10月にロングインタビューを受けた西田氏

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 かつてスター経営者と称えられた男はやがて「戦犯」と謗られ、名誉を回復することなく世を去った。12月8日に急逝した東芝元社長、西田厚聰(あつとし)氏のラストインタビューを行なったジャーナリスト・児玉博氏は、彼の死にもう一つの「終焉」を見る。日本が築き上げてきたサラリーマン社会の、完全なる幕引きである。児玉氏が綴る。(文中敬称略)

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“痛ましい戦死”──西田の訃報に接し、脳裏に浮かんだのがこの言葉だった。と同時に11月15日に上梓した『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』のためのロングインタビューに応じてくれた時の光景が甦った。

 6月24日に生死の境を彷徨った9時間にも及んだ胆管癌の手術。そして、3か月以上にも及んだ入院生活。ロングインタビューを奇跡的に受けてくれた西田は、かつての浅黒くエネルギーが横溢する精悍な姿とはほど遠い、顔色といえば紙のように白く、15キロ近く痩せたその姿は、痛々しかった。

 それでもインタビューが始まるや、西田の歯切れの良さはかつてのそれを彷彿させた。「3時間程度ならば(インタビューを)受けますよ」とメールで言って来たように、少々疲れた風情は見せたものの西田の気力には目を見張るものがあった。

 その生い立ちからイラン人の糟糠の妻との出会い、学問を捨て実業の世界に飛び込み、そして名門東芝の社長に駆け上がるまで、西田は淀むことがなく、答えてくれた。今にして思えば西田との3時間余りの対話は、遺言状を聞き取る作業だったのかもしれない。ただしその遺言は“苦い”思いが残るそれではあったが……。

 西田は異端の経営者と呼ばれた。異端と評されるには十分なほど、彼の履歴書は規格外だった。

 東京大学大学院で西洋政治思想史を学んでいた西田はイランからの女性留学生に恋をし、成就させるために学問を捨てる。日本を捨て、イランに飛んだ西田は、当時、設立されたばかりの東芝の現地法人に現地採用の職員として働き始める。西田が東芝の正社員となるのは31歳の時。一般社員が22歳で入社することを考えれば、約10年遅れの新入社員だった。

 10年という周回遅れのランナー西田は、そこから自らの卓抜した能力と気力で前を行く者達を次々と追い越し、そして名門と言われて久しい東芝の社長という玉座に座る。まさに西田は“成り上がり”を体現してみせた、希有なサラリーマンなのである。昨今聞かれることがなくなった言葉だが、西田は“企業戦士”としてガムシャラに働き、その働きによって自己実現を図ろうとした。

◆「常に頭脳を酷使せよ」

 ビジネスマンとして西田の能力の高さを証明し、またその基礎を作り上げたのがイラン時代だった。日本を遠く離れた異国で西田は、その才を遺憾なく発揮する。

「僕は別に技術者じゃないんだ。(けれども東芝は)会社というよりもメーカーなんですね。メーカーというものはやはり技術であり、数字なんですよ。だからたとえビジネスマンとして使う機会がなくても(技術や数字を)学ばないといけない。知らないことは学ばなければいけない」

 西田はイラン人労働者を雇いながら、日本とは余りに違う製造現場で戸惑う東芝生え抜きの社員たちとともに、イランでの現地法人を軌道に乗せるべく八面六臂の活躍を見せる。

 西田にとってすべてが未経験。その中、素人の西田は英語で書かれた会計の専門書を紐解いてはイラン側との会計統一基準を作り上げ、その一方でやはり初めて資材の調達や原価計算などをやりこなす。

 西田の仕事を企業に当てはめれば、経理・会計から営業、総務まで企業の要となる分野を経験する。

「会社の数字は数学とは違う。同じ“1”でも1兆円の1なのか。1億円の1なのか。数字の背景となっている大きさを知らないと意味がない」

 西田はイランで数字の重み、厳しさを叩き込まれる。西田は終生、数字に厳しかった。けれども、その数字によって苦しめられ、また疑惑を生むことにもなる。

 西田との最後のインタビューではこんなやり取りがあった。東芝の不正会計を調査していた第三者委員会は不正会計に深く関与した歴代社長の1人として西田の名前を挙げた。西田は烈火の如く怒りを露わにした。

「1兆円のビジネスをしていた自分にとって、50億円や100億円(の不正会計)は多額でも何でもない」

 西田の命を奪ったのは病名的には急性の心筋梗塞だったが、間違いなく彼が世界初のノート型パソコンの原型となるモデルを欧州で売り歩き、寝食を忘れるが如く働いていた時代に患った胆嚢に原因があった。

