安倍政権が進める日米豪印4カ国提携の枠組みは、自由・民主主義・人権・法の支配といった「西欧近代の価値」を信条とする、日本という国のあり方を反映した外交政策の一つである(写真=AFP/時事通信フォト)

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中国と西欧、「文明」として日本に近いのはどちらか。国際政治学者の櫻田淳氏は「日本に近いのは中国より西欧である」という。いま中国を筆頭に、西欧で生まれた「自由、民主主義、人権、法の支配」という近代的価値観を否定する政治勢力が力を得つつある。そうした「中国化する世界」で、日本が進むべき道とはなにか――。(第3回)

■封建制を経て「近代」を組み入れた日本

前回の「破」編の論考中、筆者は、明治期に英国、そして第二次世界大戦後に米国と同盟を結んだ日本の選択は、その「文明」上の特質に照らし合わせて無理のないものである故に、成功を収めたと指摘した。

日本と米国をふくむ西欧世界との「文明」上の共通項とは、統治に絡む権力の「分散と抑制」に彩られた中世封建制の歳月を経て、自由、民主主義、人権、法の支配といった「近代の価値」の擁護を自らの信条体系に組み入れたことにある。それは、そうした中世封建制の歳月を明瞭に経なかった故に古代以来の「専制と服従」の様相を残す中国やロシアに比べれば、明らかな対照を成している。そして、それこそが、日本人の大勢が抱く「中国中心の地域秩序は受け容れられない」という感情の本質を成すものである。

ただし、それにもかかわらず、地勢上、日本が「中国の隆盛」に最も近いところで相対しなければならない事情は、何ら変わらない。今後、日本が採る対外姿勢の文脈では、本稿「序」編でも述べたように、「中国との距離」を見極める感性が一層、大事になるであろう。

■「アジアは一つ」という壮大な虚構

「中国との距離」を見極める際の一つの前提は、日本と中国が互いに異なる「文明」圏域にあるという認識を徹底させることである。

実は、こうした認識を徹底させた上で中国に相対するのは、決して容易ではないのであろう。長らく他の文明世界との交流が限られた日本の人々の感覚からすれば、中国、あるいは朝鮮半島の人々は、「異邦人」であっても自らとの「異質性」を実感させない人々であることは疑いを入れない。近代以降、日本の人々が「異人」や「外人」として意識してきたのは大概、欧米系の人々である。人種上の相貌、漢字に象徴される言語、端午の節句や七夕の風習を例とする文化体系の多く、さらには「同文同種」や「一衣帯水」といった言葉にはめ込まれた理念もが、そうした「中国は日本に近似している」という感覚を補強する。

しかし、そうした感覚それ自体が、日中両国の行き違いの元になっている。明治後期、岡倉天心が発したような「アジアは一つ」といった類いの言葉は、壮大な虚構なのである。

これに関連して、日本と朝鮮半島二国、特に韓国との摩擦の背景にあるのも、日韓両国の人々が互いに異なる「文明」圏域に身を置いていると認識せずに、互いに自らの基準によって互いを判断する傾向に走っている事実であろう。このことを理解する上で有益なのは、ロー・ダニエル(政治経済学者)の近著『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店刊)である。ローも書中、中世封建制の有無という観点から日本と朝鮮半島における文明上の相違を指摘しているのである。

「日本と中国・朝鮮半島は互いに相似た空間である」という予断に縛られ、その予断が裏切られることの反動として、互いに対する不信と反発、嫌悪の感情を募らせる。これが現下の東アジア情勢の深層を流れる「心理」であるならば、その弊害は甚だ大きかろう。

■アイデンティティとしての「価値観外交」

「中国との距離」を適切に測りつつ、中国と向き合うためにも、対米同盟という対外政策上の「軸足」を徹底して固める姿勢が、日本にとっては大事になる。これは、本稿「破」編でも指摘したように、米国という一つの国家との提携を意味するのではなく、自由、民主主義、人権、法の支配といった「西欧」文明世界の流儀に対する共鳴を示している。そして、これは、日本の人々が中世封建制に淵源(えんげん)を持つ自らの足跡に照らし合わせてふさわしくない振る舞いに走らないという姿勢を表しているのである。

故に、安倍晋三第二次内閣発足以降、「積極的平和主義」や「地球儀を俯瞰する外交」の概念の下で披露されてきた対外政策展開は、それ自体としては決してユニークなものではない。この流れに沿って、直近では、「インド・太平洋」戦略と称される日米豪印4カ国提携の枠組みが始動しようとしている。

豪州が米国と同様に「西欧」文明世界の後嗣であるとは、誰でも指摘することである。インドは古来、「西欧」文明世界とは異なる独自の文明世界を成してきたとはいえ、それでも長年の植民地統治を経て「西欧」文明世界の影響を受けた事情は否定しようがない。インドが「世界最大の民主主義国家」として語られることの意義は、インド社会におけるもろもろの負の様相を脇に置いても、決して軽視されるべきではないであろう。

こうした対外政策構想の展開は、日本の人々にとっては、ただ単に「対中バランシング」の政策対応なのでなく、「自分が自分である理由」を確認する縁として、位置付けられるべきものなのではなかろうか。

日本では、従来、こうした対米同盟の「軸足」を固める政策志向は、岸信介内閣下の日米安保改訂から安倍晋三内閣下の安保法制策定に至るまで、それが帯びる軍事上の色彩が濃厚である程、特に昔日に「革新・左派」と呼ばれた層、現在では自ら「リベラル」と称する層の批判を招いていた。

