東京には、いろいろな妻達がいる。

良き妻であり、賢い母でもある良妻賢母。

夫に愛される術を心得た、愛され妻。

そして、あまり公には語られることのない、悪妻ー。

これは、期せずして「悪妻」を娶ってしまった男の物語である。

女性の美に並々ならぬ執着を持つ藤田は、若く美しい妻・絵里子と結婚する。一筋縄ではいかない日々、奔放すぎる絵里子。だが、そんな妻についに藤田も我慢できなくなり、同僚女性と飲みに行くことにしてしまう。




妻の心。


麻布通り沿いに一人取り残された絵里子は、一旦脱いだコートをまたしっかりと羽織り直した。12月の外気は、絵里子の体を芯から凍えさせる。

「一体どういうつもりなの…!」

いつもの藤田ならば、絶対に絵里子を「お前」などと呼んだりしない。

強引にスマホを奪われ、勝手に着信拒否をされたことにも腹が立っていた。

だがー。

怒りに支配されていた心が、次第に不安と悲しみに占拠されていく。

あんなに自分に優しく尽くしてくれた藤田が豹変したことで、絵里子は少なからず動揺していた。

そもそも自分は、梅原と何もやましいことなどしていない。

仲間内で飲んでいるという場所に呼ばれただけなのだから、自分はそこまで悪くない、とも思う。

それなのにああも激しい怒りを見せた藤田に対する憤りと、もし本格的に見捨てられたらどうすれば良いのかという戸惑いで、その場から動けなかった。

父や兄とは違い、何を言っても受け入れてくれた藤田。

どんなに気のむくままに振る舞っても優しく接し続けてくれた藤田を、とうとう怒らせてしまったのは自覚していた。

自分から喧嘩を仕掛けて相手を無視したことはあっても、相手から拒否されることには慣れていない絵里子は、そうした場合にどういう態度をとったら良いのかが全くわからない。

相手が折れてくれるケースにばかり慣れていたため、そうではない状況では、なす術がないのだ。

梅原たちと飲んで騒ぐ気にもならず、絵里子は藤田が帰宅していることを期待し、タクシーを止めて自宅の住所を告げた。


一方、小野と飲みに行ってしまった藤田は?


なぜだか心が癒される相手


「藤田さん、こっちこっち!」

タクシーを止めると、『バー コルヴィナス 02』の前で小野友里江がこっちに手を振っているのが見える。

寒いから中で待ち合わせようと言ったはずなのに、こうして自分を待ってくれている小野を見て、藤田の心は大きく動かされた。

自分を放って他の男の元に行こうとしていた絵里子とは、えらい違いだと思う。

藤田は、小野と共に地下へと進んだ。

この店には、地下に会員のみが利用できる落ち着いたソファ席がある。誰にも聞かれたくない込み入った話をするのにもちょうどいい。




「で、藤田さん、今夜はどうしたんですか?」

友人と飲んでいたという小野は、すこぶる機嫌が良い。先ほどまでは絵里子に対する怒りが抑えられなかった藤田も、つられて笑顔になっていった。

「何か嫌なことあったんですか?ま、飲みましょうよ!」

こちらから話し出すまでは、何があったかを無理やり聞き出そうとせずに慰めてくれる小野に、藤田は少しずつ癒されていく。

最近は嫌な思いを消すためだけにひとりで飲んでいたワインも、小野とだと不思議と楽しく飲めた。

小野の前では気取らず、気を張らず、思いのままを打ち明けることができる。

実は妻が、浮気をしているのかもしれないこと。

妻の家庭環境はかわいそうだし惚れてはいるが、このまま振り回され続けては身がもたないことなどを、酔いに任せてかなりあけすけに打ち明ける。

「うーん…。浮気してるかどうかは別として、このままじゃ藤田さんがかわいそう…。」

あれだけ女の美醜についてうるさかった藤田だが、そう若くもない、特段容姿が優れているとも思えない小野に対し、しっかりと好意を感じていることを自覚した。

絵里子の顔も浮かんだが、その直後に梅原からの着信があったことを思い返し、浮気の疑念を打ち消すかのようにワインを飲みほす。

それから、どれくらいの時間が経っただろうか。

眼が覚めると、藤田は小野の自宅にいた。


2人は、一線を超えてしまったのか…?


迷走する関係


「おはようございます。コーヒー飲みます?」




昨晩飲み過ぎたためか、頭痛がひどい。小野の自宅のソファで寝てしまったらしい自分が、ジャケット以外すべて身につけていることを藤田は慌てて確認した。

「ごめんなさい、小野さん!調子に乗って、本当に申し訳ない…。」

酔っていたとはいえ、既婚者の身で女性の家に泊まるなんて、最低な行為だ。衣服は身につけているが…、一線を超えてしまったのだろうか。

申し訳なさで、藤田は土下座に近い形で平謝りする。

だが、小野は柔らかい笑顔を向けてきた。

「やだ、藤田さん。昨日は何もありませんでしたよ。安心してください。」

藤田は安堵のため息をついた。

「でも…私は何かがあっても良かったですけどね。」

小野の大胆な発言にどう反応して良いかがわからず、藤田は急いで帰り支度を始めた。

失礼にならぬよう丁重に礼を言い、改めてお詫びをさせて欲しいと告げ、藤田は半ば逃げるようにして小野の家を後にした。



帰宅すると、どこかに行っているものだと思っていた絵里子が、ベッドですやすやと寝ていた。

藤田は拍子抜けし、その場に座り込む。こうして寝顔だけ見ていると、絵里子はまるで少女のようにしか見えない。

シャワーを浴び、部屋着に着替えても、絵里子はまだ眠っていた。

こうして寝顔を見つめているだけなら、自分たち夫婦には、何の問題もない。

だが、最近の絵里子の行動には心をかき乱されてばかりだ。

ここ一週間、家出や大きな喧嘩で心が休まる暇のなかった藤田は、精神的にひどく消耗していた。

今までの人生で女性と深い付き合いをしてこなかったため、絵里子の気持ちが全くといっていいほどわからないのだ。

ー自分なりに絵里子を愛してきたつもりだが、彼女には伝わっていないのだろうか。

欲しいものは出来る限り与え、家もインテリアも全て望むようにしてやった。うるさがられようと常に容姿を褒め称え、愛の言葉も惜しんでこなかったつもりだ。

ーこうした愛し方は、間違っていたのだろうか…?

そんな風に思案していると、ベッドの脇で絵里子のスマホが鳴った。

好奇心が抑えられず、ロック画面の解除を試みる。もしかしたら、また、梅原かもしれないー。

「…何してるの?」

次の瞬間、藤田が自分のスマホをいじっていることに気がついた絵里子が大声を出す。

「ちょっと、いい加減にしてよ!」

スマホを奪い返し、鋭い目でこちらを睨んでいる。その表情は、自分に対する憎しみに満ちているように見えた。

自分は、絵里子とこんな風に憎しみ合いたいわけではない。

だが、奔放な行動には我慢ができても、自分の妻が他の男と浮気をしているかもしれない、と思うだけで感情のコントロールが出来なくなってしまう。

こんな風に憎しみ合うくらいなら…。

藤田は意を決し、弁護士である姉に連絡をとることにした。

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藤田は、姉に何を相談するのか?