 失敗すれば東芝はパソコン事業から撤退するという状況の中、ヨーロッパ市場開拓が至上命題だった西田は、猛烈に働く。働きながらも、「常に頭脳を酷使せよ」「周囲の変化に挑戦せよ」「失敗を恐れるな、失敗は次への成功の足がかりだ」などと書かれた紙を部下たちに渡しては鼓舞し続けた。

「撤退なんか俺がさせない」

 こう言って自分自身を奮い立たせ、部下達を叱咤した西田は、営業に向かう部下らにこう言い続ける。

「情報を集めろ。その情報を重層的にするんだ」

 いくら決断しても判断が間違っていれば結果は悲惨だ。そのことをよく知っていた西田はとにかく情報を集めさせては、その判断に深さを持たせようとした。

 10年遅れのランナーは、こうした粉骨砕身の努力、智性と貫徹力で次々と前を行くライバル達を追い越していった。

 そんな中で西田を激痛が襲う。胆嚢がコカ・コーラの瓶ほどに腫れ上がっていたのだ。手術は2度に及んだ。特に2回目は30分で終わるはずが、8時間以上もかかり、付き添った妻は西田の死を覚悟したほどだった。この時の傷が、後年、西田を胆管癌となって再び襲い、命を奪う。

「企業は成長、しかも持続的に成長しなければならない」

 米原子力会社「ウエスチングハウス」買収の背景には西田のこうした考えがあった。GDPと同じパーセンテージしか成長できない今までの東芝では未来がない、この危機感が西田を買収に向かわせた。

◆「普通のことをやっただけ」

 けれども、福島第一原発の甚大な事故、後継指名した佐々木則夫との抜き差しならぬ確執が東芝の原子力事業を蝕んでいく。西田は原子力事業の劣化の原因はすべて、経営にあったと断言した。

「事故が起きなくとも同じような問題が起きていたんじゃないでしょうか。先延ばしされただけじゃないかな。問題は経営だから」

 経営を見失った東芝への見方は冷ややかだった。西田は最後の最後、経営者としての最大にして最高レベルの経営判断である後継選びで手痛い失敗をした。集めた情報に自らの欲が入る時、情報はクズでしかなくなった。

 西田の妻は、「うちは母子家庭でした」というほど、西田はビジネスに自らの人生を捧げ、そこで自己実現を図ろうとした。実際に頂点まで上り詰めた。その西田が最後のインタビューで語った、かつて彼自身が身を捧げた東芝に対する厳しい見方に対し、OBなどの中から批判の声も出ていた。たしかに、かつての光り輝いていた西田からは想像もつかぬ、批判に終始する姿には、その場で聞いていた筆者でさえも痛々しさを覚えたほどだった。西田はかつて、環境が人を作ると語っていたが、西田もまた環境によって変わってしまったのかとも思った。

 しかし、それは違ったのだろう。自己正当化に終始した西田。それは東芝にすべてを捧げて来た矜持があればこその譲れぬ一線だったはずだ。

 東芝に身を捧げて来た西田はもういない。社長経験者には慣例のはずの社葬も西田には用意されない。帰るべき母港ともいえる東芝との関係を断ち切られた西田の戦死は、やはり痛ましさばかりが残る。

 西田の戦死を思う時、その出自、手法は全く異なるもう1人のカリスマ経営者を思い出す。一代にして傘下およそ200社、年商5兆円を超えるセゾングループを築き上げた堤清二だ。

 私は堤が亡くなる前年の2012年に最後となるロングインタビューを重ね、『堤清二 罪と業』という本にまとめた。

 感性の経営とも言われたその手法は、すべて堤が発想したものだった。父・康次郎への反発、西武グループを率いた異母弟、義明との確執が堤を怪物に育てていった。

「僕は普通のことをやっただけだけど?」

 こうあっさりと言う堤は最後まで理解されなかった。何のためにあれだけ事業を広げたのか。この質問への答えも印象的だった。

「終わりのない実験だったのかな……。そう、父にできたことは自分でも、って思ったりもしました。実験ですね、そう、実験……」

 経営者一族に生まれ、小説家・辻井喬としての顔も持つ堤には、“企業戦士”だった西田が漂わせた悲壮感は最期まで感じなかった。

 まったくタイプの異なる2人の経営者に共通点があるとすれば、ともに昭和という時代を背負った経営者だったということだろう。

 そして西田の死は、昭和という時代の残滓を持った日本的な企業とサラリーマンモデルの終焉を象徴している。

※週刊ポスト2018年1月1・5日号