彼らは、東アジアの国際環境の中では、対米同盟の「実質化」を妨げる政策対応が、現在では中国の利益に寄与するものとして働くことを適切に認識していない。しかも、彼らは、歴代自民党内閣の政権運営の「強権性」を批判してきた割には、現在では特に中国の政治風土における「強権性」への批判を鈍らせるのみならず、それに宥和的な姿勢を示している。

加えて、日本の「右派・ナショナリスト」層は、第二次世界大戦における対米敗北の記憶と戦後日米関係における対米従属の意識とに呪縛された結果、対米同盟の「実質化」を図る政策対応には、総じて冷淡なまなざしを投げ掛けてきた。TPP(環太平洋経済連携協定)を「亡国」と評価するが如き議論は、その一例である。

このように、国内世論の分裂のはざまで、「西欧」文明諸国との提携という政策路線の持つ「文明上の意義」が適切に理解されてこなかったのは、日本の国際政治上の「弱さ」を招く一因であったといえるであろう。

■「リベラルな国際秩序」の孤塁を守る日本

もっとも、目下、ドナルド・J・トランプ(米国大統領)の登場に象徴されるように、「西欧」文明圏域の内側では、自由、民主主義、人権、法の支配に並ぶ「寛容」の信条に動揺が走っている。移民流入とテロリズムの頻発に揺れた「西欧」文明諸国、特に英仏独、オーストリア、オランダ各国における「反動」政治勢力の台頭は、「ポピュリズム」の様相を帯びながら、その傾向に拍車を掛けている。

G・ジョン・アイケンベリー(国際政治学者)は、『フォーリン・アフェアーズ』(2017年5月号)に寄せた論稿の中で、「リベラルな国際秩序を存続させようとするならば、それを支持する世界中の指導者達と有権者達が段階を上げる必要がある」と書き、安倍晋三(内閣総理大臣)とアンゲラ・メルケル(ドイツ首相)に「リベラルな国際秩序」の守護者としての役割を期待したけれども、安倍はともかく、メルケルは去る九月のドイツ連邦議会選挙を経て政治苦境の最中にある。今や、昔日には「政治は三流」と揶揄された日本を仕切る安倍だけが、「リベラルな国際秩序」の孤塁を守っている状態なのである。

振り返れば、第一次世界大戦とロシア共産主義革命を経て世界大恐慌の最中にあった1930年代にも、「西欧」文明世界は、自由と民主主義に係る自らの信条を動揺させていた。現在では『二千五百年史』や『新日本史』といった史書の著者として名を残す竹越與三郎(ジャーナリスト・歴史家)は、その1930年代の空気の中で次のように記した。

「欧州大戦の後を受けて世界は今や動蕩、混乱の最中である。然(しか)しながら近世文明を樹立したる文明人は、必らず、その国家社会を再建するであろうということは、余の信じて疑わざる所である。そして、再建せられたる文明の大建築は、依然として所謂(いわゆる)資本主義の文明であらうことも、また同じく疑わざる所である。それは歴史の示すゴールであるからである。……決して狼狽(ろうばい)してはならぬ。決して失神してはならぬ。自信を以て毅然として邁進せねばならぬ」(竹越與三郎『旋風裡の日本』)。

■中国の台頭にも西欧の動揺にもたじろがず

竹越は、共産主義思潮が浸透しファシズム気運が隆盛する時代情勢の中で、「自由」に裏付けられ、「デモクラシー」に結び付いた資本主義社会を敢然と擁護した。竹越は、自ら著した日本通史『二千五百年史』書中、江戸後期の情勢を評してこう記した。

「この時にあたりて封建制度はその功益を充分に示したり。……群雄の割拠は王朝の衰弱を来たすといえども、封建の勢いここに成り、人民、土地を私有としてこれを保護するの風を生じ、かくのごときも二百年になんなんとして、国家安康、人民自立の基ここに立ちぬ」

こうした竹越の歴史認識こそは、「人民の自立」を抑圧した共産主義やファシズムに対する彼の嫌悪を裏付けるものであった。竹越は、明治以降の日本の資本主義発展が江戸期以前の封建制を揺籃(ようらん)にしたものに他ならず、彼が接した共産主義思潮やファシズム気運が、日本史の道程と人間の摂理に照らし合わせて相容れないものであると評価したのである。

21世紀に入って20年がたとうとする現下の情勢を前にしても、この竹越の姿勢に倣うことの意義は大きいのではなかろうか。「決して狼狽してはならぬ。決して失神してはならぬ。自信を以て毅然として邁進せねばならぬ」とは、中国の隆盛と盟邦たる「西欧」文明諸国の動揺に直面する当代日本の人々に対し、泉下の竹越が発した叱咤の言葉として、今や響き渡るのではなかろうか。

(文中、敬称略)

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櫻田 淳(さくらだ・じゅん)
国際政治学者。東洋学園大学教授。1965年生まれ。北海道大学法学部卒、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。衆議院議員政策担当秘書などを経て現職。専門は国際政治学、安全保障。著書に『「常識」としての保守主義』(新潮新書)『漢書に学ぶ「正しい戦争」』(朝日新書)『「弱者救済」の幻影―福祉に構造改革を』(春秋社)など多数。

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(国際政治学者、東洋学園大学教授 櫻田 淳 写真=AFP/時事通信フォト)