バッシングに晒された白鵬(写真:日刊スポーツ/アフロ)

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 元横綱・日馬富士が貴乃岩にけがを負わせた事件は、鳥取県警が日馬富士を傷害容疑で書類送検し、刑事事件としては終局を迎えつつある。鳥取地検が、マスコミの騒ぎっぷりなど世の中の雰囲気に左右されず、証拠に基づいて、被害の程度と被疑者の責任を十分に吟味し、事案にふさわしい適切な処分を、できるだけ速やかに決めるよう、まずは望みたい。そのうえで、最終的に確定した事実を公表してもらいたい。

●目に余った“白鵬バッシング”

 というのは、本件は事実をないがしろにした報道や非難合戦があまりにもひどかったからだ。いったん流れた情報は、真偽を問わず拡散する。デマだとわかっても、しばらく時間をおいて再燃し、関係者を長く苦しめることにもなる。つい最近も、とっくに事実無根と判明している辻元清美衆議院議員に対するデマが、またツイッター上で流通していた例もある。日本相撲協会の危機管理委員会も事実調査はしているが、警察・検察という権力を伴う公的な機関が証拠を収集した結果の事実を正式に公表することは、風評を鎮め、事実に基づいた論評やその後の対策に役立つだろう。

 この話題は人々の関心も高く、テレビは視聴率がとれ、ネットメディアもアクセスが増え、雑誌はよく売れるようだ。情報番組などは、ほとんど連日、この問題を取り上げている。しかし、事実がきちんと判明しない状況で断片的な情報に群がるため、虚偽の情報が流されたり、出所不明の情報も飛び交う。

 とりわけ目に余るのが、この問題が発覚して以降のモンゴル力士叩き、特に横綱・白鵬に対するバッシングだ。日馬富士が、警察の捜査が終了して事実関係が明らかになる前に引退してしまったこともあって、モンゴル力士嫌いの人たちの攻撃の矛先が、すべて白鵬に向けられているようにも見える。

 裏取りもせずに平然と「八百長が行われているのではないかという噂も絶えない」などと書いているメディアもある。「貴乃花親方が『一番悪いのは白鵬だ』と憤っていた」という、「周囲」とか「関係者」とかの話が、その真意や根拠も判然としないまま伝えられた。さまざまなメディアが、白鵬vs.貴乃花親方の確執というかたちで延々とこの話題を報じ、白鵬の「品格」をあれこれ論難している。

 2011年に八百長問題が発覚し、春場所を中止するなど角界の最大の危機の時に、1人横綱として大相撲の屋台骨を支えた白鵬は、角界の最大の功労者だろう。相撲が人気を回復し、日本人横綱も生まれたからといって、メディアが「恥知らずの最低横綱」などの罵声を浴びせるのを見るにつけ、日本人はいつからこんな恩知らずになったのだろうと悲しくなる。

 批判を浴びている万歳三唱にしても、場所中に今回のような問題が起きたことを詫び、そんな中でも会場に足を運んだ人たちの声援に感謝したうえでのものだった。最後はそのお客様に気持ちよく帰ってもらいたい、大相撲を盛り上げていきたいという、一種のサービス精神から出たものだろう。VTRを見ると、「この会場で万歳三唱したい」という白鵬の言葉に、客席からは拍手が上がり、笑顔で一緒に万歳三唱をしている。それをとやかく文句をつける必要はないと、私は思う。

●垂れ流された“臆測”報道

 相撲ファンで、相撲エッセイ『のこった』(ころから)の著作もある作家の星野智幸さんは、この場面をテレビで見ていて、一緒に万歳三唱したという。星野さんはこう書いている。

「正当化はできない暴行事件や相次ぐ有力力士の休場等で、相撲はどうなってしまうんだろうという不安に耐えながら、それでも相撲の味方でいたい、という思いを強くして観戦していたので、白鵬の万歳に、相撲は大丈夫ですよ、きちんと立て直していきましょう、応援ありがとうございます、というファンへの強いメッセージを受け取った」

 もっとも、相撲のあるべき姿や理想の横綱像は人によって違うので、その範囲であれば、自由闊達に議論を交わすのは悪いことではない。しかし、こと刑事事件とのかかわりとなると、話は別である。先走った報道で人を犯人視し、後でそれが誤っていたことが判明した過去の経験から、何も学んでないのだろうか。

 なかには、少ない情報の断片を切り貼りし、間を想像で埋めて、あたかも見てきたようなストーリーを司会者が延々と語る番組もあった。そこでは、出演していたコメンテーターも調子に乗って、「(白鵬は)貴ノ岩が貴乃花親方の部屋にいるということだけでもイライラしていたのかもしれない。想像ですけどね」などと思わせぶりな発言をしていた。「噂」とか「想像」などと断れば何を言ってもいいというものではない。

