誰もが心のどこかで成功したいと思っている。

 漠然と金持ちになりたいという金銭欲だったり、仕事で成功したいという出世欲だったり、異性にもてたいという生物としての剥き出しの欲望だったり。人それぞれ成功の定義は違う。

 だが、その欲望も時代が違えば事情が違ってくる。たとえば過去にさかのぼり、戦国時代の武将を例に考えてみよう。彼らは戦に勝ち、敵の領地を奪い、己の存在を認めさせるために武力を誇示するといったことに血道をあげていた。支配者になるためのすべてが、欲望に直結していたと言ってよい。

 現代的な価値観に照らし合わせると、人を殺すことの後ろめたさが彼らに「武士道」的な精神を持たせたのではないかとさえ思う。でも、当時はそれが「常識」だったのだ。

 常識は、時代や世論によって左右される。戦国時代は気に入らない奴がいれば武力をもって解決すればよいが、現代ではそうはいかない。人の間と書いて「人間」である。相手を尊重する、成熟した現代社会に私たちは生きている。その社会に生きる者として、最近思うことがある。互いに尊重しあう「天秤」のバランスが崩れ、自己を承認してもらいたい欲求を募らせている人々が増えすぎてはいないだろうか? あなたの周りに思い当たる人がいるなら、ぜひこれから紹介する本を読んで欲しい。

 今回の選書のテーマは「承認欲求」である。

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ナンパという行為の根底にあるもの

『』(高石宏輔著、晶文社)


『声をかける』(高石宏輔著、晶文社)

 私はこの本の存在を今後、ことあるごとに思い出すことになるだろう。読後、そんな確信めいた予感にとらわれた。コミュニケーションが混迷する現代において、人の心にこれほどまでに深く踏み込んだ本はちょっと記憶にない。本書が現実であるのか、虚構であるのか判然としないまま、読みすすめながら軽い混乱に陥る。

 この本は風景も心理描写においても、どちらもあり余るほどのリアリティを感じさせる。情報を有しないままページを繰れば、読む者自身が、実際にそこで体験しているかのような「手ざわり」がある。自分とは価値観も、行動原理も、全く違う人間の目線で書かれているのにもかかわらず、いや違うからこそであろうか、本書に書かれていることすべてに惹きつけられた。

彼はナンパ師である。
ナンパを始めた当時、彼は二十五歳だった。

 実際には「僕」という一人称で書かれているので、引用でもなんでもない上記の文は、誤った先入観を与えかねない。だが先に触れたように「彼」と書かないと読んだ自分との境界線が曖昧になってしまいかねない、呪力のような雰囲気が本書にはあるのだ。

 ナンパというと、どうしてもチャラいイメージが付きまとう。事実、私も本書を目にした時に、人文系の書籍を出版する晶文社がどうしちゃったんだろうかと本気で心配した。帯には「ナンパは自傷」との文字が刻まれ、表紙には女性のスカートの中に顔を突っ込む男性のイラストが描かれている。

 読む前にそれを目にした時、「はぁ?自傷?ふざけんな」と反発心を持った。しかし、人文系の出版社がその本の出版に踏み切ったという拭いきれないギャップに引っ掛かりを覚えたのだった。どうしても気になって、手に取り、また本を戻してということを2〜3度繰り返し、結果、得体のしれない衝動に突き動かされるように本書を購入して、反発心をもったまま読み始めた。中途半端な作品だったら許さないぞと。

 結果は、ことあるごとに思い出すだろうというトラウマめいた感想を持つに至ったのだが、これは決して悪い意味で言っているのではない。読み終えたいま振り返ると、一連の僕の心情はすべて本能に訴えかけるリビドーだったのかもしれないと思う。本書を読むと、ナンパをしたことがある人ほど、ナンパの極意のようなものが手の内から飛び出し、ナンパという行為そのものに関して分からなくなるのではないだろうか。

 オスとメスとが番(つが)いになること。そこにドラマティックな物語は、果して必要なのだろうか。「遺伝子の乗り物」との比喩もある人間が、古来より繰り返してきた生殖という行為。その行為自体は、おそらく何万年も前から大きく進化してはいないだろう。

