ヤクルトのピッチャーとして11年、コーチとして14年ヤクルト一筋だった伊藤智仁氏。写真:(C)タイコウクニヨシ

1992年のドラフト1位でヤクルトスワローズに入団した伊藤智仁氏は、選手、コーチを通じて25年在籍し、2017年限りで退団した。来シーズンからはプロ野球の独立リーグであるBCリーグ(ベースボール・チャレンジ・リーグ)の富山GRNサンダーバーズ監督に就任する。「デビュー戦」から「最後の1日」までを見届け『幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』を著した長谷川晶一氏が伊藤智仁の姿を振り返る。

野村克也、古田敦也が認める男

37勝27敗25セーブ――。これが、彼のプロ生活11年間、実働7年間のすべてである。決して特筆すべき大記録や好成績を残したわけではない。彼よりも、もっと成績のいい投手は他にもたくさんいる。それでも、2003年オフに現役を引退して、すでに14年が経過しているにもかかわらず、いまもなお彼に対する称賛の声は後を絶たない。

たとえば、すでに傘寿を過ぎた名将・野村克也は言う。

「彼は本当にピッチャーらしいピッチャーやったな。手足が長くてしなやかで。まるでピッチャーをやるために生まれてきたような身体だった。それに男気もあったし、“打てるものなら、打ってみろ!”という強気のピッチング。“地球は自分を中心に回っている”という一流ピッチャー独特のうぬぼれもあった。長い間野球と関わってきたけど、あんなピッチャーはなかなか出てくるものじゃないよ」

あるいは、希代の名捕手・古田敦也は言う。

「全盛時の彼なら、間違いなく、そのままメジャーでも通用しましたよ。賭けてもいい。アメリカ人たちがみんな、“アンビリーバボー”って驚いていましたよ(笑)。楽勝ですよ、当時の彼だったら。侍ジャパンでもエース格の扱いだったはずですよ」

野村、そして古田が絶賛する男、それが伊藤智仁だった――。

可動域の広い右肩ゆえに投じることのできた「高速スライダー」を引っ提げて、伊藤がヤクルト入りしたのが1993年のことだった。体調不良のため、開幕一軍にこそならなかったものの、4月20日にプロ初登板初勝利を挙げると、7月までに7勝(2敗)をマークし、防御率は驚異の0・91という数字をたたき出した。「直角に曲がる」と称された高速スライダーはセ・リーグの打者を面白いように翻弄していた。


伊藤 智仁(いとう ともひと)/1970年10月30日生まれ。京都府出身。1992年のバルセロナオリンピック日本代表に選出され、1大会27奪三振のギネス記録を作るなど、日本の銅メダル獲得に貢献。1993年は実働2ヵ月半で新人王を獲得。2003年を最後に現役引退。2004年から2017年までヤクルトの投手コーチを務めた(写真:(C)タイコウクニヨシ)

しかし、彼のピークはこのわずか2カ月半のことだった。6月の1カ月間だけで694球も投じた酷使の影響で右ひじを負傷すると、右肩の故障も重なり、それ以降は思うようなピッチングを披露することができなくなった。

ようやく1996年に一軍復帰、翌1997年にはリリーフ投手としてカムバック賞(ケガなど乗り越えて再び実績を残した選手に与えられる賞)も獲得する。

それでも、再び右肩を故障。手術、リハビリという負のスパイラルに陥り、彼は2002年オフに戦力外通告を受ける。古田をはじめとするチームメートの後押しもあり、何とか1年間の再契約を結んだものの、伊藤の右肩は完治することなく、翌2003年にひっそりと現役を引退した……。

ファンは彼を「悲運のエース」と呼んだ。類まれなる才能を誇りながらも、度重なる故障に苦しみ、本来の才能を発揮することなく、ユニホームを脱いだからだった。女房役を務めた古田は言う。

「よく、『記録よりも記憶に残る』と言いますけど、まさに、彼はそんなピッチャーでしたね。僕はオールスターや日米野球でたいていのいいピッチャーのボールを受けました。その中で、スライダーに関して言えば伊藤智(トモ)のスライダーが1番でした。スライダーというのは、プロの投手ならばほぼ全員が投げる球種です。その中で1番ですから。何しろ、100イニング以上も投げて、防御率0点台というのは、相当レベルの高い話なんでね」

まさに、「記録より記憶に残る男」、それが伊藤智仁だった。

始まった伊藤智仁へのロングインタビュー

筆者は、長い間、「伊藤智仁を書きたい」という思いを抱いていた。そして、ようやく彼にロングインタビューをして、彼を描く機会を得た。飄々(ひょうひょう)とした口調から語られる現役時代の数々のエピソード。そして、故障に苦しみ、リハビリと闘い続けていた当時の話はとても興味深かった。話を聞いているうちに、すぐに気がついた。「伊藤智仁の魅力は決して高速スライダーだけではない」、と。あるとき、彼はこんな言葉を口にしたことがある。

