凪スピリッツの挑戦はまだまだ終わらない

「煮干しが嫌いな方はご遠慮ください」。店先に踊る衝撃的なメッセージ。明確なコンセプトとこだわりで、業界の常識を次々と破り、国内のみならず海外への出店と、破竹の勢いで快進撃を続ける「ラーメン凪」。独自の経営思想でラーメンへの“愛”と“こだわり”をビジネスに昇華させたのが、凪スピリッツ社長の生田智志氏。わずか四畳半から始まったラーメンドリーム。業界の異端児はいかにして生まれたのか。嵐を起こす“規格外戦略”の源流をインタビュー。エンターテインメントコンテンツのポータルサイト「アルファポリス」とのコラボによりお届けします。

嵐を起こす「ラーメン凪」の現場


アルファポリスビジネス(運営:アルファポリス)の提供記事です

――「ラーメン凪」の快進撃が続いています。

生田智志氏(以下、生田氏):新店舗の開店情報からイベントまで、都度、SNSにて最新情報を発信しています。直近ですと、埼玉・川口、東京・西池袋、海外・シンガポールの開店や秋のイベント「大感謝祭」などですね。また、ヴィジュアル系エアバンド『ゴールデンボンバー』の47都道府県別ニューシングル「やんややんやNight 〜踊ろよ東京〜」(11月8日発売)CDへの広告掲載や、社歴12年目の店長「にぼし悠二郎」のボクシングデビュー戦など、ラーメンに直接関係あることからなさそうなことまで(笑)、“面白い” “他にない”を取っ掛かりに、さまざまな取り組みをおこなっています。

“何もないところから風を吹かせる”のが、私たち凪スピリッツという集団です。その代表である私の立ち位置は、そうした挑戦のための場づくり全般に及びます。週に一度の戦略会議以外はほとんど会社におらず、3ヶ月、1年先に繋がる仕事のために、あちこち飛び回っています。ちょうど先週も、シンガポールの新規開店に合わせて現地に飛んでいました。

海外店舗は現在、フィリピン、台湾、香港、上海、そしてシンガポールと25店舗になっています。会社には、いくつかの段階がありますが、今はまさに成長期。その中で一緒に歩んでいく大切な仲間づくり、空気づくりも私の大切な役割になっていますね。

――壁に貼ってあるのはラーメン、ではなく円グラフのようなものが。


生田 智志(いくた さとし)/凪スピリッツ代表取締役社長。1977年7月30日、福岡県北九州市生まれ。某ラーメン店にて店長を経験、関東出店を機に東京5店舗のエリアマネージャーを任される。熊谷正寿の著書「一冊の手帳で夢は必ずかなう」に感銘を受け、将来の地図を作成。ニューヨーク旅行で出会った様々な民族の活気ある姿に、日本人としてのアイデンティティを持った飲食店の開業を決意。04年8月、28歳で独立。新宿ゴールデン街で『火曜日限定ラーメンバー凪』仮営業開始。06年6月、渋谷本店を創業。現在、国内及び海外(香港、上海、シンガポール、インドネシア、台湾、フィリピン)を直営経営。さらにアメリカ進出と常に挑戦を続けている。公式サイト

生田氏:これは「エマジェネティックス」といって、社員それぞれの思考特性(黄=コンセプト型、赤=社交型、緑=構造型、青=分析型)を4つの色と、3つの行動特性(自己表現性、柔軟性、自己主張性)で表したものです。それぞれの適正に合った仕事の進め方、接し方を実現するため、各人の特性を可視化すべく取り入れたシステムです。無理をして仕事をこなしていくよりも、自分の特性にあったことの方が効率よく、ミスマッチのない幸せな働き方に繋がると考えているからです。

こうした「働き方」の施策は他にもたくさんあるのですが、一つひとつは私自身が、大手ラーメンチェーン店で働いていた“修業時代”での経験や、その後、四畳半からスタートしたラーメンづくり、間借り経営からの試行錯誤の積み重ねのすべてが元となっています。

私は九州の出身ですが、もともと大のラーメン好きでこの道を志したというわけではなく、自分にできることを少しずつよい方向に向かわせるために、できることをやって来た結果が、考えてもみなかった今の道に繋がりました。

