越前屋さんの企画の主役は“街”であり、“道行く人々”だ(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第19回。

越前屋俵太。1980〜1990年代にテレビを見ていた人には、印象深い名前ではないだろうか? かく言う筆者もとても好きな芸能人だった。

インタビューに入る前に、若い世代の人たちのため越前屋さんの経歴をさらっと振り返りたい。

1983年、関西ローカルの深夜番組「TV-JACK」(朝日放送)で道行く人にありとあらゆる人におせっかいを仕掛けるというコーナーがブレーク。特に「通行人にいきなりシャンプーする」という企画が受けて一躍、有名になった。

1985年、ビートたけしさんの看板番組「OH!たけし」(日本テレビ)でも、街頭でムチャをする企画で好評を得た。

1988年、現在も続く人気番組「探偵ナイトスクープ」(朝日放送)は立ち上げから参加。番組の基盤を作った。ニワトリの帽子に牛柄の服という奇抜な衣装を覚えている人も多いのではないだろうか?

そのほかにも「世界ふしぎ発見!」「ギミア・ぶれいく」(ともにTBS)、「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)、「俵太の達者でござる」(福井テレビ)などさまざまな人気番組に出演する人気芸能人だったのだが、2000年代に入って、ぱったりテレビで姿を見ることがなくなってしまった。

2017年の4月、筆者は書店で『想定外を楽しむ方法』(KADOKAWA)という本を見つけた。「越前屋俵太」という名前を見ただけで、胸に懐かしさがこみ上げてきた。慌てて購入して、読んだ。越前屋さんがデビューしてから35年間の、怒濤の歴史を書き下ろした本だった。

完全な“フリーランス”だったことを知らなかった


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従前からファンであるようなことを言っておいて失礼な話だが、著書を読んで初めて越前屋さんが完全な“フリーランス”であることを知った。芸能事務所(プロダクション)に所属せずに芸能活動をしてきたのだ。そんなフリーランスであるなら本連載で追っているテーマと合致する。話を伺いたいと思い連絡を取った。

そして、京都にある越前屋さん事務所に伺った。

実際にお会いした越前屋さんは、テレビで見るより渋くて迫力があるように感じた。今月で56歳となる。

さっそく子ども時代の話から聞いた。

「小学校の頃は、クラスで人気者になりたい人でしたね。関西では小学時代は『おもろい』が圧倒的に大事なんですよ。すこぶる活発な子どもでした」

明るい普通の小学生だけど、派閥を組むのは嫌いだった。クラスにはヤンキーも、貧乏人も、頭のいいやつも悪いやつもいたが、「クラスはみんな友達であるべきだ」と頑なに信じていたという。

中学生になると「教師っておかしいよな」と思うようになる。ヒステリックだったり、差別的言動を繰り返したりする教師を見て、「大人って悪いよな」と思う。

教師は「ウソをつくな」「イジメはするな」って言ってるけど、自分たちはウソをつくし、イジメにも加担している。

クラスのみんなは誰も文句を言わなかったが越前屋さんだけは許せなかった。1人で先生に歯向かい、職員室で泣きながら戦っていた。

要領がよかったから受かっただけ

私立高校の進学コースに通ったが、勉強はほとんどしなかった。だが、まず合格できないと学校側に言われていた関西大学を受験して、あっさりと合格してしまう。

「日本の受験自体は本当に頭のいい人が受かるシステムになってないから。パズルやクイズみたいなレベルで、要領がいい人だったら『だいたいこの範囲が出るから、ここを集中的に覚えればいいな』とかわかるじゃないですか。僕は要領がよかったから受かっただけです」

そして関西大学に通っている時に、テレビ関係のアルバイトをすることになった。プロデューサーや放送作家が居並ぶ企画会議に参加する。

学生にもかかわらず、思っている意見をドンドン言った。最高権力者であるプロデューサーにも逆らいながら、企画を出した。

「会議の席で堂々と発言できたのは、あこがれて入ったテレビの世界が全然面白くなかったからですね。最初は関係者に気に入られたら、就職できたりするんじゃないか?とか思ったけれど、すぐにどうでもよくなった」