 本件について、「(日馬富士以上に)白鵬に一番非があるという気がしています」などというコメントをマスコミ向けに発している“ご意見番”もいる。あるいは、「被害者の貴ノ岩は白鵬らにとって目障りな人間で、事件も白鵬が日馬富士に目配せしてやらせた」などと書いているメディアもある。これなどは事実と異なっていれば、名誉毀損で訴えられてもおかしくないレベルだ。

「週刊文春」(文藝春秋/12月14日号)は、「『貴ノ岩暴行』本当に悪いのは誰だ? 」という緊急アンケートの結果を公表しているが、1位が白鵬で、2位が日馬富士、3位が貴乃花だった。事件当日の事実すら明らかにならないうちに、誰が「本当に悪い」かを問うことに、いったい何の意味があるのか不明だ。アンケート結果は、さまざまなメディアの白鵬バッシングの“成果”にすぎないのではないのか。

 本来は、事実が明らかになり、それに応じた責任の取り方がなされ、再発防止の対策がとられるべきだろう。しかし、いまだ事実が明らかにならないうちから、いわば事実を置き去りにしたまま、背景事情と空想で責任追及が展開されている。

 日馬富士の引退表明も早すぎた。事の経緯や被害者の傷害の程度次第では、違った責任の取り方もあったかもしれない。

 今回の事件でメディアが最も問うべきは、貴乃花と白鵬の確執とか、「横綱の品格」云々よりも、角界の暴力的体質が今なお残っているのではないか、という点だろう。

●角界に今も残る“暴力的体質”

 07年に時津風部屋で17歳の新弟子が親方や兄弟子から受けた暴力によって死亡した事件以降、改善策はとられたが、それでも角界から暴力的体質がなくなったわけではないようだ。

 11年1月には、芝田山親方がモンゴル出身の弟子に暴行したとして書類送検され起訴猶予処分となった。この年には、「週刊新潮」(新潮社)が「弟子20人が夜逃げした『鳴戸親方』角材殴打『狂気の暴力』」と報じ、春日野親方が弟子3人をゴルフクラブで殴りつけた事件も明らかになった。さらに昨年3月には、兄弟子の暴行で左目をほぼ失明したとする元力士の訴えに対し、東京地裁が暴行の事実を認め、芝田山親方と兄弟子に3200万円の損害賠償を命じる判決を下した(親方・兄弟子は控訴したが、高裁で昨年11月に和解)。

 11月14日の日経新聞電子版は、角界の暴力問題について、こう書いている。

「時津風部屋の事件以降は各部屋の稽古場から竹刀が撤去されるなどしたが、相撲界には暴力的な体質がなお残る。不始末をしでかした付け人に言葉ではなく体を使って“指導”する力士。元気な下位力士を痛めつけることに主眼を置いたような、荒々しい技を見舞う上位力士もいる」

 上下関係の厳しさとあいまって、下位の力士は“体で教える”指導に感謝しなければならず、その後上位に上がった時には、過去に自分が受けたのと同じようなやり方で若い者を“指導”することになり、暴力は連鎖する。日馬富士も、そうした環境の中で17年間を過ごし、横綱まで上り詰めた。過去には、彼自身も先輩力士から“体で教える”指導を受けたこともあるのではないか。問題発覚直後の彼の口から、貴ノ岩に対する謝罪の言葉が出ず、事件の原因を問われて「弟弟子を思って叱ったことが……行き過ぎたことになってしまいました」という説明になるのも、先輩から後輩への生活指導には暴力が伴うのが当たり前の感覚だったことを示している。

 事件の翌日、貴ノ岩のほうから日馬富士に謝罪したというのも、先輩から後輩への暴力的指導をありがたく受け入れる風潮に、被害者を含めた角界の人たちが馴染んでいたことの証左ではないか。貴乃花親方が断固として警察沙汰にしなければ、当事者の“和解”でうやむやに終わっていただろう。

 先輩力士に厳しい稽古をつけられて後輩が育っていくという相撲の世界であっても、稽古場以外において“体で教える”体罰を絶ちきる最低限のコンプライアンスを打ち立てることは必要で、それがなければ、また暴力は繰り返されるのではないか。

 そのような業界に、親は我が子を進ませたいと思うだろうか。ノンフィクション作家の高橋秀実さんの著書『おすもうさん』(草思社刊)によれば、力士の入門動機を尋ねるアンケートによれば、6割が「周囲の勧め」だという。先輩による体罰が横行する世界への入門を勧められても、本人や家族がその気になるか、大いに疑問だ。ただでさえ少子化が進む時代、これでは角界の明日は明るくないのではないか。

