東京には、いろいろな妻達がいる。

良き妻であり、賢い母でもある良妻賢母。

夫に愛される術を心得た、愛され妻。

そして、あまり公には語られることのない、悪妻ー。

これは、期せずして「悪妻」を娶ってしまった男の物語である。

女性の美に並々ならぬ執着を持つ藤田は、若く美しい妻・絵里子と結婚する。

だが、奔放すぎる妻との暮らしに限界を感じ、自分に好意を持つ同僚女性の平凡な魅力に惹かれてゆく。




悪妻を手放す


自分には、非凡な女を愛する才能がないー。

藤田が、絵里子という女を妻に迎えてから薄々気づいていながらも、見ないようにしてきた予感のようなものが、ここ数日ではっきりと現実になった。

潤沢な資金力だけではなく、ありのままの彼女を全て受け入れる包容力や、ある種心理的な屈辱を楽しめるような一風変わった性質を持った男でないと、絵里子相手にはまともな神経を保っていられないだろう。

独身の頃少なからず出会ってきた美貌の女たちは、皆それぞれに個性があったが、絵里子のそれとはまるで違った。

だからこそ、結婚したい、この女を生涯に渡って独占したいとまで思わされたのだ。

藤田は、大手弁護士事務所に務める姉に、妻の絵里子とのことを相談した。

絵里子のことを愛してはいるが、愛すれば愛するほど、奔放すぎる行動と男の影が心配になってしまうこと。
それが原因で諍いが絶えず、やり直そうと努力するが上手くいかないこと。

それから、先日家に泊まってしまった小野のことなども洗いざらい全て話した。

そこで、藤田は姉から意外な意見を聞くことになるのだった。


姉の意外な意見とは?


離婚には反対?



「じゃ、絵里子さんとは離婚したいってこと?」

『資生堂パーラー 銀座本店 サロン・ド・カフェ』に、相変わらず男のように低い声をした姉の、驚いた声が響く。




ここは、昔から家族でよく訪れてきた店の一つだ。穏やかではない話でも、馴染みのこの店でなら落ち着いて進めることが出来る。

「いや、決まったわけじゃないんだ。ただ今の状況から、どうすべきかを客観的に見て欲しくて。」

日々忙しく働き、独身を貫く姉に結婚生活のことを聞いても仕方がないかもしれない。

だが、最初は呆れた様子で聞いていた姉も、藤田が本心からの苦しみを吐露するうちに親身になって夫婦の今後について考えてくれるようになった。

曰く、絵里子の男の影というのはまだ疑念の段階であるから、仮に離婚をするならこちらに有利な証拠を集め、絵里子がいかに妻として至らなかったかなどを記録に残しておかなければいけないこと。

それから、離婚が成立するまで不用意に他の女性と2人きりで接触しない方が良いとアドバイスされた。

「でも、私はちょっと彼女がかわいそうだと思うけど。」

姉の意外な一言に、藤田は一瞬耳を疑う。

母も絵里子のことを良く思っていないし、何よりも自立心に溢れ独身を貫く姉が、正反対の生き方をしている絵里子に肩入れするとは…。

「私から客観的に見たら、絵里子ちゃん、直樹に甘えてるだけのように見えるわよ。そりゃ、すごい甘え方だけど。それだけ安心しきってるんじゃない。」

姉の思わぬ見解に、藤田は一瞬うろたえた。

「私も職業柄、色々な人に会うでしょう。あの子、根っからの悪い人間ではないと思うの。ただ、もの凄く子供なだけで。直樹が一から育ててあげればいいじゃない。」

ーだが、俺には絵里子を甘えさせのびのびとさせてやる、その器がない…。

姉の視点はありがたかったが、絵里子との記憶を思い返すと、やはりこの結論に行き着いてしまうのだ。

店の外へ出て姉と別れると、街は一気にクリスマスらしい華やぎを見せていた。

イルミネーションが銀座の街を照らし、歩道にもショーウィンドウにもいくつものツリーが立つ。

賑やかな街を歩く人々は多国籍で、この街を出会った頃の絵里子と無邪気に歩けたらどんなに楽しいだろうと想像した。

その時だった。

ー藤田さん。クリスマスは、どこのお店に行く?私、行ってみたいところ沢山あるよ。

冷戦状態だった絵里子から、LINEが届いた。

あんなに意地っ張りで、自分が悪いと一切認めようとしない絵里子からの文章とは思えない。

甘えるような文面に、不覚にもじんわりと涙が出そうになった。ホッとしたような、緊張の糸が切れたような、そんな気持ちだ。

だが、反射的にクリスマスの店を探そうと思案していると、今度は小野からのLINEが届く。

ーこんばんは。その後、いろいろと落ち着きましたか?ところで今度のクリスマス、我が家で少人数のホームパーティーをするので、もしよければ藤田さんも来ませんか?

2つのLINEを既読にしたものの、藤田は返信を打つことなくしばらく立ち尽くしてしまった。


藤田は、どちらの誘いを受けるのか?


絵里子への質問


クリスマス当日。

藤田は、数年前にオーダーメイドで仕立てたジャケットを羽織り、久々にじっくりと鏡を見た。

そこには、絵里子との諍いで精神的に疲れ切った中年男の顔はない。

これで良かったんだ、と自分に言い聞かせる。

上からコートを羽織り、あらかじめ買っておいたシャンパンを持って出かけた。

結局藤田は絵里子の誘いを断り、小野の自宅で開催されているというホームパーティーに向かっている。






姉に相談した日、自分から歩み寄る姿勢を見せた絵里子は、藤田が帰宅するなりクリスマスの店を決めよう、と話しかけてきた。

仲直りをしようとしてこちらに向かってくる絵里子のことが愛しくなくもなかったが、やはり、梅原の件がどうしても頭から離れない。

藤田は、絵里子の気持ちを確かめずに同じことの繰り返しをする気は無かった。

「僕が嫌だと言ったら彼の元で働くのを辞めてくれるかい?」

藤田は絵里子をソファに座らせ、本心からの訴えをした。

「絵里子、僕は、君ををうんと甘やかすのは構わない。だけど他の男に媚びている君の姿を、想像するだけで心苦しくなるんだ。」

器の狭い男だと思われようが、これが藤田の本音だった。

だが、絵里子は無言だった。無言でこちらを見つめていた。

こちらを、射抜くように見つめる瞳。

多くを語らずとも、男たちが先回りして全てを与えてやりたい、と思ってしまうような、そんな視線。

何故、この女はこんなにも美しいのだろう。

絵里子の機嫌を損なわないような耳障りの良いことだけを喋り、奔放な性格に目を瞑る決心ができれば、今この場で絵里子を抱き寄せて、全てをうやむやに出来る。

だが、藤田は、そうはしなかった。そうできなかった、と言った方が正しいかもしれない。

ーこの女に愛を与えても、与えれば与えるほど、自分が惨めになるだけなのだ。

藤田の本心からの問いかけに、絵里子は何も言わずに、ただ黙ったままだったがまた、少し実家に帰る、と言って出て行ってしまった。

女性の造形美だけを追い求め、耽美主義を気取っていた自分の平凡さに嫌気がさす。

絵里子のような女を娶るのは分不相応であり、自分は自分が思っていたよりもずっとずっと平凡な男だったのだ。

嫌気がさすほど、平凡なのだ。

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次週、謎に満ちた絵里子の思いが明かされる