正直、「要領よくやれば就職できるぞ」という予感はあった。ただ「要領よくやっている自分」が面白くなくて嫌いだった。

気に入られようが気に入られなかろうが、どうでもいいと思った時点で欲がなくなった。

「思考が純粋に『おもろいか、おもろないか』だけになりました。だからプロデューサーにも遠慮なく発言できた」

発言をしているうちに「だったらお前が出演しろ」ということになり、越前屋さん自身がテレビに出ることになった。

「TV-JACK」は関西ローカルの深夜番組とはいえ、絶大な人気を誇る島田紳助さんの看板番組である。視聴者は多かった。

そして冒頭に書いた「通行人にいきなりシャンプーする」コーナーは話題になり、関西限定とはいえ一躍有名人になった。

以降、越前屋さんの仕事の舞台は“街”が中心になった。今では街ロケものの番組は珍しくないが、当時は斬新だった。

なぜ街でのロケにこだわったのだろうか?

「ロケだけにこだわっていたわけではなくて、おカネをかけたスタジオでの撮影にも興味はありました。ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』(TBS)の世代ですからね。ただ大阪ローカルですからおカネがない。残念ながら大掛かりなセットは作れなかった」

セットが作れないなら、街に出たらいいと気がついた。街に出れば、電信柱もあれば、交差点もあり、公園もある。

「街に出たら、何でもありだ!!」

と思った。

僕は、スタジオを捨てた


筆者は、著書『想定外を楽しむ方法』を読んで初めて越前屋さんが完全な“フリーランス”であることを知った(筆者撮影)

「アマゾンが店舗を放棄して世界最大の本屋になったじゃないですか。ウィキペディアは編集権を放棄して世界最大の辞書になった。僕は、スタジオを捨てたんです。スタジオを放棄することで世界最大のスタジオを手に入れたんですね」

越前屋さんの企画の主役は“街”であり、“道行く人々”だ。

「あくまで街が主役で、街を面白く見せるために自分が出演せざるをえなかった。街に普通のお父さんがいて、お父さん自身はおもろいことする気は全然ないんだけど、僕という要素が加わることで、お父さんが面白くなるのではないだろうか? なんて考えるわけです」

若者を中心に、越前屋さんの街ロケは受けた。番組の放送から34年が経った今でも、当時の視聴者たちが「死ぬほど笑った」と語っているのを耳にする。

「若造がどれだけ企画会議で偉そうなこと言ったって、結果が出なければ意味がないんだけど、たまたま結果が出ちゃったんです(笑)」

ただ結果は出ているが、かなり激しくケンカもしているので、制作会社内の雰囲気はよくなかった。プロダクション(芸能事務所)に所属していない越前屋さんはもちろん誰からも守ってもらえない。

「おいしいモノ(アイデアや手柄)は取り上げられて、アメ玉(小遣い程度のギャラ)を渡されて後はほかされるんです。普通は悔しいと思うのだろうけど、自分はそもそもどうでもいいと思ってるから、1回5000円ももらえるいいアルバイトだったなって思いましたね。さすがに『君はもういらないよ、さようなら』って言われた時はちょっと悔しかったですけどね……。『テレビってそんな世界ですか? しょうもな!!』って開き直りました」

しょせんテレビも大人の世界、実力じゃないんだ……と痛感した。ひたすら面白さだけを突き詰めていく世界ではなく、組織論がまかり通るサラリーマンの世界だと思った。

「でも、自分としては自信がつきました。僕がおもろいと思ったことをやったら、おもろいと思ってもらえたからね」

もうテレビに未練はなかった。

大学に戻って広告代理店に入って広告を作りたいな……などと考えていた。

しかし、そんな折、ビートたけしさんの看板番組「OH!たけし」から出演依頼がきた。ビートたけしさんの番組を任されたディレクターが、たまたまロサンゼルスで越前屋さんのテレビ番組を見て「なんだこいつは? 使ってみたい」と思い、自身の権力を使って新番組にねじ込んだのだ。