 競技は違うが、箱根駅伝を3連覇した青山学院大学の原晋監督は、こう言っている。

「僕は今、ライバルは早稲田でもなく、陸上界のどこのチームでもないと思っています。ターゲットは野球界やサッカー界。このままだと、元気のいい身体能力が高い子は、みんなサッカーや野球に流れてしまう。そうなると、陸上の競技人口は減り、競技レベルも下がる」

 格闘技系では、ほかに柔道やレスリングなど、オリンピック種目もある。そういう中で、暴力をなくし、角界を素質ある若い人たちにとって魅力ある世界にすることは、相撲が大事なら、もっと力を入れて取り組むべきではないか。

●ナショナリズムが排外主義に

 一連の白鵬叩きの中には、排外主義のにおいも漂う。白鵬が巡業先で背中に「MONGOLIAN TEAM(モンゴリアン・チーム)」と書かれたジャージを着ていたことが報じられると、ツイッターには「相撲は日本の国技」「白鵬は引退してモンゴルに帰れ」「神事である相撲は日本人だけでやるべき」「日本の国技にモンゴル人はいらない」などという言葉が飛び交った。

 こうした論者は、やたら相撲が「国技」であることを強調するが、「国技」とはなんだろう。国旗や国歌のように、「国技」を定めた法律があるわけではなく、文部科学省などの国家機関によって認定されているわけでもない。相撲が国技である根拠を示した古い文献もない。前出の『おすもうさん』によると、相撲が国技とされたのは、1909年(明治42年)に東京・両国に相撲の常設館を設立した際、その命名を相談された作家の江見水蔭が「国技館」と名付けたことが始まり、という。建物の固有名詞が、「いつの間にか抽象名詞に変わって(中略)すっかり定着してしまった」(同書より)とのことだ。

 また読売新聞電子版に掲載されている『ものしり百科2』も、「大相撲が国技と呼ばれるのは?」との問いに、同様の説明をしたうえで、こう書いている。

「『国技』を、その国で発祥し歴史が古く伝統文化とも深く結びついているという観点から捉えると、『柔道』や『空手』『なぎ刀』『剣道』なども『国技』と称するに値するでしょう。(中略)一方『国技』を、いま現在、国民の間で人気が高く競技人口も観戦者も多いスポーツと考えると、『野球』や『サッカー』は『国技』に該当するスポーツということになりますね」

 そうした経緯や言葉の多義性を無視し、相撲のみを「国技」として神聖視する発想は、ナショナリズムと結びつくと、外国出身力士を差別するような排外主義に行きやすいのではないか。

 それは、今回の事件で突発的に起きた現象ではない。今年3月の春場所で、立ち会いに変化を見せたモンゴル出身の大関・照ノ富士に対し、場内からブーイングが起こり、その中には「モンゴルに帰れ」という、明らかに差別的な野次もあった。ところが、日本相撲協会は「事実確認ができない」などとして、対応を取ろうとしなかった。

 どんな競技にも、差別や排外主義が入り込む余地はある。問題は、そうした現象が起きた時に、どう対応するかだ。

 相撲協会と対照的なのが、サッカー界だ。2014年3月に浦和レッズのサポーターがスタンドのゲート入り口に「JAPANESE ONLY」(日本人以外お断り)の横断幕を掲げた。それを放置していたクラブ側の責任も問われ、Jリーグ始まって以来の無観客試合の制裁が科された。

 その後も、たとえば横浜マリノスのサポーターが人種差別的な行為に及んだ際には、Jリーグは同クラブに制裁金を課し、クラブはそのサポーターを無期限入場禁止処分にした。また、今年11月浦和レッズの選手のSNSに人種差別的な書き込みがなされた際には、同クラブはホームページで「私たちは、私たちのファミリーである選手をいかなる差別からも守ります」と宣言し、差別撲滅の取り組みを推進していくことを約束した。

 相撲協会はなぜ、このような「差別は絶対に許さない」という毅然とした態度を取らないのだろうか。暴力にも反応が鈍い同協会は、差別にもまた無頓着すぎる。差別を放置しておくことは、差別に加担することにほかならない。

 同協会は、今月20日には一連の問題の最終報告をまとめるという。関係者への処分もなされるのだろうが、協会自身の対応の鈍さも自覚してほしい。角界の体質を改めていく対策は、まず協会自身が次のような宣言をするところから始めるべきだ。

「私たちは、日本相撲協会に所属する力士をいかなる暴力からも、差別からも守ります」

(文=江川紹子/ジャーナリスト)