海外翻訳の目利きとしても知られる、早川書房社長の早川浩氏(撮影:梅谷秀司)

2017年12月10日にスウェーデン・ストックホルムで開かれたノーベル賞授賞式。ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏の公式招待客として、早川書房の早川浩社長も受賞式に出席した。早川氏はイシグロ氏とは17年近い親交があり、同社はイシグロ氏の小説の翻訳をすべて出している。
2017年のノーベル賞では、文学賞のイシグロ氏のほか、経済学賞、物理学賞の関連本も出版しており、ネット上では「ノーベル賞3冠王」と話題にもなった。
海外文学、なかでもミステリーやSF作品が有名な同社だが、それにとどまらず海外作品を数多く日本に紹介してきた。
海外翻訳の目利きとしても知られる早川氏に、イシグロ氏とのかかわりや翻訳ビジネスについて聞いた。

カズオ・イシグロで110万部の大増刷

――ノーベル賞の受賞式はどうでしたか。

ストックホルムはノーベル賞一色でスウェーデン国民がそれを誇りにしていることもよくわかりました。受賞式の雰囲気にも感激しました。さまざまなイベントに出席したり見学したりして、イシグロ氏とも親しく会話できました。もっとも彼は多忙で公式行事がびっしりあるから、私はあまり邪魔にならないようにしていましたが。

――カズオ・イシグロさんの翻訳は、すべて早川書房から出ていますね。11月にノーベル文学賞の受賞が決まった直後に増刷をされました。どれだけ刷ったのですか。

110万部。

――えっ? ずいぶんと思い切った数字ですね。

思い切ったというよりも、取次(とりつぎ=書籍の卸会社)、それに書店からの要望がありましたから。でもいちばんの大本は読者の要望。その要望に応えようということです。

――そんなに刷って大丈夫なのですか。迷いはありませんでしたか。

全然なかったです。もちろん私1人で決めたことではなくて、編集や営業、プロモーションをやっている者たちと相談して決めました。

(大増刷の判断は)欧米の出版社でも当たり前だと思いますね。イシグロさんの本は海外ではフェイバー&フェイバー社で出ていて、日本では早川書房1社です。出版社が2社、3社に散らばっているのではない。「もっと寄越せ」の声に応えるとしたら当然のことです。(売れ行きについて)心配も憂慮もしていません。

――そもそもイシグロ氏の本を出すようになった経緯は?

2001年に版権(翻訳権)を日本の別の出版社と競って、最終的にうちになりました。版権を獲得して初めてお会いし、「早川があなたの日本の出版社になりました」とお伝えした記憶があります。フェイバー&フェイバー社のそばの、行きつけの中華料理屋さんで、お昼ごはんを3時間ぐらい一緒にしました。初めはお互いに緊張していましたね。

日本にご家族(本人、ローナ夫人、お嬢様)の3人でいらしたときに、うちの家族とも食事をしました。最初は、作家と出版社との関係から始まりましたが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、家族同士での交流・お付き合いをずっとしています。

イシグロさんの作品を早川書房が出す段になると、自分が楽しむだけではなくて、いい本を作り、読者の方にも楽しんでもらわないといけません。(イシグロさんの本を出したいという私の)夢がかなっていると同時に、日本の読者に喜んでもらえていると思っています。

イシグロ氏と村上春樹氏のキューピッド

――イシグロ氏は、早川社長の息子である早川淳・副社長の仲人もされたとか。


早川 浩(はやかわ・ひろし)/早川書房社長。1942年東京・神田生まれ。慶応義塾大学商学部卒。1965年早川書房入社、1989年に社長に就任し現在に至る。同社は、父である早川清氏が1945年に創業した(撮影:梅谷秀司)

2015年の6月です。結婚式、講演会、それから読者との交流会もありました。ご本人が仲人はどんなふうに振る舞えばよいのかわからないというので、ホテルでリハーサルまでしていただきました。このときは内輪で歓迎会もしましたが、以前からイシグロさんと交流があった村上春樹氏にもお声掛けして来ていただきました。ずいぶん和やかなアットホームな会でした。 

