私は現在某市役所の外国人相談窓口で中国語通訳をしたり、依頼があれば医療機関で通訳をしている。私が30年前から現在に至るまで、中国や中国人と関わりを持ち生活しているのも、当時父親が仕事で知り会った1人の中国人女性との出会いから始まる。写真は北京。

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私は現在某市役所の外国人相談窓口で中国語通訳をしたり、依頼があれば医療機関で通訳をしている。私が30年前から現在に至るまで、中国や中国人と関わりを持ち生活しているのも、当時父親が仕事で知り会った1人の中国人女性との出会いから始まる。

30年前、私の父親は仕事から帰宅すると「今日1人の中国人女性の医師と話をした。実は自分のレクチャーにはほぼ毎回前のほうの席で聴講していてくれて気になっていたから声をかけてみた。そしたら、亭主と小さな子どもを中国に残して、1人で日本で医学の勉強をしているらしく、1人では寂しいし、話し相手もいたほうがいいと思って、自分の娘が中国語をやっているからというのを話して、『今度3人で食事をしよう!』と約束した」と言い出し、食事会が実現した。

30年前の日本での中国に関する情報なんてないに等しい。それどころか、日本の社会は完全に欧米に向いていて中国なんて見向きもされなくて、ましてや私が中国語を勉強して、「中国語を話して金を貰いたい!」なんて言っていたら、「頭がおかしい」とか、「これからは英語の時代なのに何で中国語?」なんて言われた。当時はそんな時代。しかし、私が初めて耳にした中国語は大変面白そうな言語であった。

何と言っても今までに聴いたことのない発音と雰囲気だったのと、日本に生まれて日本のごく普通の学校に行っていたら英語を勉強するのがせいぜい。中国語を耳にすることなんてまず皆無だったから、初めて聴いた時はとても新鮮だった。ところがだ。当時は今のようにインターネットどころか携帯電話もなく、中国は家電もなかった時代。お互いやり取りをしたければ電話か手紙のみだった。そうした時代に私は無謀にも(?)中国語を選んだ。その過程において知り会ったのがこの中国人の女性医師だった。

この女性医師から聞いた中国の様子や実態は日本に暮らす我々にとっては未知の話であり、信じがたい事もたくさんあった。年月が1年2年と経ち、彼女が「もし、良ければ、一度私の暮らす北京に遊びに来て!」と言ってくれて、「そうだな、行ってみないと中国がどういったところかわからないしな!」と思い、彼女の暮らす北京を訪れた。

30年前の当時の中国は今では考えられないほど街中は暗く、レストランや店も少なく、タクシーなんかほとんどなくて、レストランに至ってはもう夜の6時とか7時で閉店。観光地も同じで早くに閉店をするような有様だった。

さらに驚いたことに当時の中国には人民元(中国の国民が使用する貨幣)と兌換券(外国人が中国で使用する貨幣)の2種類の貨幣があり、観光地等の入場料も中国人と外国人では倍ほどの違いがあった(当然、外国人料金の方が高い)。兌換券は今の若い中国人でも恐らく存在すら知らないと思われる。

人生で初めて行った中国は日本とは雲泥の差で、人々の生活、環境は日本で生まれて暮らしていた私にとってはカルチャーショックであった。住宅には風呂なんかなく、トイレにシャワーがついているという違う意味で凄い住環境であった。食生活も今とは程遠く、肉もぜいたく品のような扱いで、食卓もとても豊富とは言えないお寒い状況だった。

しかし、そんな環境とは裏腹に彼女の家族は私をとても温かくもてなしてくれた。彼女のご主人が自ら包丁を持ち、エプロンをして、食事を作っていて、私のために一生懸命にもてなしてくれた。ご主人もお医者様で、中国国内では一流の病院に勤務していたこと、5歳の息子がいることもわかった。

彼女と一緒に歩いた北京の町並みや、当時の中国の政治の事情から、現地の中国人は今のようにはつらつとはしていなかったし、政治の話はもちろんご法度であったし、日本のようなサービスなんておよそ皆無であったが、一度親しくなればとても親切にしてくれた。