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●「摩季A」が「摩季B」を俯瞰する作詞論

10月25日、東京アメリカンクラブで公益財団法人ボランティア団体「メイク・ア・ウイッシュ オブ ジャパン」の25周年記念パーティが開催され、テーマソング「Make A Wish」を無償提供した歌手・大黒摩季が表彰された。「メイク・ア・ウイッシュ」は、3歳から18歳未満の難病と闘う子どもたちの夢を叶え、生きるちからや病気と闘う勇気を応援するボランティア団体。アメリカ国内及び、プエルトリコ、グアムなどに69拠点があり、39カ国の支部で活動している。

大黒摩季 撮影:宮川朋久

大黒は、「ら・ら・ら」「夏が来る」「熱くなれ」などのヒット曲のほか、長沼中学校の校歌やスカイマークの応援歌など依頼を受けて提供してきた曲も数多くあるが、これらは制作過程において決定的な違いがあるという。「夢」や「願い」を応援することは、歌手としてどのような意味を持つのか。

彼女が1999年に出版した著書『ありがとうなんて絶対言わない』(祥伝社)。5つのテーマに沿ってデビューから振り返り、「現実」「コンプレックス」「恋愛」「孤独」に続いて、「夢」で締めくくられている。「夢を叶えるためには『自分の地図を書く』こと。そして、『自分の地図を書く』ためには、自分の声を聞くこと」。病気療養で2010年に活動を休止してから2016年に復帰した大黒は、同書から18年の歳月を経て、どのように「夢」を見据えているのか。「またマニアックなもの持ってきたね!」と同書を懐かしそうに笑い、インタビューがスタートした。

○ミュージシャンは「何もない」存在

――「メイク・ア・ウィッシュ」は、「夢をかなえる」がテーマとなっています。そこで今日は、1999年に出された著書『ありがとうなんて絶対言わない』をもとに話をうかがっていきたいと思います。18歳で札幌から歌手を目指して上京、その後の紆余曲折が克明につづられていました。

その本はレアですよ(笑)。

――(笑)。さきほど壇上での感想スピーチを終えたばかりですが、表彰されて率直にどう思われましたか?

皆々さまの貢献と比べると、私は何をもって表彰されたのか未だによく分かってないんですよ。音楽の仕事って、「繋ぐ」以外に何もないので。好きも嫌いも関係なく、とりあえず「メロディー」という世界共通のもので「繋ぐ」。だから、表彰されたことが一体どのような意味を持つのか、細かく説明できてしまうと変だと思うんですよ。「Make a Wish」という曲を提供して、それをみなさんに歌っていただいたことで少しは貢献できたのかな。

さっきね、小さいお子さんと……3〜4歳ぐらいかな? パパが来て、「『ら・ら・ら』聴きながら、がんばってます。今は安定していますが、この子、小児がんなんです」と声を掛けられて。でも、そういうことなんですよね。私は命を救えるわけではない。生活を支えられるわけでもない。よくミュージシャンはカリスマ的なポジションになると勘違いしがちなんですけど、実は「何もない」存在なんです。

もともと、私は自分を救いたい人。そのために「もう一人の大黒摩季」が書いているようなものなので。「何かを訴えかけたい」とか「誰かのために」とかではないので、逆にもらってばかりなんです。だから、表彰された理由も今ひとつピンとこないのかもしれません。「Make a Wish」という応援賞なのかな? 曲を作ってくれてありがとう賞(笑)。

――大黒さんは今年でデビュー25周年を迎えました。「メイク・ア・ウィッシュ」も同じ25周年。運命的なものを感じますね。

そうなんですよ。びっくりしました。本当にドンピシャの同級生。私が92年5月、「メイク・ア・ウィッシュ」が12月。きっかけは、『アロハガール』(07年9月放送)というテレビ東京の番組のハワイロケで「メイク・ア・ウイッシュ」のイベントに出演することになって。もう10年ぐらい前のことかな。

――ブログには「ハワイの音楽に触れて自分の音楽性を再発見する」目的もあったと。毎年寄付金を集めている世界最大のロングボードコンテストに参加し、その年の寄付先が「Make A Wish Foundation of Hawaii」だったそうですね。

ズルいって思われるかもしれないけど、旅行気分もありました(笑)。みなさんもよくありますよね? 「リゾート気分で仕事」ではなくて、「仕事の気分でリゾート」みたいに。

もうお亡くなりになったんですが、北村(光餘子)さんというハワイの日系人DJのおばあちゃんがいて。日本人向けのFM(『KZOO』)をずっと担当されていました。ロケでお会いして、私のことをかわいがってくださいました。戦時中から音楽を聴き続けている、耳の肥えたおばあちゃん。「そういう一生懸命で真っ直ぐな部分を忘れないでね」と言ってくれた方でした。

当時、私がちょうどデビュー15周年を迎えたこともあって、節目に何か挑戦してみようと思って。それがサーフィンでした。かたや自分の中では、休み時間に北村さんのところに行って、音楽的にもリセットしたいと思っていて。

○「ピンチはチャンス」の救世主

――それから10年。「Make a Wish」を作ってよかったと思えるのは、どのような時でしたか?

曲を作ってよかったと思えるのは、曲が愛されているのを実感する瞬間だけなんです。「Make a Wish」は、やっぱりパシフィコ横浜(08年5月)ですかね。みんな「メイク・ア・ウイッシュ」のタオルを掲げてくれて。あの時は感動しましたね。

――どのような経緯でタオルを配ることになったんですか?