「僕に関する取材は、ほぼ『1993年』についてか、『ケガとリハビリ』についてか、そのどちらかだけですからね(笑)。世間の人が興味を持っているのが、この2点ということなのでしょう。それはそれで、全然構いませんけどね」

彼には、世間の評価や興味を客観視できる冷静な視点があった。あるとき、11年間の現役生活について尋ねると、彼はそっけなく言った。

現役時代はたいした成績でもない

「11年間の通算成績? 別にたいした成績でも何でもないですよね。たいして試合数も投げていないし、勝ちもしていない。(ヤクルトで活躍しているピッチャーの)石川(雅規)や館山(昌平)に比べたら、まったくたいした成績ではないです(笑)。正直言えば、“ケガがなければもっと投げられたな”とか、“もっと投げたかった”という思いはあります。でも、これが限界でしたね。だから、トータルで見ればまったくたいした成績ではないし、たいした選手でもなかった。それが僕の現役生活です」

さらに、僕はこんな質問を投げかける。

――どうして、世間は「伊藤智仁」という投手について、ある種独特な感情を抱きながら、「悲運のエース」と、今でも語り続けるのだと思いますか?

世間の評価の理由を本人に聞く。愚問かもしれない。それでも、本人は世間の評価、自身に対するパブリックイメージをどう思っているのか知りたかった。しばらく考えた後に、伊藤は口を開いた。

「おそらくね、デビューが鮮烈だったから、世間の人たちは“ケガさえなければもっとできたはず。本当に惜しかった”と思っているんだと思います。でも、僕自身はまったく正反対の考えなんですけれどね……」

伊藤の口元からは白い歯がこぼれる。

「……もしも、故障をしなくてそのまま投げ続けていたとしたら、たぶん打ち込まれて成績はもっと悪くなっていたはずです。でも、結果的にそこまで投げることはできなかった。だから、世間の人は『いい想像』をしてくれているんだと思います。打たれるイメージは持たずに、抑えるイメージだけを持ち続けてくれるんです。そのまま投げ続けていたら、確かに勝ち星は増えるだろうけど、負け数も当然もっと増えるし、防御率はさらに悪くなるはずなのにね……」


12月5日に都内で行われたイベントで、ファンからの質問に答える伊藤智仁氏。左が筆者(編集部撮影)

相次ぐ故障……。出口の見えないリハビリ生活……。どんなに辛い場面を尋ねてみても、伊藤は常に軽やかな口調で当時の思い出を語っていた。当初は「時間の経過が辛い思い出を和らげてくれたのだろう」と理解していた。

しかし、彼にはそもそも他人がイメージするような悲壮感は少なかったのだ。どんなに困難な状況を語っているときでも、彼はしばしば「ラッキー」と口にした。

人とは違う緩い肩関節を持っていたこと。出身の花園高校が強豪校ではなかったので、高校時代に肩を消耗しなかったこと。社会人野球の三菱自動車京都時代の先輩・永田晋一が快くスライダーを伝授してくれたこと。当時の日本代表監督・山中正竹というよき理解者に出会えたこと。バルセロナ五輪で野球競技が正式採用されていたこと……。

あるいは、ヤクルトという球団に入ったこと。野村克也監督の下で野球を学んだこと。古田敦也という希代の名捕手とバッテリーを組めたこと。「酷使」としか表現できないほどの登板機会を与えられたこと。アメリカに渡って、日本とは違うリハビリを体験し、学べたこと。いい仲間に恵まれたこと。度重なる故障の結果、身体に対する意識が高まったこと。世間が勝手に「悲運のエース」というイメージを持っていること……。

決して「悲運のエース」ではなかった

これまでの人生のありとあらゆることが「ラッキーだった」と彼は考えている。世間では相変わらず「悲運のエース」「悲劇の好投手」というイメージが定着しているにもかかわらず。 彼は、決して「悲運のエース」ではない。むしろ「幸運な男」なのだ。


伊藤智仁は改めて言う。

「僕はラッキーですよ。世間の人が、自分のことを『悲運のエース』という目で見ていることは知っていますけど、僕自身は全然悲運だとか、不幸だとか考えたことはないです(笑)。でも、こうやって世間の人々が、今でも自分のことを話題にしてくれることは嬉しいですよ。まさに、ラッキーだと思います(笑)」

2017年シーズンを最後に、25年もの間袖を通していた「Swallows」のユニホームを脱ぎ、2018年からは独立リーグであるBCリーグ・富山GRNサンダーバーズの監督を務めることが決まった。

伝説の投手として語り継がれてきた「幸運な男」の第二章はまだ始まったばかりだ。

(文中敬称略)