東京を生きる女たちは、もう気がついている。

「素敵な男の隣には、既に女がいる」という事実に。

自分が好きになるくらいの男を、他の目ざとい女たちが見過ごすはずがないのだ。

不動産会社で秘書をしている繭子(29歳)は、商社勤務の洋平(30歳)と付き合って2年になる。

30歳までに結婚を決めたい繭子だが、誕生日を目前にしても彼からプロポーズの気配がなく焦りを募らせる

第六感が働いた繭子はある夜、なかなか既読にならないLINEに嫉妬心を募らせ深夜に家を飛び出す。

洋平はそんな繭子を優しく宥め、ふたりの関係は改善したように思われたが…。




すれ違った女


リズミカルだったはずの洋平の相槌がワンテンポ遅れた気がして、私は右隣を歩く彼の視線を追った。

すると今しがたすれ違ったばかりの女性に、目が止まる。

ふわりと揺れる巻き髪、ツイードのミニ丈スカートというファッションから、20代半ばだろうと私は推察した。

私に気づいた彼女と目が合い、その大きな瞳に宿る眼力に、私は本能的に構えた。

「今の子、知り合い?」

洋平の腕を掴んでいた手に力を込めると、彼はすぐさま私に向き直って首を振る。

「いや、知り合いに似てるなと思っただけ。でも違った」

彼の回答は心の片隅に小さな引っかかりを残したが、その正体を突き止める前に洋平が話題を変えた。

「そうそう!繭子の誕生日、喜びそうな店予約したから楽しみにしてて」

「…えー、どこだろう?楽しみ」

引っかかりを飲み込むようにして、私は慌てて笑顔をつくった。

繭子の好きそうなところだよ、と彼は笑って私の顔を覗き込み、そして噛みしめるような言い方で、こう呟いた。

「…繭ちゃんもついに、30歳かぁ」

その言葉を、洋平はどういう思いで口にしたのだろう?

私は静かに彼の表情を盗み見たが、洋平の本音はまるで読み取れなかった。


ついにやってくる、30歳の誕生日。結婚に向け、動きはあるのか?


30歳の誕生日


「繭ちゃん、お誕生日おめでとう!」

洋平が予約してくれたのは、『THE ARTISAN TABLE・DEAN & DELUCA』。9月にオープンしたばかりで話題になっており、私もインスタグラムなどでちらほら目にして気になっていた。

「12月の週末に、よく予約取れたね。ありがとう」

いつもと変わらぬくつろいだ様子の洋平から、やはりプロポーズの気配はない。

しかし彼の優しさとマメさに、私は素直に感謝した。

洋平自身はどちらかと言うと和食を好み、イタリアンやフレンチにさほどの興味はない。しかし私を喜ばせようとして、話題の新店を予約してくれたに違いなかったから。




「じゃあ…30歳の抱負でも語ってもらおうかな?」

食事を終え、次はデザートというタイミングで突然話を振られて、私は咄嗟に口ごもった。

「抱負…?」

-私は…結婚して、子どもが欲しい。

私がこうなりたいとイメージするのは、家庭を守る良き妻であり、賢く子どもを育てる母となること。それ以上でも以下でもなかった。

-待ってるだけじゃ、プロポーズなんか一生されないですよ。させるんです、プロポーズは。

どう答えるべきか答えに詰まっていると、ふいにシバユカの言葉が思い出された。

-決断しない男は、何年待ったってプロポーズなんかしてくれない。

私はもう、2年も待った。そして今日、30歳の誕生日を迎えた。

30歳の誕生日が女にとって一つの節目であることは、洋平だって絶対にわかっているはず。

シバユカの言う通り、今このタイミングで決断してくれないなら…きっともう、何年待っても無理なんじゃないだろうか?

