東華大学の謝林さんは、日本人の教師の姿を見て、自分の両親に対する接し方を反省したそうだ。写真は教室。

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日本では「親の心子知らず」とよく言われるが、中国でも同じようだ。東華大学の謝林さんは、日本人の教師の姿を見て、自分の両親に対する接し方を反省したそうだ。以下は、謝さんの作文。

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ベッドの下に、ダンボールが一つ置いてある。中には今まで使ってきた日本語の本がびっしり詰まっている。埃っぽくて、ボロボロになっているが、捨てるに捨てられない。『みんなの日本語』という一冊を取り出すと、挟まれていた一枚の写真が床に落ちた。写真に写っているのは、最初の日本人の先生、山口先生だ。

大学に行くには、志望大学を選ばなければならない。私は南方の小さな町に住んでいる。家から遠く離れた北方の大学に行きたかったが、「いかん!そんなに遠い所に行って誰がお前の世話をする?絶対行かせない」と父親に猛反対された。「自分で自分の面倒を見るから、余計な心配するな!」と、家の隅に置いてあったミシンを押し倒し、家から出ていった。

このミシンは、祖母から伝わる宝物だと、小さい時よく母親から聞いた。家を出た私は、街中で石造のベンチに座り、「自分が選んだ大学に行きたい、自分が好きな専門を勉強したい、何が悪いんだ」と心の中で、このような声を響かせていた。後方から、「家に帰りましょう」と迎えに来てくれたのは母親だった。私のお気に入りの場所を知っている母はここまで探しに来てくれたが、やはり帰りたくなかった。

「おばあちゃんのミシン、まだ片付けてないのよ。壊れたみたい」。母親の言葉を聞いた瞬間、まるでガラスの花瓶がいきなり地面に落ちたかのように不安が迫ってきた。しかし、その時、何も知らなかった私は、ただおとなしく母親とともに家に帰って壊れたミシンの破片を片付けた。

結局、父親は妥協して、私の望む大学に行かせてくれた。大学で初めて出会ったのは、山口先生だった。ある日、先生は何も言わずに突然帰国したことがあった。再び先生に会った時、好奇心に駆られた私は、「どうして急に日本に戻りましたか」とうかがった。先生は無表情で「母が亡くなったんです」と答えた。しかし、数秒後、心が引きちぎられるほどの大声で泣き始めた。60代の先生が私の前で泣いたことにショックを受けた。先生は「謝くんは、いつも家に電話をかけますか」と、泣き声で聞いた。「いいえ、全然」と何も考えずに返事をした。「冷たいですね、謝くんは」。こう一言残し、先生は泣きやんでその場を後にした。

寮に戻ったのは夜だった。先生の言葉を考えながら、ベッドに横わたっていた。目を閉じて、またあの時の先生の言葉を思い出した。考えれば考えるほど、先生が先生のお母さんと別れる場面が頭から離れなくなった。中国にいる先生は、きっと日本に残してきたお母さんのことを思っているだろう。とその時、自分の親のことが急に頭に浮かんだ。田んぼで労作している父親、祖母のミシンを使って服を作ってくれる母親。私はいつも両親からもらってばかりだと初めて気づいた。両親は自分のために何でもしてくれるのに、私は「ありがとう」という言葉を返すどころか、文句を言うばかりだ。本当に先生が言った通り、冷たい人間だ。

翌日、再び先生に会った時、「ごめんなさい、本当にありがとうございます」「今朝、両親に電話をかけて、大学での近況を報告しました」と先生に感謝の気持ちを込めて報告した。先生は「よかったですね」と微笑んでくれた。

先生のおかげで、毎週、両親に電話を掛けるのが習慣になった。食事をする時も食べ残さないようにする。これは稲を植えてくれた人に対する感謝。教室を使った後、きちんとゴミや椅子などを片付ける。これは教室を提供してくれた人に対する感謝。周りの人に感謝しながら生きている。全て山口先生が教えてくれたことだ。大学生でありながら、子どもでも分かることが分からなかった私を変えてくれたのは、山口先生だった。写真を再び本の中に挟み、そして、「ありがとう」と小さな声でつぶやいた。(編集/北田)

※本文は、第十二回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集「訪日中国人『爆買い』以外にできること」(段躍中編、日本僑報社、2016年)より、謝林さん(東華大学)の作品「『ありがとう』を探す旅へ導いてくれた先生」を編集したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。