今、東京の男女が密かに抱えている悩みがある。

恋人や夫婦間での、肉体関係の喪失だ。

この傾向は、未婚の男女においても例外ではない。

2017年冬、相思相愛だったはずの彼・健太からプロポーズされた美和子は、涙を流す。

ふたりの5年間に、何があったのか?

実は同棲1年が経つ頃から、ふたりは不完全燃焼の夜を境に“プラトニックな恋人”となっていた。美和子は思いをぶつけるが、レス問題は一向に解決しない。

30歳になった美和子は、学生時代の友人に悩みを相談。御曹司・瀬尾を紹介され、2度目のデートで彼から真剣告白され、ついに健太と別れることを決意。

引き止める健太を振り切り家を飛び出して、瀬尾が用意してくれたホテルへと向かうのだった。




正しい愛なんて


ホテルのロビーで、瀬尾さんを待つ。

3年以上一緒に暮らした健太とたった今別れてきたばかりなのに、私は一体、ここで何をしているのだろう?

ガラス越しに眺める都会の夜は、冷静な判断力を奪っていく。

ぼんやりと闇を見つめながら、しかし私は「そもそも」と自分に言い聞かせた。

-男と女の間に、正解なんてあるのだろうか?

私は健太を、心の底から愛してきた。まっすぐに恋い焦がれ、彼以外によそ見をしたことも、嘘をついたことだって一度もない。それなのに…。それなのに、私と健太はレスになった。

正しい愛が、幸せに結びつくとは限らないのだ。

…それなら、たとえ正しくない愛し方だったとしても、幸せを手にすることだってあるのではないだろうか?

そんな滅茶苦茶とも思える理論を組み立て、どうにか自分の立ち位置を正当化したところで、背後から私の名を呼ぶ声がした。

「美和子さん!」

次の瞬間、私は瀬尾さんの胸にきつく抱きしめられ、温かな体温に包まれていた。


駆けつけてくれた瀬尾さんに、美和子は思わず…


弱さも狡さも、許してくれる人


瀬尾さんから漂う、ブラックカルダモンの香り。

…健太とは違う男の人の香り。

理性を主張する脳細胞が、次第に麻痺していく。されるがままに身を任せていると、急に我に返ったのか、瀬尾さんが慌てた様子でふいに私から離れた。

「ごめん、急に…いや、でも嬉しくて。こんなに早く家を出てくれるとは思わなかったから」

身体が離れ、私と瀬尾さんの間にすーっと冷たい風が通り抜ける。しかし彼がとてもわかりやすく嬉しそうな表情を見せるので、私の心までが冷えることはなかった。

瀬尾さんは自分を落ち着かせるかのように声を低くすると「投資用に所有している銀座のマンションが来週には使えるようになるから」と早口で私に告げた。

「ありがとうございます、本当に…何から何まで」

恐縮して頭を下げようとする私を制し、彼は頭を振る。

「美和子さん、僕は頼ってもらえて嬉しいんです。だから、何も遠慮することはないんだ」

その言葉は、素直に有り難かった。

彼がそう言ってくれたことで、私の狡さや弱さが、すべて帳消しになったような気がして。

「じゃあ、行きましょう」

私の横に置かれたロンシャンのバッグを、彼は当たり前のように持ち上げ歩き出す。

そうして部屋へと向かう瀬尾さんの背中を、私は黙って追いかけた。




パタン。

静まり返った部屋に扉が閉まる音が響いて、私は咄嗟に身を固くした。ここに来たのは自らの意思であるのにも関わらず、まるで瀬尾さんに無理やり連れてこられたかのように。

彼の強引さを言い訳にする、自分で自分の都合の良さに呆れるが、瀬尾さんにはそれを許してくれる包容力があって、私はこの時、間違いなくそんな彼に救われていた。

部屋の奥へと足を進める瀬尾さんは、バッグをベッド脇に配されたソファの上に置き、ここでいいかな、と呟きながら私を振り返る。

「あ、はい…どこでも」

近づくことも遠ざかることもできず、ただ突っ立っている私を認めて、彼は私の頭の中を見透かしたように小さく笑った。

「大丈夫、今日は帰るよ」

そう言われて、私は確かに安堵したはずだった。しかし同時に、心の隅っこが落胆した気配にも気づく。

「ありがとうございます、本当に…。瀬尾さんがいてくれて、私…」

その声に、私の本音が滲んでしまったのだろうか。

私がすべてを言い終えない間に、彼は部屋を出ようとしていた足をおもむろに翻した。

「…やっぱり、ここにいてもいいかな。美和子さんには気持ちの整理が必要だってわかってるけど、離れたくない」

ぐっと力強く引き寄せられ、密着した彼の身体から伝わる熱、そして吐息。

…こんな風に、男の人に強く求めれられたのは何年ぶりだろうか。

瞬間的に火照る身体を、私は止めることができなかった。それはまるで、燻っていた火種に酸素が注がれたように。

「私も…私も瀬尾さんに、そばにいて欲しい」


瀬尾さんと過ごす一夜…そして、美和子は何を思う?


女というものは


愛は、心で育むもの。

私だって、ずっとそう思っていた。

けれどもたった今、身体の繋がりが時として心を凌駕することがあるということを、私は知った。




「瀬尾さん…好き!」

私が叫んだのと、ふたりが欲望を弾けさせたのは、ほぼ同時だった。

私は思わず口から出た言葉に自分で自分に驚いたが、しかしそれは決して、嘘でも演技でもなかった。

瀬尾さんは、激しく、情熱的に私を抱き、至るところに唇を這わせた。私の存在を確かめるように、堪能するかのように。

そしてそんな彼の動き一つ一つが、私に快感以上の潤いを与えてくれたのだ。

瀬尾さんが私に与えてくれたもの。…それは、女としての自信だった。

もう我慢できない、と言って、彼が少々荒々しく私の中に入って来た時も、私は自分が女として強く求められていること、そして私の存在が彼を喜ばせているという事実が嬉しかった。

“ある人間が他の人間をもっとも喜ばせるもの、それは官能の喜び、ただ官能だけ”

そう言ったのは、ココ・シャネルだったか。

倒れるように横たわった瀬尾さんの腕に、そっと頬を寄せる。少し汗ばんだ匂いに包まれ、私は何年かぶりの、満ち足りた余韻に浸りながら瞳を閉じた。

…私は、健太に愛されていた。

いや、今でも彼は私を愛してくれているのだろう。そして私も、彼だけを愛していた。今、この瞬間までは。

私と健太の間は、確かにかけがえのない絆があった。

精神的な繋がり、それこそが愛なのだと、ずっと信じていた。

だからこそ、付き合いが長くなり抱き合う回数が減っても、そして完全にレスになってしまった後でさえも、私と健太は相思相愛なのだと、そう自分に言い聞かせてきたのだ。

健太は、レスであることを「大した問題じゃない」と言った。

彼にとってみれば、そんなものとは比べものにならない高尚な愛を私に与えている、そう思っているのだろう。

しかし私は気づいてしまったのだ。

私には…女には、高尚な愛だけでは、決して満たされない空間がある。

隣で寝息をたて始めた、瀬尾さんの無防備な横顔を静かに眺めながら、私は以前、百合先輩が語った言葉を思い出していた。

「ある出来事があって私、気づいたのよ。私はやっぱり女で、女の性には抗えないってことに」

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瀬尾さんとの未来を選んだ美和子。しかし、再び心乱される出来事が。