは3人の子どもをつれて「自由南部国」のひとつミシシッピ州の州境にある難民キャンプに移ることを決意する。

 キャンプ・ペイシェンスは円を四等分した構成になっていて、北西はミシシッピ、南西はジョージア、北東はアラバマ、南東はサウスカロライナからの移民に割り当てられている。部外者であるチェスナット家はミシシッピの区画で暮らしている。キャンプを運営するのは「赤新月社」という援助団体で、中東の大国ブアジジ帝国が資金を提供している。

 キャンプは〈青いアメリカ〉に属するテネシー州との州境にあり、難民の流入を警戒する北軍や民兵によって厳重に監視されている。キャンプの中には自由南部国のテロリスト組織が入り込み、サラットの兄サイモンは青年組織の一員として活動している。テロリスト組織の背後にはブアジジ帝国の工作員がおり、サラットも中東から戻ってきたゲインズという男と知り合う。

 事件は、サイモンたちのグループが埋めた地雷によって北軍の将軍が爆死したことをきっかけに起こった。それを口実に北軍の民兵たちがキャンプを襲撃し、凄惨な虐殺を繰り広げたのだ。その混乱のなかで母のマーティナは殺され、サイモンは頭部に重傷を負った。

 母を殺されたサラットは工作員のゲインズを訪ねた。なぐさめるゲインズの言葉を、「やつらの話はもう聞きたくない」とサラットはさえぎる。

「じゃ、なにをしたいんだ?」との問いにサラットはこたえた。「やつらを殺したい」――

 この物語は、1982年9月にベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプで起きたサブラー・シャティーラ事件を下敷きにしている。PLO排除を目的にイスラエル軍がレバノンに侵攻し、難民キャンプを包囲した状況で、大統領に当選したキリスト教マロン派の指導者バシャール・ジェマイスが暗殺された。これをPLO組織によるものだとしたキリスト教徒の民兵は難民キャンプを襲い、イスラエル軍が照明弾を打ち上げるなかで2日間にわたって虐殺を繰り広げた。路上に積み上げられた女性や子どもの死体が映像として全世界に配信され、イスラエル政府は国際社会の激しい批判にさらされることになる。

 この事件に遭遇したイスラエル軍の一兵士がのちに制作したアニメーションが『戦場でワルツを』で、この映画のことは以前書いた。

[参考記事]
●映画で理解するレバノン内戦と数奇な現代史

 壁によって隔離されたイスラエルのガザ地区や難民キャンプがイスラーム原理主義のテロリストの温床になっているように、『アメリカン・ウォー』では、北軍に監視される難民キャンプのなかでテロリストが勧誘されていく。だが「北軍」と「南軍」は同じアメリカ人で、宗教をめぐって争っているわけではない。

 ここまでくれば、著者のアッカドの意図は明らかだろう。アメリカ人の読者層に向けて、近未来の南北戦争を背景に、中東問題はキリスト教(ユダヤ教)とイスラームの「文明の衝突」とは無関係なことを訴えているのだ。

 人種や宗教のちがいがなくても、なんらかの線引きで人間集団を「俺たち」と「奴ら」に分断すれば、そこから自然発生的に殺し合いがはじまる。なぜなら、それが長い進化の過程で埋め込まれたヒトの脳のプログラムなのだから。

続きはこちら(ダイヤモンド・オンラインへの会員登録が必要な場合があります)