―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人はとうとう“新婚クライシス”を迎え、夫婦のすれ違いは深まる。そんな中、英里は赤ん坊を連れた元彼・きんちゃんに偶然再会。理想の父親像へと成長した彼の姿に触発され、ついに「子どもが欲しい」と吾郎に宣言した。




―子ども...。

一人部屋に閉じこもった吾郎は、英里の「子どもが欲しい」宣言の重圧を受け止めるのに必死だった。

吾郎にとってそれは、まるで死角から思い切りフックパンチを食らった衝撃と等しく、ノックダウン状態からまだ立ち直っていない。

―突然何を言い出すんだ。アイツは......。

一応は結婚しているのだから、吾郎だって子作りが全く頭をよぎらなかったわけではない。

しかし、それはあくまで“いつか”の話であり、結婚してたったの半年、夫婦生活の心地良さというものをやっと理解したところで、この超難題に取り掛かるのは早すぎではなかろうか。

しかも、最近英里との関係は日に日に悪化しており、どう考えても子作りのフェーズではない。

「吾郎くん」

英里の小さな声が部屋に響き、吾郎の警戒心がピクっと反応する。

「一応、ゴハン作ったけど...。あとで食べてもいいし、食べなくてもいいから」

「い、いや。食べる。すぐ行く」

できれば英里の“子作り宣言”をもう少し消化するまで会話は避けたかったが、これ以上冷戦状態を長引かせるのは流石にまずい。

吾郎は戦場へ向かう武士の如く、気合いを入れてダイニングへ向かった。


ノックダウン状態の吾郎に、英里がさらなる追い打ちをかける...?!