ビートたけしさんの番組の出演者は、ビートたけしさん自身が出演者をピックアップしていた。たとえば石倉三郎さん、小林聡美さん、もたいまさこさん……などすでにたけしファミリーが形成されていた。そこに何の縁もない越前屋さんをねじ込まれるというのは、異例中の異例で、戸惑っているスタッフもいた。

「テレビに出たい」と思っている人から見たら、信じられないくらいトントン拍子だ。だが越前屋さん自身は特にそう感じてはいなかった。

「トントン拍子だとはまるで思ってなかったですね。そもそもテレビタレントも芸人も目指してなかったので。『今いちばんおもろいことはなんだろう?』とだけ真剣に悩んでました。本に書いた時に客観的に自分の半生を見て、ああトントン拍子だったんだなって初めて気がつきました(笑)」

小ざかしいヤラセなら、やりたくない!

そして1988年、現在も人気が高い「探偵ナイトスクープ」が始まる。

現在は小説家として活躍する百田尚樹さんが、放送作家として越前屋さんに会いに来た。

企画書には「視聴者から送られてきた依頼を、探偵が解決する番組」とだけ書かれていた。越前屋さんはひと目で、これは難しい企画だな、どこかウソをつかないと成立しない番組だなと見抜いた。

百田さんはいぶかしむ越前屋さんに、

「僕もウソは嫌です。たとえば『何かを見つけてほしい』という依頼があったとき、結果的に物が見つかる見つからないは問題ではなくて、探偵がどうやって見つけていくか、そのプロセスを楽しむ番組にしたいんです」

と説明した。理屈としてはわかる。だが、それはあくまで放送作家としての理屈だと思った。実際にロケをする側になって考えたらできっこない。たとえできたとしても時間がかかる。

「『どうせ小ざかしいヤラセをするんでしょ?』とケンカを売りました。僕はガチでしか番組を作りたくないので、正直やる気なかったんです」

百田さんは、

「わかってます。僕もそういうヤラセはしたくない。したくないから、ほかでもない俵太さんに頼んでるんです」

と言った。

「そう言われちゃって、ちょっとうれしくなってしまったんだよね。うまく乗せられてしまいました(笑)」

越前屋さんは「探偵ナイトスクープ」に参加するのに2つの条件を出した。1つは「ヤラセをしない」ということ。そしてもう1つは「吉本興業の芸人さんを使わない」ということだった。

「吉本興業の芸人さんは、その人がとてもおもしろいです。それはすばらしいことだけど、なんでも自分の面白さに引きずり込んじゃうところがあるんです。街ロケでもいつの間にか、芸人さん自身を主役にしてしまう。そうじゃなくて『やっていることの純粋なおもろさ』を見せないといけない。その純粋なおもろさに人は引き付けられるんです」

どうせ「そんなのは無理です」と泣きを入れてくると思ったが、なんとその2つの条件は通った。そして初代の探偵局員は、嘉門達夫さん、槍魔栗三助さん(現在の生瀬勝久さん)など吉本芸人以外のキャストで始まった。

「最初のうちは全然おもろないですよ。ガチでやってるから当然『見つかりませんでした』ってオチもある。ヤラセになれてる視聴者からしたら『なんだ見つからないのか!!』って腹も立つ。それが如実に視聴率に響きました」

1年はとにかくディレクターと一緒に悩んで考えて、試行錯誤をし続けた。

50本150ネタを作ったところで、なんとなく面白く番組を撮る方法がわかってきた。そしてその頃には、そこそこの人気番組になっていた。

「人気番組になると大手プロダクションがタレントを送り込んできます。約束はうやむやになり芸人さんが探偵として入ってきて、正直やる気なくなってしまいました。まあ、最初からこうなるというのはわかってたことなんだけどね(笑)」

