物心ついたころから、「裕福な家ではない」と気が付いていたというユウキさん(筆者撮影)

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。

「お父さん、もう長くないと思うんだ」


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間もなく夏休みが始まろうというころ。当時、ユウキさん(18歳、仮名)は高校2年生だった。遅刻しそうになったある朝、父親が車で学校まで送ってくれるという。ホッとしたのもつかの間、車内で聞かされたのは、衝撃的な告白だった。

「お兄ちゃんにだけは言っておくけど、お父さん、もう長くないと思うんだ」

確かにここ数カ月、夜遅く帰宅した父親が毎日のように、トイレで嘔吐していたのを知っていた。顔色も悪く、調子が悪そうだなと心配はしていたのだ。

「働かなきゃいけないから病院には行かない。もし、病気だとわかって入院することになったら、稼ぎ手がいなくなる」

そう言い張る父親を説得。数日後、ユウキさんが学校を休み、病院に付き添った。果たして父親は末期のすい臓がんだった。

「初めは医者が話している言葉の意味が頭に入ってきませんでした」。それくらいショックだったという。

ユウキさんは、父親が日本人、母親がタイ人。いわゆる日タイダブルだ。両親からは、母親が観光で日本を訪れていたときに父親と出会い、結婚したと聞いた。幼いころ、家族でタイに里帰りしたこともあるという。

父親は工場労働者のようだったが、正確な雇用形態や給与はわからないと、ユウキさんは話す。ただ、物心ついたころから、「裕福な家ではない」と気が付いていた。中学、高校と続けたサッカー部で必要だったスパイクは、つま先がぱっくり割れてもガムテープで補強して使い続けたし、クーラーは真夏でも基本、使わない、風邪による熱くらいでは病院には行かない――。そうしたことが当たり前の子ども時代だった。

屈託のないユウキさんの性格もあるのだろう。貧しいことを恥ずかしいと思ったことはないという。ダブルという理由であからさまなイジメに遭ったこともない。クラスの学級委員長や部活のキャプテンを務めるなど学校生活や友人関係は人並み以上に充実していた。

一方で中学に上がる前の一時期、父親が終日家にいたことを覚えている。「今思うと、仕事をクビになったのではないか」とユウキさん。すぐに別の仕事が見つかったが、その後も何度か転職をしたようで、次第に早朝に家を出て、深夜に帰宅することが増えていった。父親が体調を崩したのは、こうした無理な働き方が常態化した中での出来事だった。

両親は何年も前に離婚、母親はオーバーステイ状態

がんと診断された父親は入院。家計は逼迫したものの、市役所に相談したところ、すぐに生活保護を受けられることになった。ところが、その手続きの中で、両親がもう何年も前に離婚していることが判明。さらに母親はオーバーステイ状態で、生活保護の受給対象にならないことがわかったのだ。

「びっくりしました。母親は、僕や弟が嫌いなタイ料理を父親が好きだからという理由でよく作っていて、普通に仲のよい両親でした。昔、何かの理由で喧嘩をしたときに勢いで籍を抜き、そのままにしてしまったみたいなんです。2人とも頑固なところがあるから……」。ユウキさんの説明によると、在留期間の更新手続きなどは、日本語をうまく書けない母親の代わりに父親が行っていたが、離婚後はそれも放置してしまった。日本人の配偶者としての暮らしに実質的な変わりはなかったが、法的にオーバーステイ状態になってしまったようだという。

父親の入院後は、日本語が不慣れな母親に代わり、ユウキさんがあらゆる手続きをこなした。生活保護の申請、病院との交渉、自らの学費や翌年に高校入学を控えていた弟の入学金の減免に必要な書類の準備――。市役所の福祉担当者の間では、部活終わりの夕方、頻繁に制服姿で訪れる高校生はちょっとした有名人だった。また、両親はタイでの離婚手続きをしておらず、日本ですぐに再入籍することができなかったため、入国管理局での特別在留許可申請に伴う複雑な手続きもユウキさんが行ったという。

ユウキさんが奔走する間も、父親の病状は悪化の一途をたどった。あまり弱音を吐かない父親に代わり、時折、看護師が「お父さんが『見舞いに来てくれてうれしかった』と言っていたよ」「夜、独りで泣いていたようだった」などと様子を教えてくれたが、次第に病室を訪れても、眠っていることが増えていったという。

