『人魚の石 (文芸書)』田辺 青蛙 徳間書店

 童話作家として有名な小川未明は、日本文壇屈指の「怖い小説」の書き手でもある。ちくま文庫から出ている『小川未明集 幽霊船 文豪怪談傑作選』を読んでいただければ、そのことには納得していただけると思うが、そもそも小川の童話そのものが時として怖くて仕方ないのである。たとえば絵本になっている「電信柱と妙な男」がそうで「昼間はちっとも外へ出ない」「夜になって人が寝静まってから、独りでぶらぶら外を歩くのが好きであった」という「妙な男」が夜の街で電信柱と会話を交わすというだけの話だ。奇想の小説と言ってしまえばそれまでなのだが、この中の妙な男と電信柱との「やあ、お前さんの顔は真っ青じゃ。まあ、その傷口はどうしたのだ」「ときどき恐ろしい電気が通ると、私の顔色は真っ青になるのだ。みんなこの傷口は針線でつつかれた痕さ」という会話のさりげない残酷さが私には怖くてたまらない。そして、結末のやりきれない投げっぱなし感たるや。

 そして言うまでもなく恐ろしくてたまらないのが代表作とされる「人魚と赤い蝋燭」である。小川は記憶の古層にあるもう手の届かないものや、取返しのつかない悔恨の思いなどを掘り返して、それに光を当てる名手であった。先に挙げた『幽霊船』にも、幼少時の記憶を扱った作品がいくつか収められている。小川に「おまえのいる世界は、ほれこのとおり脆いのだ」と指をさされると、たまらなく怖くなるのである。

 同じような恐怖体験を味わわせてくれるのが、田辺青蛙『人魚の石』だ。

 物語は、山深い場所にある廃寺に〈私〉こと日奥由木尾が僧侶としてやって来ることから始まる。その寺には彼の祖父が住職として長く住んでいた。両親が不仲だったために〈私〉も十年近く祖父母に預けられていたのである。彼にとって最も古い記憶は、同じ年頃の子供たちと寺で遊んでいたときのものであり、幼児期の幸福はすべてこの地にあった。その思い出の地で住職となり、人生をやり直すために〈私〉は戻って来たのである。

 住む人がいなくなった寺の建物はすっかり荒れ果ててしまっていた。住職としてやっていくためには相当に手を入れなければならない。事件は、庭の池の水を抜いているときに起きた。水が淀み、蚊が湧いていたので、正常な水に入れ替えようとしたのだ。水位が下がり、それが見えてきたとき、〈私〉は初め白い大きな石だと認識した。しかし、そうではなかったのである。池の底に埋まっていた塊は、真っ白な皮膚をした人間であった。口を開いた男は、自分は人魚だと名乗り、祖父の代から寺に住んでいたのだと語った。こうして、突如として現れた人魚と〈私〉の奇妙な共同生活が始まる。

『人魚の石』は連作短篇集の形式をとった小説であり、各話には「幽霊の石」「記憶の石」のような題名が付されている。寺のある山にはかつて鉱山として繁栄した時期があった。また、〈私〉の一族には奇妙な石を発見することができる能力が備わっていたのである。寺に残されていた石を人魚が踏みつけると、中からは痩せさらばえた老婆の姿が浮かび上がり、「つらい......」と言い残して消える。幽霊を中に封じ込める石だったのだ。このような奇妙な石のエピソードに導かれながら、山の生活が描かれていく。化物であるうお太郎(〈私〉が命名)は気まぐれであり、人間の思いつかないような行動をとる。そのため気が休まらないことはなはだしいのだが、孤独な〈私〉にとってはそれでもかけがえのない同居者なのである。

 話が進行すると共に、山の秘密が少しずつわかってくる。山ではかつて殺人事件が起きている。「幽霊の石」に登場した老婆はその犠牲者だ。また、うお太郎は過去に石採りの男に火を放たれたことがあった(「記憶の石」)。脱皮をしてなんとか九死に一生を得たのである。〈私〉にとっては幸せな思い出しかない山で、いったい何が起きていたのか。その謎が導線の役割を果たし、やがて思いもよらなかった真実が明るみに出ることになる。人魚や天狗など妖怪の登場する作品であるが、彼らのキャラクターはぬけぬけと明るく書かれているので、気味悪いながらも陽性の雰囲気がある。うお太郎は、なんと女装までするのである。空気の明るさに魅かれて、読者は楽しくページを繰っていくはずだ。それがあまりに軽快なので、戻ることができない深部に足を踏み入れても気づかない。後半に入ると物語は真の姿を現し始める。楽しく遊んでいた山で道に迷い、急に一人になってしまったことを意識した瞬間、人はおそらくたまらない孤独と恐怖を感じるだろう。本書の感覚はそれによく似ている。

 物語はデクレッシェンド、すなわちだんだんと減退して終わっていく。景色は色褪せ、鳥の鳴き声や子供の歓声も聞こえなくなり、静かな眠りが訪れるのである。

(杉江松恋)