腑に落ちないところもあったが、「探偵ナイトスクープ」に出演するようになって“越前屋俵太”という名前にメジャー感が出たのは確かだった。

当時、「街行く一般の人をつかまえて面白く見せる」というのは越前屋さんにしかできない芸当で、さまざまな番組で引っ張りだこになった。若者中心に人気は上がり、大学の文化祭に呼ばれる本数もトップクラスになった。

番組の人気は続いたが、番組開始から7年経った1995年、越前屋さんは「探偵ナイトスクープ」を辞めることにした。

「視聴率取れたから番組としてはもういいわけです。営業も取れるし、制作陣は守りに入ります。そんなぬるま湯に僕がそこにいる意味はない。辞めた後のことは何にも決まってなかったけど、ここにいてはダメだなって思いました」

「探偵ナイトスクープ」は自分が頑張って手に入れたキャリアだ。でもそこにしがみついてはダメだと思う。しかし簡単に捨てられる物ではない。とても悩んだ。

自分にとっていちばん大切なもの

辞めるきっかけになった出来事は1995年の1月17日に起きた、阪神・淡路大震災だった。

「あの時、神戸の街は崩壊してなくなったんですよね。友達も死にました」

テレビに映るがれきを見て、もちろんかわいそうだと思った。しかし、それ以上に人のエネルギーを感じた。

「崩壊した街の人たちががれきを手でかきわけながら、竈(かまど)などを作って生活している様子が映し出されているのを見て『すべてをなくしたところから立ち上がる人々のエネルギーってなんてすごいんだろう』って思いました。それは、当時の自分にいちばん足りないものでした」

自分の中にも震災を起こさないといけない。

自分にとっていちばん大切なものはなんだろう? それは7年かけて作ってきた「探偵ナイトスクープ」という番組だった。

そして越前屋さんは地震から2カ月後の、1995年の3月に番組を辞めた。

後先考えず辞めたのだから、当然ヒマになった。どんどん営業の数も減っていく。どうしようかな?と思っていたら、「世界ふしぎ発見!」のプロデューサーから電話がかかってきた。番組に、ミステリーハンターとして出演してほしいと言われた。

そのプロデューサーは前から出演してほしいと思っていたらしいのだが、「探偵ナイトスクープ」が引っかかっていたという。

「『探偵ナイトスクープに出てるのイメージよくないよ』って言われて。あの手の関西ローカル番組が、関東の人間にとって印象がよくないのはわかっていたんですが……『そんなに面白くないですか?』って思いましたね(笑)。何がどうなって仕事が来るのか、本当にわからないもんです」

渡りに船で仕事を続けたが、それでもやはり徐々に仕事は減っていった。

芸能界とプロダクション

仕事がなくなる大きな理由の1つは、越前屋さんがプロダクションに所属しないフリーランスだということだ。

フリーランスの芸能人は非常に珍しい。特にお笑い芸人は、そのほとんどが吉本興業や松竹芸能などの大手プロダクションに所属している。

なぜ、越前屋さんはフリーランスにこだわったのだろうか?

「芸能界でプロダクションに入らないとうまくいかないのは最初から百も承知でした。それでも、自分のやり方でどこまでいけるんだろう? そういう戦いを挑んだんですよ」

島田紳助さんには、

「芸能界はレースみたいなもの。みんなレース場のコース内で速さを競っている。お前は確かに速いけれどコースの外を走っている」

とたしなめられた。

「もちろんわかってるんですけどね。でもコースの外をすごいスピードで走ってるヤツ、カッコイイじゃないですか。僕だったらファンになる。ただコースの外を走っていてもおカネは儲からない」

ミュージシャンならインディーズでもおカネを稼ぐことができる。CDを売って直接おカネを手に入れることができるからだ。

しかしテレビタレントの場合、財布は番組プロデューサーが握っている。どれだけ頑張っても、プロデューサーに嫌われたらおカネは稼げない。視聴者は、どれだけ笑わせてもおカネを払ってくれないのだ。

越前屋俵太は、企画会議でケンカをするし、ヤラセも嫌う、めんどくさいタレントだ。プロデューサーに嫌われることが多い。

逆に、そんな状況でも20年近くもテレビに出続けることができたのは、すごいことなのではないだろうか?