…私は覚悟を決め、まっすぐに洋平を見据えて口を開いた。

「私の30歳の抱負は、結婚すること。それで…早くママになって子育てがしたいの」

考えてみれば、私がこんな風に自分の考えをはっきり伝えるのは、2年もの間付き合ってきて初めてかもしれなかった。

洋平に好かれたくて、嫌われたくなくて。結婚のけの字も出さない洋平に疑問を持ちつつも、ずっと自分の気持ちに蓋をしてきた私。

尽くしていれば、多くの時間を共にすれば、いつかきっと。

そんな綺麗事を、シバユカの言う“幻想”を、何の根拠もないのに頼みにして...。

「結婚って、俺とってこと…だよね」

これまでと違う私のはっきりとした物言いに、洋平は明らかに戸惑っているようだった。

しばしの沈黙の後、見当違いな問いをする彼に私は半ば呆れながら、そして諦めを感じながら、静かに頷く。

「…やっぱり、はっきりさせるべきだよな」

洋平の言葉は、いつになく歯切れが悪い。そしてその物言いから、もう聞かなくても答えはわかっていた。

「ごめん、繭子。俺…結婚はまだ考えられない」


現実を突きつけられた繭子が悩みを相談したのは、もちろん…


その夜、食事を終えた私と洋平は気まずい雰囲気の中、無言のまま帰路に着いた。

彼はせっかくの誕生日を台無しにしてしまったことを気にして、私を終始気遣ってはくれたけれど、その優しさも「結婚は考えられない」と断言された後では偽善に思える。

送るよ、と言って洋平は私のマンションまで来たけれど、私は中に入ろうとする彼を拒絶した。

本当は、離れたくない。

だけどここでまた彼にほだされてしまったら、私はまたきっと同じ過ちを繰り返してしまうから。


彼は、私を幸せにしない


「繭子、ご飯食べて帰らない?」

週明け、精気を失った顔で出社した私を心配したのだろう、同期の優奈が、帰り際に食事に誘ってくれた。振り返ると、優奈の後ろで後輩のシバユカも不安そうに私を見ている。

正直に言えば、まだ全然気持ちの整理がついていないし食欲もなかった。しかし誰もいない家に一人戻っても気分は滅入る一方だろうと思い直し、私はゆっくり頷いた。




3人で立ち寄った『Baru&Bistro * musiQ“ mood board”』で、私は結局、洋平から突きつけられたあまりに残酷な現実を洗いざらいぶちまけていた。

たいして飲めないのに最初からワインを頼んだせいで、早い段階から思考がぼんやりしていた。

楽しげな声が飛び交う喧騒に紛れれば、暗い話題も笑いながら話せるものだ。

私の話を聞いて、真っ先に沈黙を破ったのはやはりシバユカだった。

「…繭子さん、次行きましょう!」

同い年の優奈はおそらく身につまされる思いなのだろう、「ひどい」と言ったきり言葉を失って黙り込んでしまっている。

「繭子さんだって、わかってるはずですよ。彼は、自分を幸せにしないって。それでも失いたくないって思うのは、その彼をというより、費やした2年の月日とか尽くしてきた自分を無駄にしたくないだけ。でもそうやって執着する方が、もっと時間の無駄なんです」

淡いピンク色のオフショルニットから肩を覗かせながら、シバユカは相変わらず歯に衣着せずはっきりと、そして的確なことを言う。

時間の無駄、か。

洋平との2年間全てを否定する気はないが、結婚したい30歳の私が、結婚する気のない男とこれ以上付き合いを続けるのは確かに不毛だろう。

-やっぱり別れるしかないか…。

考えれば考えるほど、結論は決まっている。しかしそれは私にとってあまりに酷な選択で、頭ではわかっていても心がついていかないのだ。

「そうだなぁ、繭子さんを幸せにしてくれそうなのは…ああほら、日高さんとか」

顔を曇らせる私を励まそうとでもしたのだろうか、シバユカが突然、思いもよらぬ名前を口にした。

「日高さん?」

日高さんって、誰だっけ。いきなり挙がった名前に、私はとっさに顔を結びつけることができない。

「それって、経営企画部の?最近よく繭子のとこに常務の予定聞きに来てる人じゃない?」

優奈が驚く声に、シバユカは悪戯な表情で頷いた。

「あの人、繭子さんに気がありますよ絶対。私の勘は、当たるんです」

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シバユカの言う、日高さんとは。一方洋平も、再び彩花と急接近する?