―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでない
ことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人はとうとう “新婚クライシス”を迎え、夫婦のすれ違いは深まる。そんな中、英里は赤ん坊を連れた元彼・きんちゃんに偶然再会。理想の父親像へと成長した彼の姿に、動揺を隠せなかった。




―子ども、かぁ...。

『ザ・カフェ by アマン』で咲子ときんちゃんと別れた後の、英里の足どりは重かった。

姪っ子を自分の娘のように世話をするきんちゃんの姿が、脳裏に焼きついて離れないのだ。

また咲子も、妊娠中のプレママとして赤ん坊に興味津々だった。二人が楽しそうに子育てについて語るのを見ていると、英里はどうしても胸がザワついた。

―もしも、もしも......吾郎くんじゃなくて、きんちゃんとあのまま進展してたら......。

考えてはいけない、と思いつつも、英里の妄想は止まらない。

もしもきんちゃんが夫であったら、結婚式もハネムーンも、何の懸念もなくスムーズに進んだに違いない。子どもについても、今のようにモヤモヤと一人で悩むこともなかっただろう。

ひょっとすると、咲子と同じタイミングでプレママになっていた可能性だってある。

そこまで頭に思い描いて、英里は自分の浅はかさに愕然とした。

―私って、最低...。

しかし、吾郎とは相変わらず冷戦状態が続いていて、まともな会話もしばらくしておらず、心がどんどん荒んでいた。

―こんなはずじゃ、なかったのに。

六本木一丁目のマンションの前に着くと、英里は大きく溜息をついてしまった。

最近は夫婦仲が冷え切った我が家に帰るのが、憂鬱になっている。

独りの寂しさよりも、夫婦一緒にいるのに感じる孤独の方が辛く感じるということを、英里は初めて知った。


一方の吾郎は、英里と仲直りすべく、ケーキ片手に待機中。


なぜか裏目にでた、吾郎の精一杯の誘い文句


「よう。おかえり」

吾郎は数時間前から、英里の帰宅を待っていた。

同僚の松田にそそのかされた気がしなくもないが、妻と仲直りをすべく、言われた通りに千疋屋でケーキまで購入してしまったのだ。

「吾郎くん、帰ってたんだ...」

英里は少し驚いたような顔をしたが、すぐに目を逸らし、洗面所へ向かおうとした。

「なぁ。今夜、メシはどうする?」

その後ろ姿を追いかけ、思い切って話しかけてみる。

振り向いた英里の目には、少しだけ温かみが戻ったように見えた。そういえば、夕飯を一緒にするのも久しぶりだ。

今夜は普段の手料理の労いも兼ねて少し贅沢な店に連れて行き、帰宅後に冷蔵庫の奥に隠したケーキを差し出せば、さすがに英里の機嫌も直るに違いないと吾郎は踏んだ。

「うん...。じゃあ、何か作るわ。吾郎くん、何が食べたい?」

「いや、どこかに食いに行こう。お前は何が食いたい?」

すると英里は、またしても怪訝な表情を浮かべる。




「わざわざ外に行かなくても、私、ゴハン作るよ」

「いや、必要ない。長々と調理して一瞬で食べ終わったら、せっかくの週末の時間がもったいないだろう。たまには美味い鮨屋でも行こう」

これは、吾郎にとっての精一杯の誘い文句だった。しかしどうしてか、英里の表情はみるみる曇っていく。

「どうして吾郎くんは、いつも私のこと否定するの...?」

目にたっぷりと涙を浮かべた英里を前に、吾郎の頭には無数の“?”マークが並ぶ。

「おい。最近のお前は少し変だぞ。何がそんなに不満なんだ?」

一体、妻に何が起きたというのか。ただ鮨に行こうと提案しただけで、なぜそれほど情緒不安定になる必要があるのか。

つい最近まで、子犬のように人懐こくいつもニコニコと微笑んでいた英里を思うと、吾郎は彼女が何か悪い病気にでもかかった可能性すら抱いた。

「ねぇ、私たちのケンカの原因、吾郎くんは覚えてないでしょ?」

英里に問われ、吾郎は記憶を探ってみる。そういえば、そもそものきっかけは何であったか。

酔って帰宅した英里をキツく咎めたことに対して拗ねただけだと思っていたが、それ以前のことは思い出せない。

「やっぱり、吾郎くんは何も分かってない...!私は、もっと“普通に”夫婦らしくなりたいの。結婚式が馬鹿馬鹿しいとか、料理の時間が無駄とか、そういうこと言われると悲しくなるの。

それに......、私は子どもだって早く欲しいの!!!」

英里の突然の訴えに、吾郎は鈍器で殴られたような衝撃をうけた。


ついに子どもが欲しいと訴えた英里。偏屈夫の反応は...?!


英里が理想とする、ささやかな幸せ


英里はもちろん、“結婚がゴール”だと思っていたわけではない。

吾郎の独特な性格だって十分理解したうえでの結婚であったから、妻という立場に甘んじるつもりもなかったし、それなりの衝突があるだろうことは覚悟していた。

ただ唯一望んでいたのは、吾郎とふたりで“幸せな家庭”を築くことだ。

それは、食事の献立を考えながら夫婦でスーパーへ買い物へ行く日常、家電製品を吟味すべく電気屋をハシゴする週末など、ごく普通にありふれた、しかし“夫婦らしい”ささやかな幸せを実感できる関係だ。

今のまま独身時代の延長のように自由でスタイリッシュな生活を継続していては、きっといつまでも理想の夫婦とは程遠い状態が続くだろう。

ましてや子どもを持つなんて、夢のまた夢。

まずは吾郎と少しずつ歩み寄るのが必要だと思っていた。

だから英里は、「子どもが欲しい」と咄嗟に叫んだ言葉に自分が驚かされてしまった。この不完全な夫婦関係では、子どもを持ちたいと思うことすらタブーな気がしていたからだ。

しかし、咲子の妊娠やきんちゃんの良き父親ぶりに、思った以上に触発されていたのだろうか。

一度それを口にしてしまうと、英里は自分の中で気づかぬうちにムクムクと育っていた子作り願望の強さを実感せずにはいられなかった。

英里は、こわごわと吾郎を見やる。

常にストイックに、何事にも生活リズムを狂わされることなく生きている彼が、簡単に自分の言葉を聞き入れるとは思えない。




案の定、吾郎は口を真一文字に結んだまま固まっている。顔がピクピクと引き攣っているから、やはり相当なショックを受けているのだろう。

「......その件については、一旦持ち帰って考えさせてくれ」

しばらくすると、吾郎は重々しく口を開いた。

―一体、どこに持ち帰るのよ...?

思わずツッコミたくなるが、吾郎は英里の返事を待たずに、背を向けてベッドルームに閉じこもってしまった。

愛する彼氏と結婚したい。愛する夫の子どもを産みたい。

女なら誰しもが持つ願望。どうして自分に限っては、それを実現させるのがこれほど難しく、相手に受け入れてもらえないのか。

そんな自分の人生を、英里は呪いたい気分になった。

▶NEXT:12月23日 土曜日更新予定
“その件”を一旦持ち帰った吾郎は、胸の内で何を思う...?