「確かに奇跡的ですよ。でもそこにはカラクリがあります。芸能界で事務所に入らないのにテレビに出れてるっておかしいんです。絶対にありえないことなんです。ということは、裏でなんらかの力が働いていたってことなんですよ」

大橋巨泉さん、ビートたけしさん、黒柳徹子さん、草野仁さんなど、芸能界で本当に力がある人が「俵太、面白いんじゃないか。使おうよ」と推してくれたから、テレビに出れていたのだろうと、越前屋さんは分析する。

「なんでそう思うかっていうと、現場に行くと露骨に嫌そうな顔されるからです。口には出さないけど『僕たちはあなたを認めていないよ。○○さんが言うから出してるだけだぞ』っていう雰囲気が満ち満ちていました」

普通の人はどこかで方向転換して、芸能事務所に入るだろう。芸能事務所に入っても、おそらくほとんどの視聴者は気づかない。現に筆者は、越前屋さんがフリーランスだとは本を読むまで知らなかった。

でも、越前屋さんにはそれはできなかった。最後の最後までフリーランスで突っ張っていた。

そして越前屋さんの心は、折れた。

自問自答の日々

「命綱もつけずにロッククライミングしてる感覚でした。みんなにすげえって言われて調子に乗って登ってたんだけど、どんどん岩壁はオーバーハングしてしんどくなってくる。思わず下を見たらビビっちゃった。とんでもない所に1人でいるのに気づいちゃった。いったんビビったら、もう下がることも上がることもできなくなった」

そして、越前屋さんは山にこもった。

これは比喩ではなく、リアルに山にこもったのだ。

「このころの話をシビアに話そうと思えばとてつもなく深刻になるんだけど……。明るく話すなら、タイガーマスクが必殺技を手に入れるために、山ごもりをして修行する、そんなイメージでした」

山ごもりをするマンガのキャラクターは大体2〜3日で必殺技を手に入れて山から下りてくる。しかし越前屋さんは下りてこなかった。そしてそのまま山に住んだ。

「自問自答の日々でした。毎日毎日、内省していました」

人間は調子が悪くなると悩む。調子がいいときは悩まない。「なぜダメだったんだろう?」「なぜケンカしちゃったんだろう?」など失敗に関しては悩むけれど、「なぜ自分はうまくいったんだろう」「なんで面白くできたんだろう?」とは悩まない。

越前屋さんは、そういう普通の人は悩まないところまで追求して、省みた。

そんな自問自答の日々は、なんと5年間も続いた。

「5年って決めてたわけじゃなくて、1年か5年か10年か、何年になるかわからずこもったんですよね。だから、長さがわからないトンネルに入っていくような不安さがあった」


山ごもりをするマンガのキャラクターは大体2〜3日で必殺技を手に入れて山から下りてくるけれど…(筆者撮影)

最初は不安だった。そしてそのうちどうでもよくなってきた。そして最終的には楽しくなってきた。

「その楽しさはランナーズハイみたいなもんです。気持ちは楽しくなってるけど、体は疲労でボロボロになっている。僕の場合は山にこもり続けてカネがなくなった。飯も食えなくなった。だから山を下りたんです」