そういえば、2001年にイシグロさんが来日されることを知った村上春樹さんが編集部に電話をかけてきて、うちの会社の地下にあるレストランでテーブルを囲みました。私はすぐに席を外しましたが、おふたりは意気投合したそうです。ですからおふたりを引き合わせたのは、私だといえなくもない。

――早川書房についてお尋ねします。早川といえば翻訳が有名です。年間どのくらい出版されていますか。

年間で文庫を含め270〜280冊ほど出していますが、そのうち翻訳ものは7〜8割ですね。この10年くらいは、徐々に徐々に日本人作家を増やしています。 

父(創業者、故早川清氏)も外国の書物を翻訳するだけではなくて、日本人のオリジナルの作品・作家を見つけて育ててということをしてきました。できれば1冊でも外国に逆に輸出しようじゃないか、ということは父と話していたんです。星新一さん、小松左京さん眉村卓さんなどは外国で翻訳されています。 

最近ですと、伊藤計劃(けいかく)さんの海外輸出に力を入れています。ほかにも原籙さん、皆川博子さん、月村了衛さんなども実績があります。

早川清文学振興財団では、ミステリーが対象の「アガサ・クリスティ賞」、SFが対象の「ハヤカワ・SFコンテスト」、それからこれがいちばん古いハヤカワの賞で、演劇作品が対象の「悲劇喜劇賞」、3つの文学賞を持っています。日本人作家のこうした下地もあるので、新人の発掘も積極的にしているわけです。特にアガサ・クリスティ賞は、アガサ・クリスティ公認の、世界で最初の公認の出版社であり賞ですから、非常に価値があると思いますね。

――ミステリー、SFばかりでなく、マイクル・クライトン氏の『ジュラシック・パーク』、哲学者のマイケル・サンデル氏の著作など、話題作を送り出してきました。全体の刊行点数の中で、ミステリーとそれ以外でどのくらいの割合にするか、といった目安はあるのですか。

そうした目安はありません。むしろ考えているのは、世界でよい評判をとったものは積極的に出していきたい。早川書房のミステリーは英米の作品が多いのですが、イタリア、フランス、それから北欧といった世界のミステリーも出しています。特に北欧のミステリーは人気がありますね。

うちがミステリーやSFをより強く、より充実させるのは当たり前です。それ以外のノンフィクションで早川書房の路線に合うものを出すということです。ですから、360度アンテナを広げて、経営書でも哲学書でもポピュラーサイエンスでも歴史でも出しています。児童書は以前に出しましたが最近はあまりやっていませんでした。今はもう一度充実させようという気構えでいます。

――文芸以外のノンフィクション作品をよく出すようになったのは、いつごろからですか。

私の父が、身の周りにある科学的なものに関心がありました。たとえば動物行動学でコンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』を出しています。最近の話題作だと、経済書でリチャード・セイラーの『行動経済学の逆襲』。ポピュラーサイエンスといったらいいのかな、肩のこらない科学読み物は昔から取り組んでいます。

要は、よいと思うものは出そうということ。社内で検討して、社内で検討できなかったら外の人、その道の学者に読んでもらい、「早川向きでいいんじゃないですか」と言われたら、社内でもう一度ふるいにかけて翻訳の権利を取っています。ノンフィクションを増やしてきたのは、この10年くらいですが、着々と実を結び始めていると思います。

一部では「3冠王」と話題に!

――『行動経済学の逆襲』『重力波は歌う』と、2017年のノーベル経済学賞と物理学賞に関連する本も早川書房でした。一部では「3冠王」と話題になりました。

受賞者の著作や受賞者に取材した作品ですが、これはたまたま重なった偶然です(笑)。

イシグロさんは取るべくして取りましたが、小説に関していえば、ノーベル賞に値する、また近い将来、名前が挙がってくる方の版権を取っていますし、すでに出版しているのもあります。

――翻訳作品は、早川さんご自身が版権獲得に関与するのはどのくらいありますか。

一応、全部ですね。

――最終的には社長である早川さんが承認されるのでしょうが、ご自身が「こういう本を出したい。こういう作家を見つけてきたので、出したい」というのは?