 その一方で、「優秀な遺伝子」の定義自体は、冒頭にも述べた通り時代に左右されてきたのではないだろうか。狩猟や戦乱の時代には肉体的な強さが、平和な時代には知識の量が、それぞれ求められて今に至る。強さと知識の割合は時代背景にもよるのだろうが、現代の日本では「笑い」が過剰にブレンドされているのではないかと、本書を読んで気づかされた。「面白さ」がこれほど重視された時代は、日本の歴史上においてなかったのではないだろうか。同時にそれらトレンドの裏側で、どうしても譲れない個々人の「要素」が好みとして発露するのだろうということにも気づく。

 少し話がそれてしまったので戻す。ナンパの話である。「ナンパ=自傷行為」であるといいながら、彼はなぜナンパを始めたのだろう。彼は言う。

“女性が怖い”
“コミュニケーションは苦手だ”

 それならば、ナンパなどしなければいいと思うのだが、そこには苦手といいながら切実なコミュニケーションへの渇きがある。女性に対しての直接的な性ではない。自己を肯定したい、自分を承認して欲しいという欲求が根底にあるのだ。最適解を求めるように、女性に声をかけ続ける本書の「彼」は、最終的に一人の女性へと導かれて長く付き合うこととなる。その相手は、彼の好みとは乖離しているように思え、それでも一緒にい続ける展開に多少の違和感を持ってしまう。しかし、その違和感がじつは本書のキモであろう。彼が自らの精神を傷つけるようにしながら、女性に声を掛け続けた理由・・・それは、ぜひ読んで確かめていただきたい。あなたの対人関係に新機軸をもたらす良書である。

 昨今、とくに若い世代において、コミュニケーション能力や対人関係が話題になることが多い。本書は、彼ら若い世代の複雑な心の中を垣間見ることができるので、内面を読み解くという面でも貴重な一冊ではないだろうか。

 我らおじさん世代から見ると、自分を大切にしすぎているように思える若い世代。傷つくことで学ぶこともたくさんあると知って欲しい。そして仮に深く傷つきすぎたとしても、時間が心の傷をゆっくりとだが癒してくれることを知って欲しい。

おじさんを一刀両断

『』(鈴木涼美著、扶桑社)


 次は、特に若い女性に承認されたい「おじさん」向けの1冊。

『おじさんメモリアル』(鈴木涼美著、扶桑社)

 本書を読みつつ「痛いっ」と思わず声が出た。心に新たな傷を抱えたと思う。

 著者の鈴木涼美は、1983年生まれ。慶應義塾大学を卒業し、東京大学大学院修士課程を修了。日本経済新聞の記者として5年半勤めた後、文筆業へと転じた。一般的には華々しい経歴と並行して、キャバクラ、風俗嬢、AV嬢と自分の興味のままに、それらをすべて経験してきたという。言い方に正確性を欠くが、先に挙げた経歴のほうを「表」とするならば、その次に挙げた「裏」にあたる経歴で出会い、データを積み重ねた「おじさん」の生態をカテゴライズし、それについて苦言を呈した著者自身のクロニクルが本書である。

 現在40歳で彼女ほどの学歴もない私は、正真正銘のただの「おじさん」なのだが、自分の子ども時代に周囲に存在していた「おじさん」よりも、中身がだいぶ幼稚な「おじさん」なのではないかと常々思ってきた。一時期そのことに妙に引っ掛かりを覚えて、無理に小難しいことを考えていたりしたものだが、でも本書を読んで、昔の大人像など幻想で、みんな本書に書かれたおじさんと同等だったのかもしれない、などと考えるようになった。そういう意味においては、本書を読んでよかったと思う。

 そう考えるに至った根拠として、本書の巻末で著者と対談している高橋源一郎の言葉を以下に引用する。

「人間には、社会に認められることによってかたどられる輪郭と、個人に認められることによってかたどられる輪郭があります。恋愛は後者ですよね。自分が選んだ相手の前では、ほかの人には見せない何かを見せる。そうやって社会的人間とは別の、もっと個人的な人間としての輪郭を作るわけ。」

