今、東京の男女が密かに抱えている悩みがある。

恋人や夫婦間での、肉体関係の喪失だ。

この傾向は、未婚の男女においても例外ではない。

2017年冬、相思相愛だったはずの彼・健太からプロポーズされた美和子は、涙を流す。

ふたりの5年間に、何があったのか?

実は同棲1年が経つ頃から、ふたりは不完全燃焼の夜境に“プラトニックな恋人”となっていた。美和子は思いをぶつけるが、レス問題は一向に解決しない。

30歳になった美和子は、学生時代の友人に悩みを相談。御曹司・瀬尾を紹介され、彼から真剣告白された美和子は健太と別れることを決意。

家を飛び出した美和子は瀬尾が用意してくれたホテルへと向かい、そのまま彼と一夜を共にするのだった。




過去との決別


「…美和子、だよね?」

出社したオフィスのエントランスで、後ろから肩を叩かれ振り返る。

「百合さん。おはようございます」

百合さんと会うのは、彼女が離婚を打ち明けてくれたあの夜以来だ。

その後どうしているか気になっていたが、彼女から放たれる空気はとてもポジティブで顔色も良かったから、私は心からホッとした。

長年レスだった夫と別れ、新たな人生を選んだ百合さん。…今の自分と、重ね合わせずにはいられない。

「美和子、髪切ったんだね。雰囲気が全然違ってたから別人かと思ったわ」

「そうなんです。なんだか急に…バッサリいきたくなって」

瀬尾さんと一夜を過ごした後、私はずっとロングだった髪をボブにした。

髪を切った。ただそれだけのことだけれど、ハサミで髪が切り落とされていく様はまるで憑き物が落ちていくようで、肩先でふわりと揺れる髪は、不思議と心まで軽くしてくれた。

「何か、あった?」

百合さんに、遠慮がちに顔を覗きこまれて口ごもる。

「何もないですよ」

私は慌てて笑顔をつくり、視線を外した。

勘の良い百合さんに、隠し事はできない。打ち明けてしまいたい気もしたが、しかしまだ人に話せる段階ではない、そう思ったのだ。


過去と決別をする美和子。しかし、健太はそれを了承していなかった


「自由に使ってくれればいいから」

会社帰りに『トラットリア 築地パラディーソ』で軽く食事をしたあと、私は瀬尾さんに連れられ、彼が投資用に所有しているのだというマンションにやってきた。

東銀座にある高級マンション。2LDKのゆったりとした間取りは、一人で住むには贅沢すぎるものだった。

勢いで家を飛び出してきたため瀬尾さんの厚意に甘えてしまったが、あまりに分不相応な部屋を目の当たりにして私はようやく冷静になり、そして慌てた。

「あの…私、できるだけ早く、ちゃんと自分で部屋見つけます」

いくら男女の仲になったからといって、ここまでしてもらう理由はない。だからといってこの部屋の賃料は、私の収入で支払える額では到底ない。

しかし瀬尾さんは私の申し出を即座に、きっぱりと否定した。

「何を言ってるんだ、僕たちは結婚するんだから。両家への挨拶やそのほかの手続きを終えて一緒に暮らせるようになるまで、ここにいてくれればいい」

彼はそう言うと私の顔を覗き込み、唇を近づけた。

「…その方が、僕も安心だ」

強く抱きしめられ耳元で囁かれたその言葉には釘をさすような響きがあり、心がひんやりとする。しかし、私は慌てて自分に言い聞かせた。

私のことを信用できないのは、当たり前だ。同棲していた恋人と別れたばかり、そんな私を彼は受け入れようとしているのだから。

私は、瀬尾さんと生きる未来を選んだ。

もう、後戻りすることは許されない。




何もわかっていない男


早めに仕事を切り上げることができた水曜日、私はおよそ2週間ぶりに恵比寿駅に降り立った。

たったの半月しか経っていないのに目に映る景色が違って見えるのは、私の心境が変わったからだろうか。

家を出てから、健太には一切連絡をしていなかった。

健太からは「もう一度きちんと話がしたい」というLINEが届いていたが、それを読んだのはあの夜、瀬尾さんと抱き合った直後で、とても返信する気にはなれなかった。

時刻はまだ19時過ぎ。

急いで残りの荷物をまとめ、健太が会社から戻る前に合鍵をポストに入れて家を出るつもりだった。

…しかしそう都合よく、事は運ばないものだ。



「美和子!」

ようやく荷物をまとめ終えようという時、玄関が開く音、そして健太の驚く声が聞こえて私は身を固くした。

-しまった。

しかし今更、逃げも隠れもできない。

それに…実際のところ、どこかで健太と出くわすことを期待していた自分も否定できなかった。どうしても会いたくなければ、残りの荷物など捨ててもらうか、送ってもらうかすればいい話なのだから。