あります。自分で取りに行ったのは、10%か15%前後かな。年によって違いはありますが、年間当たり20作品とかそのくらいですかね。原則としては合議制です。編集企画というのはそういうものです。

ただし最終的には私が、売れるも売れないも、全部1人で判断します。責任者ですから当たり前です。(そういう意味で)全部関与しているかといえば、全部関与しています。

現地で情報を集めることが大事

――版権を取るか取らないかをどうやって決めていますか。

翻訳するかしないか、自ら向こう(外国)へ行くことです。現地では、日本にまだ入ってこないニュースとか情報に出合うことがあります。「おお、こんなに熱いんだ」とか、「こんなに熱く語られているんだ」とわかる。そうすると「これは日本で出さない手はないだろう」と考えます。「日本で」っていうのは、「日本の出版社で」というのと、「早川書房で」という2つの意味があります。

今年出したエレナ・フェッランテの『リラとわたし』がそうでした。2011年にイタリアで出版され、その後、数年間にわたり続編も含めて世界的なベストセラーになった本です。私が2年前に知ったとき、アメリカやヨーロッパで相当売れていた。それで、「日本でどこが出すんだろう?」って調べると、どこも版権を得ていない。「どうしてだろう?」と思いました。「日本人はイタリアが大好きなのにおかしいな」と。海外でもなぜかと聞かれたくらいです。    

――日本の出版社がきちんとフォローしていなかったっていうことですか。

そうですね。今、イタリアの本はあまり売れませんので、そうだったのかもしれません。


本好きな友人がいれば、必ず引っ掛かってくる情報というものがある(撮影:梅谷秀司)

でも、本好きな友人がいれば、必ず引っ掛かってくる本ですよ。そうして引っかかってきた本に間違いはありません。現地の情報は現地に行かないとわかりませんね。本好きな人たちやさまざまな交友関係の中で情報が集まってきます。作家、出版社、(版権の交渉をする)エージェント。それに、外交官、芸術家、ファッション関係者、映画・テレビのプロデューサー、音楽関係などです。

ロンドンだとエージェント以外に会う人は20人くらいいます。イタリアだと10人くらい。フランスも10人くらい。アメリカだと50人はいますね。ドイツはうちの副社長(淳副社長)や編集本部長に任せています。

外国の友人はすべてが本好きというわけではありません。本のこと知らないっていうのもいます。たとえば「俺はテキサスで繊維の仕事をやっているんだ」と。そういう連中と、映画の話、芝居の話をすることも楽しい。おカネに絡んでないから楽しい。

早川のミステリーでも、ミステリー周辺の人口が多くならないと、本は売れません。むしろ周辺に関心がありますね。

――インターネット時代になって情報がたくさん入るようになりました。あるいは、いろいろな人がさまざまな情報を発信しています。早川さんのネットワークより、もっと早く情報がやり取りされるのではありませんか。

そう、(彼らのほうが)情報はむしろ早いですよ。ただし、本を出すか出さないかは、情報だとかネットじゃなくて、人間の情報のやり取りです。もちろん(ネット時代の情報は)決して悪いことじゃないし、私も刺激を受けています。こういう調べ方があるんだな、と勉強にもなります。でもそうした情報はうちの編集者も知っていますから、「これについてちょっとブリーフィングしてくれよ」と言えばいい。

問題は、誰が判断するか? 誰が判断できるか?ということです。これがいちばん大切です。

――要は、長年やってきた蓄積と判断力の確かさということですね。

いやいや、それは自信がないですよ。野球では1割バッターっていうのはダメで、お払い箱になると思いますけども。2割5分ならこれはちゃんとしたヒット率じゃないですか。4回で1本です。翻訳もので5000、6000、7000、8000部売れるんだったら。2割5部(の成功率)なら、もう非常に判断力が鋭いと言わなくちゃいけないし、僕はそういう人を尊敬しますね。アメリカで売れても日本で売れない、アメリカで売れなくても日本でも売れるということもありますから。

イシグロさんの話に戻ると、ご夫妻と話していて自らが読んだ本を教えてくれることがあるのですが、その本をまったく別の人が話題にしていたなんてことがある。「どっかで聞いたことがあるな」と自分のノートを見ると、すでに書いてあるんです。

――こっちの情報と別の情報が一気につながるという感じですね。

そうです。そういうことがあります。作家の方が私に推薦する本がすべて正解だとは思いませんけれども、作家が、特に世界の超一流の作家が「これに感動したよ」と、「これは日本で出しといてもいいんじゃないか」って言うことは、やっぱり傾聴に値すると思いますね。

知らないことは、必ずメモを取りますね。たとえばイタリア語は知らないから、イタリア人の名前がわからない。「名前をちょっと書いてよ」って、その場で書いてもらう。

人が好きでないと務まらない

――50年間の経験の蓄積は大きいと想像します。人とのつながりは一朝一夕にはできませんね。何か意識していることは?

