ヤクルト対阪神の先発でプロ初登板し、7回10奪三振2失点でプロ初勝利を挙げた伊藤智仁。神宮球場、1993年4月20日(写真:日刊スポーツ新聞社)

1992年のドラフト1位でヤクルトスワローズに入団した伊藤智仁氏は、選手、コーチを通じて25年在籍し、2017年限りで退団した。来シーズンからはプロ野球の独立リーグであるBCリーグ(ベースボール・チャレンジ・リーグ)の富山GRNサンダーバーズ監督に就任する。ファンの間で「伝説」と語り継がれる男の半生を振り返る。

1993(平成5)年2月、アメリカ、アリゾナ州ユマ――。

野村克也は、内面から湧き出る喜びと興奮を隠すことができなかった。ヤクルトスワローズの監督に就任して4年目。これまで、こんな新人投手を見たことがなかった。いや、長いプロ野球人生においても、ここまで完成された投手に出会ったことがなかった。キャンプが始まってわずか数日ではあったが、稀代の名将はこの時点ですでに「屈指の名投手が入団した」と確信していた。

野村は自ら右打席に立ち、マウンド上の新人右腕が一球を投じるたびに、「パーフェクト!」「バッチリ!」と、称賛の言葉を並び立てる。そして、何度も何度も、大きく首を横に振りながら「信じられない!」と口にした。そして、野村は自ら「架空実況中継」を始めた。

「……さぁ、9回裏二死満塁、カウントはフルカウント。ピッチャー伊藤、投げました。見事な球だ。ストライク。三振!」

あまりにも無邪気に大騒ぎをし、大げさに感嘆している前年のセ・リーグ優勝監督。報道陣たちの中には、これを「ノムさん流パフォーマンス」と受け止めた者もいたかもしれない。しかし、指揮官は本心から感嘆していた。

野村克也が「生涯ベストワン投手」と語る

後に日本球界を席巻し、セ・リーグの強打者たちをきりきり舞いさせることになる高速スライダー。その使い手こそ、この年のドラフト1位でヤクルトに入団した新人右腕――伊藤智仁――だった。すでに傘寿を過ぎた野村克也が、1993年ユマ・キャンプを振り返る。

「その前年、彼は(バルセロナ)オリンピックに出ていたんでしょ? でも、全然知らなかった。高校野球は見ていたから、むしろ松井秀喜のことは知っていたけど。ただ、スカウトと世間の評価がすごく高いから、反対意見もあったけれどもドラフトのときには“ならば、松井ではなく、伊藤智仁を指名しましょう”と提案したけど、大正解だったね(笑)」

さらに野村が続ける。

「そして、初めてキャンプで彼のボールを見た。普通はストレートに惚れるものなんです。なぜなら、『ストレートの魅力』イコール『ピッチャーの魅力』だから。でも、この伊藤智(トモ)の場合は違った。『スライダーの魅力』なの。初めて見てすぐに“すごいスライダーを投げるな”と驚いた。同時に、“このスライダーならすぐにプロで通用するな”とも思った。それが、彼に対する最初の印象だね」

前年のドラフト前には「10年に1人の逸材、松井秀喜を!」と推すスカウト陣に対して、「10年に1人ならほかにもいるだろう。ならばピッチャーを獲ってほしい」と、逆らってまで、強硬に「伊藤指名」にこだわった。

ドラフト会議では、広島、オリックスとの競合の末に交渉権を引き当てた。野村の伊藤に対する期待は大きかった。そして、その実力は野村の想像以上だった。百戦錬磨の名将が「長いプロ野球人生において、一、二を争うスライダーの持ち主」と感嘆するほどの潜在能力を誇る逸材に興奮しないはずがなかった。

あの松井秀喜を抑えて、新人王を獲得

指揮官の見立て通り、期待のゴールデンルーキーは見事な活躍を披露する。体調不良で開幕を二軍で迎えたものの、4月20日にはプロ初登板で初勝利を記録すると、その後は目覚ましい活躍を続けた。特に6月は5試合に先発。49回2/3を投げて、その右腕からは実に694球も投じられていた。女房役の古田敦也が当時を述懐する。

「彼の高速スライダーは本当によく曲がりました。ほかの投手と違ってトモの場合は明らかに腕の振りが違いました。大魔神・佐々木(主浩)や野茂(英雄)の場合は頭の上でパンと手首を返してからひじが落ちてくる。でも、トモの場合は打者の手元に近づいているのに、まだ投げない。イチ、ニ、サンの後にさらにニュッとひと伸びがある。これはかなり打ちづらいですよ」

古田が「直角に曲がる」と称した高速スライダーは、瞬く間にセ・リーグ、いや日本球界の注目の的となった。中日ドラゴンズの落合博満や立浪和義、広島東洋カープの前田智徳ら各チームの主力打者が手も足も出ない。圧倒的存在感をたたえたまま、伊藤智仁はマウンド上に仁王立ちしていた。しかし、登板過多の代償がすぐに訪れる。7月4日の巨人戦でも137球を投じた伊藤は、この日の試合中に右ひじを負傷。残りのシーズンを棒に振ることとなった。伊藤本人が当時を振り返る。

