駒井祐二(41歳・仮名)は、すべてを失ってデリヘルドライバーという職業にたどり着いた(写真:駒草出版)

今回も『デリヘルドライバー』(駒草出版)の執筆を通して出会ったデリヘルドライバーの人生を紹介したい。

前回の「運転のプロが職場に『デリヘル』を選んだ必然」でも触れたが、もともと日本のセックス産業は、東京であれば歌舞伎町のような繁華街か、あるいは吉原(台東区千束)などの風俗街に店舗を構えて営業されていたものだった。

ところが2003年東京都知事・石原慎太郎(当時)の号令による「歌舞伎町浄化作戦」と称する大規模な風俗店摘発がきっかけで変わり始める。続く2005年の都条例改正、さらに2006年の改正風適法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)の施行によって、ソープランドに代表される店舗型風俗店は激減した。では、その後東京の街は健全化したのだろうか。まったくそんなことはない。むしろ逆だ。

東京に限らず都市部にお住まいの方は、スマートフォンに向かって「近所のデリヘル」と呼びかけてみるといい。GoogleやSiriが、近くにあるデリヘル店を探し出し、店のホームページをずらりと並べてくれるはずだ。

これは単にデリヘルという風俗が増えた、ということだけに留まらない。今や日本の都市全体が、巨大な風俗街と化したのだ。また、店舗型の風俗店の場合は前述した風適法により、深夜0時以降の営業はできないが、デリヘルの場合はほとんどが夕刻から早朝にかけて営業される。

そう、デリバリー型ファッションヘルスは、文字通り夜の闇に覆い隠されているのだ。そんな闇に包まれたデリヘルの内情を、誰より肌で感じているのがデリヘルドライバーたちだ。

「自分がドライバーになるとは夢にも思わなかった」

では、どういう人たちがデリヘルドライバーになるのだろう? 

前々回「天才音楽少年が風俗業界で働き続ける事情」でも書いたが、東スポこと東京スポーツに代表されるスポーツ紙の求人欄を広げてみれば、「デリヘルドライバー急募」という広告が目に飛び込んでくるはずだ。「即採用」「ガス代支給」「日給1万円以上」など、特に「日払い」と大きく打つところが多く、「年齢不問」とされるところも少なくない。

これはどういうことか? 職とカネのすべてをなくし、今日の食事にすらままならない状態に陥った者でも、運転免許証を所有し車の運転さえできれば、明日からは何とか生きていける職業だということだ。今回紹介する駒井祐二(41歳・仮名)はまさにそんな、すべてを失ってデリヘルドライバーという職業にたどり着いた男である。

駒井はもともと風俗の経営側にいる人間だった。きっかけは20代の後半、ホテトルと呼ばれる業態であった。ホテトルとは「ホテル」と「トルコ」の合体語だ。若い人はご存じないだろうが、現在のソープランドは1980年代半ばまで「トルコ風呂」と呼ばれていた。それが当時、日本滞在中のトルコ人留学生から「母国の名がいかがわしい商売に使われているのは悲しい」という訴えがあり、公募によって「ソープランド」と改名された。

ちなみにこの運動を後押しし、政府と行政に強く働きかけたのは、ニュースキャスター時代の小池百合子(現・東京都知事)である。ホテトルはラブホテルなどに女性を派遣することからデリヘルの始祖ともいえるのだが、警察等に許可なく営業し、ほとんどが売春行為をさせるので基本的に違法である。大抵の場合バックには暴力団が存在する。駒井の店も、とある組の若頭が、自分の妻に経営させていた店だった。

駒井は1995年に長野県の公立高校を卒業し、警備会社に就職するため上京した。2年後、バーテンダーになりたいという希望を抱きバーテンダースクールへ通い、学校の推薦もあって六本木のパブに勤める。ところが3カ月過ぎたところで、先輩のバーテンダーを殴って首になってしまう。

取材で話をしている限り、駒井は実に穏やかな人間で「キレる」という行為からも無縁に見える。しかしその先輩という人物から陰湿ないじめを受けていたことで、思わず手が出たのだ。これによって彼の人生は180度転換してしまう。というのも水商売の世界は狭く、駒井の勤めた店が都内に10軒近く展開する有名チェーン店だったこともあり、「人を殴って首になった男」の噂はたちまち広がり、どこも雇ってくれなかった。

そこから、駒井の流浪の日々が始まる。キャバクラの黒服、ポーカーゲーム店、パチンコ屋、どこも違法な店だったりブラック企業だったりしたため、長くは続かなかった。最終的には中年女性の相手をする出張ホスト、さらには新宿2丁目の男娼にまで身を落とした。かろうじて多少続いたのはテレクラだった。そのときの同僚から後に誘われたのが、前述のホテトルである。