警察官を志望した少年がラーメン業界に入った理由

生田氏:小さい頃から、自分が置かれた環境の中で、どうしたら「少しよくなるか」を工夫し、それを楽しむというクセがありました。“興味のあること”や“やりたいこと”のためには必要な工夫はとことんやる性格で、それは中学からはじまった部活にも表れていました。自分は運動神経がよい方ではなかったのですが、どうせやるなら「活躍したい」。当時、競技人口もそう多くはなかった「テニス」をやろうと考えたんです(丸坊主にしなくてよいということもありましたが)。ただ、自分には優れた運動能力があったわけでもなかったので、周りの人の練習量を試算し、人が1時間走れば2時間を自分に課す、というそれを補う「活躍するための工夫」をしていました。

――生田さんにとって工夫は、生存戦略でもあった。

生田氏:実は、私が17歳の時に親父が亡くなっているのですが、その時も、置かれた状況下で、自分がどうやって生きていくのか、夢との折り合いをどう付けるのかを考えていました。高校卒業後に私が志したのは、幼いころテレビで見て憧れた「警察官」でしたが、まずは新聞奨学生として働きながら目指すことにしたんです。学費などの経済的な負担はかけられないし、とはいえ勉強しなければ受かりそうにもなかった自分の実力も感じていて、新聞奨学生としてなら、働きながら公務員予備校にも通えるという判断でした。

地元の北九州から、予備校のある福岡へ。新聞奨学生の寮に住み込みで働きました。新聞奨学生という仕事はなかなかハードなもので、その中で勉強の時間を確保するのには苦心しました。いかに効率よく集金するかとか、折り込みチラシの折り方を工夫するだとか(笑)。結局、実家に戻って勉強する方が効率よいと途中で気づき、そこで生活のためにと働き始めたのが、九州を拠点にした大手ラーメンチェーンだったんです。

――偶然の道が、ラーメンだったと。

生田氏:しかもまだこの頃は、警察官を目指している最中でした。ところが、生活費を稼ぐためだけに始めたこの仕事が、やり始めるととても面白くて。最初、私はアルバイトとして夜の時間帯を任されたのですが、接客だけでなく、いかに店舗環境をよくするかという店舗運営に携わることまでやらせていただいたんです。工夫と進歩に喜びを感じる自分にとって、日々それが体現できる「場」をはじめて与えられて、それが仕事になるということが、何よりの喜びでした。

警察官を目指そうと決めた時、期限は3年と決めていました。けれど心の比重は明らかに、ラーメン店の仕事に傾いていました。どんどんのめり込んで、アルバイトながら店長という責任のある職を任されていくうちに、「ここでとことんやっていきたい」と思うようになりました。それで前々からお誘いを受けていた「社員」として、この世界に入ることになったんです。21歳の頃でした。

失敗から学んだ「人心経営」の本質

生田氏:そうして偶然出会った仕事でしたが、ここではたくさんのことを学びました。この頃は、経験がない分、頭の中も真っ白の状態で、社長がビジネス書を読めと言えば、素直に読み込んで、そこでの気づきを付箋にメモして、日々の業務で実践していましたね。もともと、本や人から聞いて習った知識を、実際に自分で実践せずにはいられない性格でしたので、知識と自分の感覚の差分を埋めていくことが楽しかったのです。

――特性が活かせるぴったりの居場所に出会えました。

生田氏:ところが、このあとが「地獄」でした。店長としての店舗運営が評価され、その手腕を業績の悪い別店舗でも発揮して欲しいと、自分は地元の北九州から、福岡市内にある代表的な商業ビルの中にあるお店へと異動を命じられることになったのです。そこは、今では考えられないくらい最悪の店舗環境でした。

それまでの店長としての「実績」もあった自分は、意気揚々と改革に乗り出しました。一つひとつ、北九州の店長時代と同じように、改善をスタッフに指示していたんです。ところが自分が発する命令に、アルバイトスタッフはまったく言うことを聞いてくれません。一所懸命やればやるほど、熱を入れれば入れるほど状況は悪くなる一方。改革どころか、しまいには退職者が続出し、一時は店舗運営が立ち行かなくなるほどになってしまったんです。

「なぜうまくいかないのか」「北九州ではうまくいったのに」。考えれば考えるほど、「自分の頑張りが足りないから」だという結論に進んでしまい、自分を追い込むことによって補おうとしていたため、体と精神のバランスも限界に来ていました。このままでは、潰れてしまう、一体どこに活路があるのか……。ギリギリの精神状態の中で「お店をよくすること」だけに集中し、何度も自問自答する中で辿り着いたのが、「正論を押し付けても、正しい結果には繋がらない」ということでした。