「アマチュア時代にひじを故障したことはなかったので不安はあったけど、“すぐに治るやろ”と、シーズン後半の復帰に向けてリハビリに励んでいました」

結局、この年の復帰はかなわなかったものの、シーズン序盤の大切な時期に7勝2敗、防御率は0・91という成績を残し、伊藤はチームの日本一に貢献した。さらに、この驚異的な記録が評価され、新人王に輝いた。あの松井秀喜を抑えての受賞だった。実働はわずか3カ月弱でありながら、前半戦に見せた鮮烈な閃光は見る者の胸に強烈に焼きついていたのだ。

しかし、野球の神様は伊藤にさらなる試練を与えた。右ひじが徐々に回復しつつあった2年目の春のキャンプではさらに右肩を故障。結局、2シーズンを棒に振り1996年に復帰。翌1997年にはリリーフ投手としてチームの日本一に貢献し、カムバック賞も獲得した。それでも、その後の伊藤智仁のプロ野球人生は苦難の連続であった。

1999年には血行障害のために右肩にメスを入れた。右腕は常に冷たく、血圧測定ではまさかの「0」が記録されていた。そして、2001年にも再び右肩を手術。手術をしても完治の保証は何もなかった。それでも、「何もしないよりはましだ」と一縷(いちる)の望みに賭けたのだった。

この頃になると、世間を驚愕させた「93年の閃光」はすっかり影を潜めてしまっていた。プロ9年間で3度の手術。たぐいまれなる可動域を誇っていた右肩だからこそ生み出された高速スライダーは、その半面、故障を誘発しやすいのも事実だった。

たび重なる故障に苦しみ、ついに現役を引退

そして2002年オフ、伊藤は戦力外通告を受けた。しかし、本人はなおも現役続行にこだわり、古田敦也、宮本慎也らチームメイトの支えもあって、球団は伊藤と再契約を締結。年俸8000万円から1000万円への大幅減額に世間は驚いた。それでも、彼は「現役を続けられるのであれば金額など問題ではない」と復帰に向けての意欲を見せた。

しかし、2003年も一軍はおろか二軍での登板機会を得ることすらできなかった。懸命のリハビリを繰り返してもなお、彼の右肩は手の施しようがなかった。シーズンオフのコスモスリーグ(2軍チームによるオープン戦)で最後のマウンドに立った。すでに引退を決意していたラスト登板。その球速はわずか109キロだった。もはや、150キロを超える豪速球も、打者をきりきり舞いさせた高速スライダーも望むべくもなかった。

毎年恒例のファン感謝デーで伊藤は最後のあいさつを行った。

「みなさんこんにちは。私は今シーズンで引退します。11年間の現役生活でしたが……」

ここまで言うと彼は涙ぐみ、少しだけ言い淀んだ。

「……その半分がケガとの闘いだった気がします。再びマウンドに帰ってこようと、自分なりに精一杯努力したつもりです。歯がゆいとき、苦しいとき、もちろんありました。そんなときに僕の心の支えになったのが、“野球をやりたい、野球を好きだ”という気持ち、そして大切な仲間、家族、ファンの声援でした。支えてくれたチームメイト、球団関係者、スタッフ、家族、そして、ファンのみなさん、本当に、本当にありがとうございました」

手にしていた花束を笑顔とともに掲げると、さらに盛大な拍手とねぎらいの言葉が神宮球場を包み込んだ。現役通算37勝27敗25セーブ。防御率は2・31。これが、記録より記憶に残る男――伊藤智仁のプロ野球人生だった。

25年間のヤクルト人生、最後の一日

現役引退後、伊藤はヤクルトのコーチとして後進の指導に当たった。由規、村中恭兵ら期待の高卒ルーキーたちと泥にまみれて練習に励んだ。2004年から2017年までの14年間、彼は次代のヤクルトを支える若手投手を育成すべく奮闘を続けた。そして、今季限りで伊藤智仁はヤクルトのユニフォームを脱いだ。1993年のプロ入り以来、実に25年間にわたる、ヤクルトひと筋のプロ野球人生だった。

2017年(平成29)年10月3日――。本拠地最終戦恒例のセレモニーも淡々と進む。監督退任の弁を述べる真中の姿を、伊藤は黙って見つめている。セレモニー終了後、選手たちによる真中の胴上げが始まった。続いて伊藤も神宮の夜空に舞った。この日、神宮球場では伊藤の家族が最後の雄姿を見守っていた。妻・泉は言う。

「子どもたちにパパの最後の姿をきちんと見せてあげたかったので……」


野球を始めたばかりの長男は山田哲人のレプリカユニフォームを身にまとい、満員の球場に興奮を隠せない。一方、高校3年生の長女は制服姿のまま、父の姿を見て静かに涙をこぼした。

家族全員に見守られる幸福な最後の瞬間だった。そして、関係者との打ち上げを控えていた伊藤は用意されていた車に乗り込んだ。

係員に誘導される形で車が動き出す。伊藤を乗せた車がクラブハウスを出ていく。25年間通い慣れた神宮球場を後にする瞬間だった。テールランプの赤い光がやがて小さくなっていき、そして車は完全に見えなくなった。家族に見送られ、ファンの声援を受けて神宮球場から去っていく。

伊藤智仁の最後の一日、25年にわたるプロ野球人生に、ひとまずの区切りがついた瞬間だった――。

(文中敬称略)