半月前まで、ふたりで寝ていたベッドの前。

スーツケースを手に呆然と佇む私の姿を見ると、健太は今にも泣き出しそうな顔をして、下を向いたり上を向いたりしながら落ち着きなく歩き回った。

「…俺たち、これで終わりなの?」

しばらく無言で立ち尽くしたあと、健太が思い切ったように口を開く。

「せめて納得できる理由を教えてくれよ。俺は美和子が大好きだし、美和子だって…。それなのに、何で別れないといけないんだよ」


健太は、何もわかっていなかった?男と女の、感覚のずれ


女が愛する男に抱かれたいと願うのは…


「何で、って…」

私は耳を疑った。理由なんて、わかりきっているはずだと思っていた。

私たちはもう何年も抱き合うことのできない、プラトニックな関係だった。むしろそれ以外に、私たちに別れる理由なんてないのだから。

「…そんなの、わかりきってるでしょう?私たちもう何年もレスで…私を抱こうともしないで…健太が、私を女として見てくれてなかったから」

「それは違う!抱くかどうかと、愛情は別だよ。俺は美和子を誰より愛してる。それは、自信を持って言える。女として見てないわけないじゃないか。確かに抱き合う回数は、その…減ったというか、なくなってしまったかもしれないけど、俺と美和子の間にはそんなことよりもっと大切な、深い絆があるんだよ」

抱くかどうかと、愛情は別?

もっと大切な深い絆?

もう最後かもしれないと思うからだろう。普段は温厚で声を荒げることなどない健太が、感情をあらわにして私を引き止める。

しかし彼の放つ言葉は何一つ、私には響かなかった。いや、むしろ、私を幻滅させたと言ってもいい。

…健太は、何もわかっていないのだ。

レスであるということが、愛する男に抱かれないということが、女をどれだけ惨めな思いにさせ、自信を失わせ、卑屈にさせてしまうかを。

「俺は美和子と一緒にいたい。結婚もしたい。そういうことも…別にしようと思えばできるし、それにもし子どもができなかったとしても、俺は美和子がそばにさえいてくれればそれでいいんだ」

美和子がそばにさえいてくれればいい。

それは美しい愛の言葉、なのかもしれない。男とか女とか性を超えた、何も求めない、存在そのものを肯定する究極の愛。

しかしそうやって彼がプラトニックな愛を語れば語るほど、私の心は健太からどんどん離れていった。

女が愛する男に求められたいと願うのは、性欲の問題じゃない。自分が選ばれ必要とされていることを身をもって実感できる、女としての存在証明だからだ。

-心だけじゃなくて、身体も求めて欲しい。

本当はそれを、伝えたい。しかしそう言ったところで、彼に私の本意が伝わるとは思えなかった。

「…健太は何もわかってない」

私はようやくそれだけ言うと、健太から逃げるようにして家を出た。




スーツケースを抱え、一目散に銀座のマンションに戻ると瀬尾さんが来ていて、部屋に入った途端に寝室へと連れて行かれた。

無言のまま荒々しく服を脱がす彼はいつにも増して強引で、私はまるで自分の心の隙を責められているかのように感じ、されるがままになった。

気持ちの切り替えができず最初は少しばかり抵抗を感じても、彼の要求に従い上になったり下になったりしながら何度も何度も激しく求められるたび、私の身体は次第に愛される悦びでいっぱいになる。

私は自分の身体が、そして心までが、どんどん瀬尾さん色に塗り替えられていくのを感じた。

それは言葉にできぬ心地よさで、私は本能のまま夢中で彼を求め、声を出した。

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瀬尾さんと関係を深める美和子。しかし、少しずつ違和感を覚え始める。