 社会に認められようと振る舞う「おじさん」の側を、子ども時代の私は見る機会が多かったのだろう。しかし、特定の個人の前ではみな幼稚な一面をのぞかせる。そしてそれ以上に、心のうちの自分との対話は、ごくごく個人的なものであるからより幼稚に感じるのだ。

 著者に「おじさん」としてカテゴライズされた人々は、つねに社会的な存在であることを求められ、個人的な素の部分を見せた瞬間に嵩(かさ)にかかって攻めたてられている。「おじさん」は社会的な生き物なんだから、甘えは許さないとばかりに。それは非難でもあり、叱咤でもあり、少し激励の意味合いも込められているのかもしれないと、好意的に捉えておく。

 ただ、おじさん代表として苦言を一つ。痛快無比な歯切れの良さを演出したいのだろうが、世代を、人を、一括りにする時の「怖さ」に自覚的であって欲しい。区別と差別とは、紙一重である。本書にたびたび出てくる著者の友人が、著者とあまりに近い価値観を持っているような気がする。それらの友人から聞いた話として登場するおじさんたちが、あまりに画一的過ぎるのだ。浮世離れした「非おじさん」であるおじさん(自分はそこには入っていないが)も存在する想像力を持ってほしいと思う。

 若い女性にどう思われているか気になるおじさんは、本書を読めば(著者が思うところの)嫌われないおじさんとしての振る舞いの参考になるだろう。ゴーイングマイウェイおじさんは、もちろん読まなくてよい。

それは渾身の決意を持った活動

『』(姫乃たま著、朝日新書)


『職業としての地下アイドル』(姫乃たま著、朝日新書)

 承認欲求を手っ取り早く満たすためには、アイドルになるのが一番の近道である。しかし、誰もがなれるわけではない。一昔前は、選ばれし者しかなれなかった。だが今は違う。「地下アイドル」という、承認欲求を簡単に満たすコンビニエンスなシステムを時代が生み出してくれた。

 地下アイドルの正確な定義を誤りなく認識している人は、かなり少数派でないだろうか。かくいう私も本書を手に取る前に勝手に思い描いていたイメージは、地下の闘技場で取っ組み合うアイドルの姿だ。うっすらと耳にしたことがある「仮面女子」という単語。実際に仮面を身につけているらしい、そのグループからの手前勝手な想像である。だから本書の著者名もリングネームかな、くらいに思っていた。

 だが地下アイドルとしてステージに立つ彼女らは、とても大きな衝動に突き動かされて、渾身の決意を持って活動しているのだということを本書によって知らされた。

 地下アイドルの世界は、居場所を持たない人間が自分にも居場所があるのだということを確認するためにあるらしい。第二次ベビーブームの燃えカスともいえる年代に生まれた自分には、「お前は老人ホームに入れるかどうかを心配する年寄りか」とツッコミを入れたくなるような悩みだ。周りが何とかしてくれるだろうという無根拠な余裕を持てと言いたくなった。だが、彼女らにとっては承認欲求が満たされないことが悩みなのである。

 右にならえと教え込まれながら、苛烈な競争があった世代に育った自分たちの世代。一方、自身が「世界に一つだけの花」であることを求められた20〜30代の若い世代。

 誰もが自分をそんなに特別な存在であると認識しなければ、生きていけない世の中であろうか。大衆である気楽さと傍観者である喜びとを積極的に肯定する生き方を、彼らは選べないのだろうか。彼らは声だけは異常にでかい。主張だけは一人前である。根底にあるのは他者から認められたいという強い「我」である。

 他者をとおした自分への評価ではなく、絶対的な自己評価こそが幸せを見出す大切な一歩だと伝えたい。本書を読んでそんなことを思った。

 上記の3冊を取り上げてみて、あらためて現代的な「欲望」には捉えどころがないなと思う。

 承認欲求が満たされたその先に、はたして幸せはあるのだろうか。あなたが満たしたいと考えている欲求を、いま一度見つめ直すためにこれらの本を読むことはきっと有効であろう。時代に左右されない欲求なら、追い求める価値があるかもしれない。

筆者:松本 大介(さわや書店)