自分の場合、正論さえ通せば、物事は正しい方向に向かっていくものと信じ、それに向かって「頑張って」いたんですね。現に北九州時代は、それでうまくいっていたという成功体験もあったわけです。でも福岡では、お店が正常に運営できなくなるという結果を招きました。変えなければいけないことに囚われていた自分は、その対象としてお店やスタッフばかりに目を向け、自分自身に気づかずにいたのです。

――「頑張ること」と、よい結果はイコールではない。


焦るばかりで「自分」の状況が見えていなかった

生田氏:もちろんよい結果を出すには頑張らなければいけませんが、頑張ったからといって、よい結果が保障される訳ではない。「こんなに頑張ったのに」という言葉がありますが、その頑張りが間違っていないかを冷静に振り返ることは、よい結果を出すためには欠かせません。

そもそもアルバイトから店長になったのと、急に外部から来た店長では、スタッフとの信頼の度合いが異なります。焦るばかりで「自分」の状況が見えていなかった自分は、体を壊してようやく冷静に「状況」を観られるようになりました。今までの自分のやり方に一つひとつ疑問符をつけ、まずは信頼関係を築くために、スタッフに対して、命令ではなく質問や問いかけをするようになっていきました。

「自分が変わる」ことで、少しずつ周りの空気も変わっていく。光が見えたのは、そこからでした。いくつかある店舗の中でも最低と言われていた店舗が、1年かけて北九州の時のように繁盛店になっていったんです。今となっては当たり前すぎることかもしれませんが、いくら自分の正しさを振りかざしたところで、相手を無視したものであれば伝わらない。働く「人」の幸せにつながらなければ、お店だってうまくいくはずがないんです。この時代は、そうした「当たり前」のことを肌身で覚える時期でしたね。

未来の地図は“動くこと”で描かれていく

生田氏:その頃、会社の成長と自分の成長は幸運にも同じ方向を向いていました。福岡での改革の成功のあとも、さまざまな現場で失敗と学びを重ねていましたが、その中で、東京進出の話が持ち上がり、自分は新規出店を担うエリアマネージャーとして、東京に赴任することになったのです。

「福岡より物理的パイの大きい東京なら、もっと多くのことに挑戦できるのではないか」。常々そう考えていた自分には、東京進出は願ってもないチャンスでした。実は社内で、そうした話が浮上してすぐの頃から、自分はことあるごとに社長や上司に「東京に行くなら自分に任せてください!」と頼み込んでいました。いつか東京進出が現実味を帯びた時に、すぐに自分の名前を思い出してもらえるよう、彼らの視界に積極的に飛び込むようにしていたんです。

――“動くこと”によってのみ、未来は変わる。

生田氏:目に留まる行動、意識下に自分が出てくるようにする。そうして「東京といえば、あっそういえば生田がいたな」と(笑)。やりたいことを成し遂げる時、さまざまな方法があると思いますが、自分の場合は、実績とともに存在感を示すことが大切だと思ったんです。

もちろん、新しいチャレンジでしたので、結果が保障されたものではありませんでした。失敗すればクビになるかもしれない。けれども、未来は動いてやってみるまでわからないものだと思うんです。確固たる自信はなくても、自分が描いた「白地図」に、実績が伴うように「色」を付け足していく。そうやって少しずつ前へ進んでいくしかないと思うんです。

生田氏:周りを見渡すと、何かに挑戦しようとする時、ついつい「ダメだったらどうしよう」と考えてしまいがちです。けれど、やってみなくては結果が分かりません。圧倒的に「難しいんじゃない」という声の方が大きかったとしても、実際に動いてみるまでそれがどんな答えになるかわからない。「ラーメン凪」も、そうした「反対」の声を跳ね退けてできたお店でした。

四畳半から始まったラーメンドリーム

生田氏:01年、六本木に初出店を果たし、その後5〜6店舗を展開し仕事が順調に進んでいた矢先、自分の未来は、またしても行動によって大きく変わりました。赴任以来オープン続きで、まとまった休みがなかなか取れずにいたのですが、ある日急にニューヨーク(N.Y)へ行く機会が訪れました。

おりしも9・11の米国同時多発テロの冷めやらぬ頃で、連日の報道でずっと気になっていた場所でした。テレビやネットから流れてくる情報ではなく、実際にN.Yがどうなったのか、この目で確かめたいと思っていたんです。17歳の時に親父を亡くしたことも、自分が「死」を意識した考えや行動をする理由でもあります。

東京での責任者、エリアマネージャーとしての仕事もあり、前もって休みを取れるほどの余裕もなく、急にできた時間に、「今しかない!」と考え、とりあえずチケットだけを手に向かいました。