人が好きなんですよ。僕は。会ったことがない人、うわさで聞いているけど、会ってみたいなという人がたくさんいる。そういった人間に好奇心と関心があります。それは老若男女に関係なく。

僕は人間に関心がない者は出版をやる資格がない、と思います。マス(大衆)を相手にして商売をしている人は、ゲームにも関心を示したり、大衆心理はいまどうなのかと関心を持ったりするのが大切だと思いますね。

高校生のときには外交官になりたかった

――50年のご経験を振り返って、海外の出版界に早川さんの名前が知られるようになったのは、いつごろからですか。

22歳で大学を卒業して早川に入社して、その後アメリカに留学して25歳から正式というか定期的に外国の出張に出始めました。全部1人でやってきました。人数も少なかったし、アシスタントなんて当時いません。全部自分で手紙を書いて、約束を取って、ご飯をご馳走になったら、帰ってきた時に礼状を自分で書きました。

30歳くらいのときかな、「ああ、これは俺に向いている仕事だな」と。高校生のときには外交官になりたかったんですよ。もともと、アメリカに非常に関心があって、外国人に関心があって。「ああいう英語をしゃべれればいいな。俺もああなりたいな」と思いました。アメリカ文学っていうよりも、映画とか音楽とかアメリカの大衆文化に関心がありました。

ところがアメリカで友達になったのはイギリス人が多かった。コロンビア大学の語学学校に留学していましたが、学生寮にはイギリス人が多かった。今でもミラノ、ロンドン、パリと行くけど、ロンドンはいちばん長く滞在しています。いつのまにかイギリス文学との接点が多くなった。グレアム・グリーン、ル・カレ、アガサ・クリスティ……。レイモンド・チャンドラーはアメリカ人だけれどもイギリスにもいましたからね。だからアメリカ文化もさることながらイギリス人に影響を受けていますね。

――版権をめぐる海外との駆け引きで、「こんなのあり?」というような、だまされたような経験はありますか。

そうした経験はありません。ただ、金額が合わなければね、これはもうしょうがないです。

交渉をして感じるのは、早く結論を出すことが向こうにもよい印象を与えることです。ダメな時はダメと伝える。それから、版権を取っても、実際にはその翻訳を出さないことがあります。そんな時は相手から「なぜ出さないんだ?」と詰問されることがある。そのときに言い訳をするのではなく、出さない理由・事情を説明する。相手も機械じゃありませんから、きちんと説明すればだいたいわかってくれます。

――早川書房の将来を見据えたときに、これまでの知恵や経験を下の世代に移植しないといけないのでは?

移植できるものでしょうか? そういうものは、人それぞれで、いくら親子や兄弟でも、感性が違うと思うんですね。だけども、売れなくてはしょうがない。だからよいものを長く出し続けたい。

ワン・アンド・オンリーというのが早川書房の社是なんです。うちの親父は、「猿マネするなよ。人のやっていることがよさそうだからと、そちらに行くのは絶対やめてくれ」と。だから、そのDNAが僕の体の中にありますよ。ですけども、うちのせがれの代になって、それ(猿マネ)がいいというのなら、もうそれはしょうがない。ですけども、おそらく親父、私と2代続いたから、3代、それからその周辺の人もそのぐらいのことは理解してくれるんじゃないかなと思っています。

独自のものをやればいいというものじゃありません。もちろん売れるものをやらなければいけないし、長く読み継がれるもの、長く続けられるものを出さない出版社なんていうのは価値がないです。雑誌もそうでしょうが、特にうちみたいな単行本屋は、その気持ちはものすごく強いですね。ですから、それは違ったことをやっても構わないけれども、できるだけワン・アンド・オンリーの精神は、体の中に、背骨のように通っていてほしいなと思っています。