半年余りの、短くも過酷な闘病の末に父親が亡くなったのは昨春。さらに想定外の問題が降りかかったのは、それから数カ月後のことだった。父親あての郵便物などの整理をしたところ、社会福祉協議会からの生活福祉資金の貸し付けや、消費者金融からの借り入れなど、合わせて300万円近い借金があることがわかったのだ。

すぐに無料法律相談に出向いたが、弁護士からは「相続放棄をするための期限である3カ月を過ぎているので、借金の放棄は難しい。お母さんと兄弟でいったん借金を相続して、お母さんの在留許可が取れ次第、自己破産するしかない」と告げられた。ユウキさんは「僕が借金のことを知ってから3カ月以内ということを証明できればいいのですが、証拠がありません。弁護士さんからもそう説明されました」と事態を冷静に受け止める。

離婚に、オーバーステイに、借金――。自己責任論がはびこる世間からは、両親を糾弾する声が聞こえてきそうだ。

父親は家族のために独りで頑張ってくれていた

しかし、ユウキさんは「借金のことを知ったとき、申し訳ないことをしたと思いました」という。そして涙をこらえるようにして、こう続けた。

「父親は家族のために独りで頑張ってくれていたんだと思うと……。ゲームソフトなんか、ねだったりしなければよかった。母親ももともと体が弱い人なのですが、食事のときなどは自分は食べずに僕たち兄弟にわけてくれる。そんな人です。両親には、ここまでしてもらってありがたいという気持ちしかありません」

私見になるが、病気が発覚する前、早朝から深夜まで働いていたという父親はサービス残業か、違法な長時間労働、もしくはダブルワークを強いられていたのではないか。離婚やオーバーステイより、働いて家族を養う意思のある人が異常な長時間労働をしてもなお、借金をしなければやっていけない社会のほうがどうかしているのである。

ユウキさんは今春に高校を卒業、自動車整備士の資格を取るため職業能力開発校に入学した。すぐに働くという選択肢もあったが、資格があったほうが将来の就職に有利で、給与水準も上がると考えた。専門学校などに比べて学費の安い公立施設を選んだという。

高校卒業後は生活保護の対象から外れるほか、学校が自宅から遠く離れていたため、思い切って一人暮らしをすることにした。新生活を始めるにあたって用意できたのは、テレビと炊飯器くらい。

「なんとかなる」という思いで踏み切った1人暮らしだったが、ユウキさんが進んだコースは実習が多く、アルバイトできる時間は限られた。また、アルバイトをしても、時給はどこも最低賃金水準で、収入は月4万〜5万円にしかならない。家賃を払うと、残るのは1万円あまり。

食べるものにも事欠く状態まで追い詰められていたところを、以前、住んでいた自治体の福祉担当者が聞きつけ、現在の自治体の福祉窓口につないだ。もともとこの自治体は、地元に多くある自動車関連の企業への就職が見込める学生などは生活保護の対象としていたため、ユウキさんにも生活保護が支給されることになったという。

困難を持ち前の聡明さと礼儀正しさで乗り越えてきた

ユウキさんと会ったのは、生活保護を受け始め、暮らしが落ち着き始めたころだった。とはいえ、弁当は白米にふりかけを混ぜたおにぎりで、自宅では安いもやしと鶏の胸肉が主食。もともと食が細いとはいえ、1日1食で済ませることも珍しくないというぎりぎりの生活に変わりはなかった。

ユウキさんは「福祉(制度)にはめいっぱいお世話になっています。(自治体の)福祉の担当者も弁護士もみんな親身になってくれて本当に感謝しています」と語る。彼は次々と降りかかる困難を持ち前の聡明さと、礼儀正しく人好きのする人柄で乗り越えてきた。多分、これから先もそうなのかもしれない。

しかし、ユウキさんが貧困の連鎖にからめとられた若者の1人であることは間違いない。彼は大学進学をあきらめたというより、大学に行くなどという選択肢は最初からなかった。周囲の大人がいくら親切でも将来、彼を待っているのは、自己破産という過酷な現実であることに変わりないのだ。

「夢のある人がうらやましいです。僕には特に夢はないので。僕が自動車関連の学校を選んだのは、父親が車好きだったからです。将来、自動車整備士になるか、販売店で働くことができれば、お墓の前で報告できるでしょう」

ユウキさんはどこまでも健気だった。しかしその健気さは、貧困の連鎖ひとつ断ち切ることのできない社会の貧しさを浮き彫りにしているようにも見えた。

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