店は実にシステマティックに警察対策を施していた。まずホテトル嬢は都内のファストフード店などで待機し、ドライバーがピックアップ。客のいるホテルへと届ける。駒井たちの事務所はそこからはかなり離れた京浜地域にあった。連絡は電話のみ。しかも摘発から逃れるため、月に1度は引っ越しをした。

ヤクザ組織は闇金融も経営していたので、ドライバーとして債務者を使った。住所はもちろん家族から親戚まで情報を押さえられているので、彼らは店の言いなりだった。「だから人間扱いしてなかった。まさか後に自分がドライバーになるとは夢にも思わなかった」と駒井は回想する。

3つの条件が整えば、いい女は自然に集まる

ホテトルは繁盛し、オーナーの若頭はキャバクラなど異業種にも乗り出すことになり、スタッフに対しても「お前たちもやる気があるならカネを出してやる」と持ちかけた。そこで駒井は自分も性風俗の店を経営しようと考える。まずは繁盛していそうな風俗店を探し、素人のふりをして店員として雇われ潜入した。ノウハウを会得するためだ。

その頃流行っていたのはビデオボックスに手コキ(女性が男性客の性器を握って擦り射精させるサービス)が付くというものだった。ビデオボックスとは個室にビデオデッキとアダルトビデオが設置されたもので、客はオナニーするために来る。1990年代前半まではかなり流行ったが、ネットカフェやマンガ喫茶が登場して廃れてきたところで、誰かが風俗嬢のサービスをプラスすることを思い付いたのだろう。

働いてみて、駒井はその店には自分がいたホテトルよりはるかに美人で、しかも素人っぽい女たちがこぞって応募してくることを知る。「なぜだろう?」と考えて、「そうか、脱がなくていいし客から体を触られないからだ」と気づいた。

ホテトルは本番がある。だから当然、客に裸を見せなければならないし、キスも愛撫もしなければならない。ところがビデオボックスは単に客の性器をしごくだけだ。女性は誰でも、見知らぬ男の前で裸になるのは抵抗がある。汚い中年男とキスしたり、触られたりするのも嫌だ。でもカネは欲しいから風俗に来るのだ。だから「脱がなくていい」「触られない」「客の性器を舐めなくていい」という3つの条件が整えば、いい女は自然に集まる。

若頭は1000万円融資してくれた。そこで駒井が始めたのはビデオボックスではなくオナニークラブ、通称・オナクラだった。客が自分でマスターベーションするところを、女の子に見てもらう風俗である。基本的に風俗嬢は何もしない。脱ぐこともない。着衣のまま、客がペニスをしごくのを眺めるだけだ。

一般の人には最もわかりにくい性風俗だろう。そんなことが商売になるのか?といぶかる人もいるはずだ。しかしこれが流行った。駒井の店も成功し、池袋、新宿、渋谷、秋葉原など、最終的には都内で6店舗を展開するに至る。

駒井は、まさに時代の波に乗ったのだ。時は2008年頃、「草食系男子」という言葉が巷(ちまた)を賑わせた頃だ。セックスに対してガツガツする男が減った。その傾向に不況とデフレスパイラルが拍車をかける。ソープランドやホテトルなど、高い料金を払って本番行為を求める男たちに代わり、安い料金で直接的な接触を避け、生身の女性をまるでグラビアやテレビ画面に写るAV女優やアイドルに見立てオナニーしたいという男が増えたのだ。

風俗嬢は各店に30人から40人。「サービスがソフトだから、女はいくらでも集まった」と駒井は語る。諸経費を引くと1店舗の売り上げが30万円前後。6店すべて合わせると最低でも1日150万円は売り上げた。

立て続けに摘発をくらう

「駒井さんは具体的にどういう仕事を?」と聞くと、「何も」と答えた。1店舗に店長1人の体制。他に従業員はナシ。店の掃除から売り上げの計算、嬢の面接まで店長にやらせた。

駒井はほとんど遊んで暮らした。ベンツのCクラスに乗り、グアムやフィジー、モルディブなど海外旅行へ頻繁に出かけ、月に数回は六本木へ繰り出しキャバクラで豪遊した。その際にはセカンドバッグに現金を入れ、ひと晩に平然と100万円以上使ったという。すべてがうまくいっているはずだった。ひとつ問題があるとしたら警察の摘発だった。しかし、それも駒井は切り抜けているつもりだった。