ダイニングテーブルには、美味しそうな料理が並んでいた。

肉じゃがに干物、青菜のお浸しに、吾郎の好物である炊き込みご飯。すれ違い生活が続いていたから、英里の手料理を食べるのは久しぶりである。

温かみのある食卓に内心ほっこりするが、吾郎は硬い表情を崩さぬまま、テーブル越しに英里と向かい合った。

「...いただきます」

「...どうぞ」

「......」

料理はいつも通り吾郎好みの味であったが、二人の間には気まずい緊張が走ったままだ。また、無言の英里は正体不明のプレッシャーを発している。




「吾郎くん...。この際だから、はっきり伝えたいことがあるの。今すぐ返事はしなくていいから、とりあえず聞いてくれる?」

「...おう」

英里は呟くように小さく、しかし重々しく口を開いた。

「私は吾郎くんと結婚して幸せだけど、やっぱり結婚式を挙げたいし、ハネムーンも行きたいの...」

「......?!」

蚊の鳴くような声だが、今の吾郎にとってはボディブローのようにジワジワと精神的に効いてくる。

「それに...吾郎くんがずっと住んでるこのお部屋も好きだけど、新婚らしく、二人で暮らしやすい新居探しもしたい。さっきも言ったけど、子どものことだって考えたい」

切実に訴えているのは分かるが、吾郎はどうしても英里から目を逸らしてしまう。

「私、吾郎くんとちゃんと家族になりたいの......そうじゃなきゃ、結婚した意味がない」

そして最後のセリフは、トドメの一撃の如く、吾郎の胸にグサリと深く突き刺さった。

―男は入籍したら最後、絶対に嫁には勝てないんだよー

松田のドヤ顔が、脳裏に蘇る。

自分に限っては、そんな情けない男にはなるまいと信じていた。しかし吾郎はこのとき、はじめて松田の言葉を理解した気がした。


家に帰りたくない妻


―やっぱり、言い過ぎちゃったかな...。

就業時間を過ぎたオフィスでダラダラとPCに向かいながら、英里は吾郎との週末を思い返していた。

結婚式、ハネムーン、新居、そして子作り。

普通の夫婦ならば、幸せの象徴として特に問題なくこなすだろう4つのイベント。しかし、それを自分たちも実現させたいと伝えると、吾郎との関係はますますおかしくなった。

これまでは口論の後にギスギスした緊張感が続いていたが、今ではそれを通り越し、不自然な仮面夫婦状態に陥っている。

何かに縛られることを何より嫌い、自由を愛する吾郎。子どもを持つなんて、やはり叶わぬ夢なのだろうか。

「英里さん、お疲れなんですか?」

つい大きな溜息をついてしまうと、後輩の新一が背後でニコニコ微笑んでいた。

「何か面倒なことでもありました?また飲みましょうね!俺、こう見えてけっこう聞き上手なんです!」

「...じゃあ、これから飲みに行かない?」

家に帰るのは、相変わらず憂鬱だった。

英里は若々しく可愛い後輩の笑顔につられ、思わず彼を誘っていた。


一方、困った吾郎の相談相手は、やっぱり“あの男”。


納得できる、理由が欲しい


「よう、吾郎。嫁さんと仲直りできたか?」

オフィスで吾郎の姿を見つけるなり、同僚の松田は薄ら笑いを浮かべて近づいてきた。

「その顔は......さては、しくじって悪化したな?お前も不器用な奴だなぁ。俺の言った通り、千疋屋のケーキは献上したのかよ?」

松田は一人興奮し、鼻をヒクヒクと膨らませている。

ケーキの件に関しては、結局渡すタイミングを逃してしまい、吾郎はこっそり一人で破棄していた。

他人の不幸は蜜の味とは、よく言ったものだ。松田は、吾郎が夫婦仲修復に苦戦するのが楽しくて仕方がないらしい。

しかし、基本的に“他人に悩みを相談する”という発想のない吾郎にとって、人の心中に勝手にズカズカと上がり込み、頼んでもいないのに忠告や解決策を提示しまくる松田は、ある意味貴重な男でもある。

「...今日、飲みに行かないか?」

「おっ。吾郎先生も、やっぱり俺の助けが必要か〜。じゃあ、アドバイザリーフィーは肉でいいよ。あ〜、腹減った」

吾郎は小躍りしながら去って行く松田の背中を鋭く睨みつけながらも、『ウルフギャング・ステーキハウス 丸の内店』の席を確保した。




「お前...こんな簡単なことメモって保存するくらいなら、ケーキくらい渡せよ...。勿体ないなぁ、捨てたなんて。実は天然なのか?」

松田はリブアイステーキにかぶりつきながら、吾郎が手渡したiPad Proを見て顔を引き攣らせた。そこにはメモとして、英里の言ったことを書き残しておいたのだ。

●英里の要望
1.結婚式
2.ハネムーン
3.新居
4.子作り

「で?指示が明確なら、あとは潰していけばいいだけだろ。順番もコレで問題ないぞ。まぁ、2のハネムーンで4もついでにクリアしたら大したモンだけどな。そしたら俺も先を越されるぜ」

松田は吾郎を小馬鹿にするように、「ヒヒヒ」とねずみ男のように笑う。

「ちがう...そんなことを聞いてるんじゃない。俺はただ、この難題をこなすに値する理由が分からないんだ」

「...は?」

「結婚式だの何だの、普通に考えれば、男にとっては負担でしかない。結婚したからって、時間も労力も金もかかる難題に取り組む義務はないだろう」

「義務...ね。お前さ、嫁さんのこと好きじゃねーの?」

「......」

もちろん、英里が嫌いなわけではない。むしろ真逆である。

「男ってさ、“この女は”って本気で惚れたら、面倒でもダルくても何でもできる生き物なんじゃねーの。それも一つの幸せだと俺は思うよ。理屈じゃないだろ」

松田はめずらしく憤った様子で言い捨てる。

しかし吾郎にとっては、この“理屈じゃない”という感情論が、どうしても理解不能であった。

▶NEXT:12月30日 土曜日更新予定
偏屈なりに、妻の要望と向き合う吾郎。しかし、英里の心は離れていく...?!