山を下りてきて「ついにやる気になったんですか?」と言われたが、そんなにかっこいいものではなかった。

おカネがなくなったから、働かなければならなかっただけだ。

何をしようか迷っていると大学の教員に誘われた。先生という職業は、中学時代から越前屋さんにとっていちばん嫌な職業だった。

「先生なんてクソ食らえだったよね(笑)。偉そうに人に教えてどうするんだって。でも、それでもやったことないからやってみようかと思った。そうして気づいたらもう10年も大学で教えてる。関西大学、京都大学、和歌山大学……『なんでそんなに大学に行くの?』ってくらい授業をしています」

教えるのは嫌だったが、ならば逆に生徒から教わればいいと気づいた。

「ゆとり世代と呼ばれている彼らは、日本をどう思っているのだろう?」

「若い世代は、SNSをどうとらえているのだろう?」

教わりたいことは無限にあった。

「今の若い人たちは、とても共感したがっているし、それぞれが多様化しているよね。僕は『面白いってどういうことだろう?』っていうのを教えているんだけど、僕らの頃はメディアも統制されていて『面白いとはこういうことです』っていうトップダウンがありました。でも今はSNSや個人サイトなどの影響もあって『私にとってはこれが面白いんです』って言える時代になったと思いますね」

越前屋さんは、ユーチューバーたち(動画サイト・ユーチューブに動画をアップして収入を得る人たち)が既存のマスメディアとは関係なく、自分で面白いと感じる動画を配信しておカネを稼いでるのはとても正しいと思う。

「誰かがやってることは、やらなくていいよね。僕は『あの人にできるなら、僕にもできるんじゃないかな?』とは思ったことがない。ビートたけしさんのことは大好きだったけど、ビートたけしさんになろうとは思わなかった。やっぱり、唯一無二にならないといけない。ド素人でも、自分がオリジナルだって思った瞬間からプロになれる」

“決めてしまう”と可能性は極端に狭まってしまう

越前屋さんには学生たちに言いながら、つねに自分にも言い聞かせている言葉があるという。

「不安だとつい“決めよう”としてしまうけど、“決めてしまう”と可能性は極端に狭まってしまう。“決めず”にいることはとても不安でドキドキすることだけど、でもその代わり可能性は無限に広がっていくんです。この感覚を大事にしてほしいと思う」

世の中に送り出した生徒はすでに7000人を超えている。慕ってくる生徒も少なくない。

「のんきに先生をしてる場合じゃないぞ、とも思うんですけどね(笑)」

最近ではいろいろなところで「復活するんですか?」と聞かれるという。ただそもそも引退したつもりもなかった。

「引退というのは世界的に活躍したスポーツマンとか、たとえば上岡龍太郎さんみたいに一時代を築いたような方が言うようなことで、僕なんかはそこまで認められてないので引退なんておこがましいです」

そもそも越前屋さんが引退したという話は、大阪のラジオから広まったデマだったという。ただ、事実上引退していたのには変わりはない。筆者をはじめ、復活してほしいと思っている人は、少なくない。

「僕は、バンドマンとかコンビ芸人などを見て、楽しそうだなと思ってうらやましかったんですよ。俺はいつもピンだし寂しいな、って。でもこの頃、本当に越前屋俵太はピン芸人だったのかな?と思うようになりました」

越前屋さんが、街で取材をするときにはいつも隣に人がいた。路上でシャンプーをしたおじさんも、公園で話をしたおばあちゃんも、その瞬間瞬間は越前屋俵太とコンビだったんじゃないだろうか?

「僕は大勢の相棒たちに相談せず、勝手に解散してしまってたんだと思う。引退じゃなくて解散。だったら復活ではなくて再結成したいと思う。越前屋俵太再結成ですね。1回でも僕が面白いと思った人たち、そして初めて会う人たち、一緒に面白いことやりましょう!! 今はそんな気持ちですね」

越前屋さんが戻ってきてくれるのはとてもうれしい。まだどのような形で表現をするのかは決まっていないが、それでもきっとおもろいはずだ。再結成した“越前屋俵太”を心待ちにしたい。