当時はN.Yだけでなく世界全体がテロへの恐れと警戒からか異様な空気に包まれていたような時期でした。そうした意味で、それまで以上に注目されている街でしたが、自分の目に映ったN.Yの人々は、とにかく逞しく眩しいものでした。悲しい出来事にも負けず、皆それぞれ自分の仕事を通じて、ただ前を見て生きていこうとする姿勢に、自分は仕事を通じて一体どのように関わっていけるのか、と考えるようになったんです。それからは、いち会社員としてお店を大きくするとか、そういうことではなく、自分の生き方を考えた仕事を意識するようになり、その後もその気持ちの確認のために、何度かN.Yを訪れるようになりました。

――未来の白地図に、少しずつ色が塗り足されていく。

生田氏:行動して、地図を塗っていく。それが結果として、今の「ラーメン凪」に繋がっているんです。結局、その数年後に私は東京でも知名度を上げた超人気ラーメン店を飛び出し、「自分の仕事」によって社会と関わっていきたいと行動を起こすことになりました。

当時、東京進出に成功し、会社も大きくなり、自分の仕事も、役割が少しずつ変化していきました。新しい事というよりも、ルーティン化する作業に、「自分じゃなくてもいいのでは」と考えるようになってしまったんです。こうした職場と自分の仕事像へのミスマッチの経験が、今、私が「働き方」を考える理由でもあります。

「ラーメン屋をイチからはじめる」。安定や高収入とは正反対の行動だったと思いますが、そこにベクトルを向けてしまうと、自分の仕事ではなくなってしまうと感じたんです。「無謀だ」と何度も言われました。最初は、現常務の夏山と二人で四畳半の小さなアパートに住みながら、寸胴鍋2つを用意して、ひたすらラーメンづくりの日々。お金も技術も、何もないところから始まりましたが、不思議と苦ではありませんでした。

ある時、歌舞伎町のゴールデン街にあるバーを、夏山の友人から間借りさせてもらい、そのお店の休みである火曜日限定でラーメン屋をオープンしました。当初半月に一度だったペースが、だんだんと週に一度、週に2、3日とどんどん増えていったんです。

――「ラーメン凪」は、少しずつ進化していった。

生田氏:何でもそうだと思いますが、最初から完成したものはありません。「ラーメン凪」のこだわりも、まわりの状況判断と工夫の中で、徐々にでき上がっていきました。ご存知の方もおられるかと思いますが、はじめ「ラーメン凪」のスープは、とんこつでした。とんこつはすでに極めているお店もあるし、差別化しなければ数あるうちのひとつで埋もれてします。「ここのラーメンが食べたい」と思ってもらえるものでなければダメだと。「こだわり」は、そんな周りの状況へ対応することでも生まれました。

そうして試行錯誤の結果、変えるべきところは変えながら進んできた結果の一つひとつが、間借り経営から、実店舗、さらに海外出店と今の「ラーメン凪」に繋がっていったんです。

凪スピリッツの終わりなき挑戦

――たくさんの「嵐」を起こしてきました。


未来の地図は大きく描いてもいい

生田氏:おかげさまで、ラーメンはもちろん、私たちの行動自体が多くのメディアに取り上げられ、結果、またたくさんのお客さまに「私たちの一杯」を届けられることができる。こうした循環ができたことに喜びを感じていますが、満足はしていません。

刻一刻と変化する時代に、私たち飲食店も日々探求と進歩がなければ取り残されてしまいます。普遍的な価値観で物事を見つつ、時代の変化に対応できる「チカラ」が必要。ある意味、じっとしていられない自分にはいい時代だと思います。

――「凪」……次の嵐の前の静けさ。

生田氏:まだまだ終わりじゃないんです。私としてはようやく始まったばかり。実は今、新たにアメリカの某所で開店する準備をしています。数年かけてやってきたのですが、ここ数年のアジア圏での出店と、場所もコンセプトも大きく異なります。この出店も、何度も修正しながら進めてきました。時には、自分の出した指示でさえ、間違っていた場合には謝りながら(笑)、躊躇なく変えていく。最初に考えていたものよりも、周りの状況の方が正しい時は素直に認める。最初と大きく違っていたっていいと思います。

未来の地図は大きく描いてもいい。それに見合う行動、必要な工夫を積み重ねていくしかないと思うんです。これからもそうして工夫と行動を重ねながら、やるべきことを日々問い続け、「人とお店」が成長し、さらにはお客さまへ熱き「凪スピリッツ」を届けられる、そんな“面白いラーメン屋”を目指し続けていきます。

(インタビュー・文/沖中幸太郎)

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