派手にやっていると当然目は付けられる。しかも駒井の店はヤクザの息がかかっていることもあり、無許可店だった。やがて6店舗のうち、1店舗、また1店舗と摘発を受けるようになる。その際、逮捕されるのは駒井ではなく店長だ。そのために、「従業員」ではなく「店長」にしているのだ。

釈放されたら別の店舗で「店長」にする。2度目まではそれでごまかせる。3度目以降はさすがに表には出せないので、仕方なくマネジャーというような肩書を与え、裏で働かせた。しかし摘発は止まらなかった。それまでは1店舗が摘発され、ほとぼりがさめて再開したところで別の店舗がというペースだったのが、2店、3店と立て続けに摘発をくらうようになった。

決定的に「これはおかしいぞ」と思ったのは、渋谷店が地元の渋谷署に潰され、そのまま新宿店、秋葉原店と摘発を受けたときだ。

所轄が管轄を跨(また)いで摘発するのは普通ありえない。完璧に、悪質だとにらまれマークされていた。全店舗が摘発されるまでは、まさにあっという間だった。

駒井は都内のホテルを転々とする逃亡生活を始める。自宅には私服刑事が張っていたからだ。2010年の年末だった。それでも、駒井は楽観的だった。春になればほとぼりもさめるだろう。店舗は残っているしカネもある。またやり直せばいいさ、と。

そこで3月になり、そろそろ大丈夫だろうと夜明け前にマンションに戻り、横になったところでドアが乱暴にノックされた。オートロックのマンションだから、明らかに異様なことだった。まだ籍を入れてなかった現在の妻と暮らしていた。刑事が5、6人令状を手に踏み込んできた。彼女は驚き、泣いていたという。

罪状は風営法違反、無許可営業、一部の店舗の許可取得虚偽・名義貸し(店長の名前で許可取得していた)など。普通なら200万円以下の罰金刑だ。しかも警察はバックにヤクザがいることをつかんでいた。けれど駒井は最後まで口を割らなかった。一時は出張ホストから男娼にまで身を落とした自分を、ここまで引き上げてくれた若頭に義理立てしたのだ。

結局、懲役1年の実刑が言い渡され服役する。半年後、仮釈放で出られたが、財産は不当に取得したということで、すべて没収されていた。唯一残ったものがあったとしたら、後に籍を入れた妻である。

「奥さんはどういう人なんですか?」と聞いてみた。「高校の同級生なんだよね」と答えた。意外だった。何となく、風俗時代に知り合った女性だと思っていた。「高校の頃は口をきいたこともなかったんだよね。オナクラやってたときに地元で同窓会があって初めて話して。嫁も東京でOLやってたからまた会おうか、みたいな。俺、その頃羽振りがよかったでしょう? いろんなもの買ってやったし、海外旅行とかもよく行ったし。だからパクられてカネなくなったら捨てられると思ってたんだけどね。うん、なぜかそうはならなかったね」。

まるで、浦島太郎になったような気分


出所後の駒井は妻と2人、西武国分寺線の恋ヶ窪に1Kの安いマンションを借りて暮らし始める。会社勤めの妻の給料だけではやっていけないので、夕刊紙の三行広告でデリヘルドライバーの職を見つけた。

車は自分持ちという条件だったが、妻がスズキの軽自動車ワゴンRを持っていたので、それを使った。「風俗に復帰して、何か感じたことはありました?」と聞くと、「女の子が変わったよね」と言う。

ホテトルの頃はまだバブルの残り香があった。ブランド物が欲しいとか、ホストに貢ぐ女が多かった。オナクラの時代になると、「コスプレをしたいから」という理由で風俗に来る娘もいた。「女にもオタクがいるんだ」と驚いたものだ。

それが、駒井が刑務所にいる間にすっかり変わっていた。

真面目な娘がほとんどだった。親の借金を返したい娘、大学の授業料を自分で稼いでいる女子大生。この国は、いつの間にこんなふうになってしまったんだ? ハンドルを握りながら駒井は思った。まるで、浦島太郎になったような気分だった。

出所後、若頭の下に戻って、もう一度風俗経営に乗り出すということは考えなかったのだろうか? そう聞くと、「それはないです。あそこで、逮捕されたときで俺の人生は終わったと思ってるから。あのとき死んでいても別によかったかなと思う。今の人生は、禊(みそ)ぎのようなものです」と答えた。

「禊ぎ」という言葉を胸に、駒井祐二はハンドルを握り続けた。そして1年間働いてカネを貯め、手に職を付けるため専門学校へ通った。今はその技術を生かし、一般企業で働いている。結婚を機に妻の方の養子に入ったため、姓も変わり、今は誰も彼の過去を知る者はいない。