大野(寿子)さんと「メイク・ア・ウィッシュ」を一緒に世の中に広めようという話になって、「摩季さん! お願いします!」と言われたんですが、その時は自分の小さな会社で慎ましく生きていたので、できることといったらお客さまと一緒にライブで共有して、そのお客さまに拡散していただくことぐらい。もっと何かできないかと困っていた時、サーフブランドのクリムゾンさんがタオルを作ると提案してくださって、お客さま全員に提供してくれたの。「客席が「メイク・ア・ウィッシュ」のタオルで埋め尽くされたら盛り上がりますよね?」と言ってくださって。本当にありがたかったです。

――写真一枚だけでも、現場の盛り上がりと一体感がすごく伝わります。

はい。私がすごく大好きな人たちの思いが詰まってる。

「ピンチはチャンス」というか、困っている時にいきなり救世主って現れるんですよね。そこから思いもよらないアイデアが生まれたり。お仕事されててもそうじゃないですか? 困ったなと思った時に誰かがポロッと口に出したことで「いただき!」みたいな。それって最高に気持ち良いですよね。エンターテイメントの喜びって、ドキドキとワクワクだから。あの時も、予算もなくて「映像出してみる?」ぐらいのアイデアで行き詰まっていたんだけど、クリムゾンさんが「みんなでタオルを振ろう」と言ってくださったおかげ。本当に太っ腹! 私のファンの方々、すっごく純粋で純朴な方が多いので、サッカーの代表戦みたいな雰囲気になりました。

○数カ月かけてアンケートを熟読

――大黒さんは応援ソングを数多く手掛けてこられました。そうやって求められることについてはどのように感じていますか? 歌手活動をする上で、「誰かの心を動かしたい」という思いもあるのでしょうか。

全然思ってないです。自分を救いたいだけですから(笑)。不器用で意地っ張りで、そのくせちっちゃいプライドで意固地。好きな子に「好き」という前に、すごくかわいい子に奪われるとか。ゲリラ戦で最後に失敗するみたいな。踏んだり蹴ったりの人生なんですよ(笑)。それを、「摩季A」が「摩季B」に対して「こう考えればいいんじゃないの?」みたいに自分を俯瞰して。それは、「ダメな私」に対して。

そんなことを人に言われると、カチンと来るじゃないですか。だけど、自分から自分に向けたものであればそうはならない。それが私にとって日記や歌詞だったんです。だから女子が「私も」と共感してくれる。「自分のため」だから。女子がお腹にためてるものをワーッと、一緒に吐き出してるだけ。だから、「大黒摩季」なんて全然カリスマじゃなくて、隣のお姉ちゃんとか、妹とか地元にいる人。その程度の存在なんです。

――そういう親近感が共感につながる、と。

でもね。「親近感」は遠くから感じるもの。遠いとか近いとか。私は本当に一緒に並んでいる気持ち。だからライブをしてもそう。「お互い歳とったね」とか、「とりあえず今日のライブの目標は完走だね」みたいな感じだから(笑)。同じ時代を一緒に生きてきた同志。B'zの稲葉さんは、みんなが憧れる人で、王子でもあるし、ヒーローでもある。でも、私は「摩季姉聞いて!」みたいな立ち位置。

――応援歌などの提供曲とは、また違うわけですね。

例えば、「ゆうあいピック」(全国知的障害者スポーツ大会)で知的障害の子たちの応援ソング。私はその子の母になったこともないし、家族にもなったことない。だから私は、絶対に主観では書かないんです。すべて取材します。

――そうなんですか! そもそもの作り方が違う。

はい。フレーズは自分から出てくるけど。明治安田生命さんの社歌や長沼中学校の校歌は、そこで働く人、先生や子どもたちから何百人のアンケートをとるの。

――どのようなことを質問するんですか?

自分たちが毎日歌うにあたってどのようなものがいいのか。元気なフレーズがいいのか、癒やされるものがいいのか。それから、その街でいちばん好きな風景はどこか聞いたり、その学校の好きなところを聞いたり。逆に、「嫌いなところはどこですか?」とか。そういう膨大なアンケート結果を何カ月もかけて読み倒すんです。

――それだけ多くの声を聞いてしまうと、1つにまとめるのは相当大変そうですね。

でも、私が知ったかぶりで、ネットで調べたようなことでまとめた方が嘘っぽいと思わないですか(笑)? だからロケハンも4〜5回行きます。その街の人が好きな場所があれば、見て感じてみたい。昭和のおばちゃんなんですよ(笑)。

――なるほど(笑)。

触ってみなきゃ分からない。ネットで調べても情報しか分からないから。そこの空気は冷たい? 温かい? そういうのが気になってしょうがないの。

●病気療養から復帰後に気づいた変化

――ずっとそのスタイルなんですか。

そうですね。体感型。自分のことは何人たりとも入れないぐらい自分でやりますけど。頼まれたものに関しては誠意を持って。お見合い相手だって、みんなそうやって調べるでしょ?

――そうですね(笑)。

何なら探偵頼んじゃうよ(笑)。覚悟や責任って、そういうことだと思うんですよ。

――「Make A Wish」はどのように作られたんですか?

あれはその場で作り上げたもの。まずは「メイク・ア・ウィッシュ」の理念をサーファーの親分や、ボランティアのアメリカ人に中学英語ぐらいのレベルで必死に聞いて(笑)。英語バージョンと日本語バージョンを書きました。

バンドのメンバーにはアメリカ人とか、ハワイのロコと中国人のハーフとか、人種もさまざま。「日本人の摩季」みたいに、「〜人の」と続く歌詞にはそれを伝える意味もあって。

パールハーバー近くのスタジオ。それだけでグッと来ちゃいましたよね。歴史のこととか、みんなと繰り返し、毎日毎日話していくうちにシンプルな言葉だけど、どんどん濃縮されて。メイク・ア・ウィッシュの直訳だけど、「願うことからはじめよう」。みんなの言葉やしゃべってる時のフィーリングで、「こういうことなんだろうな」というのをポン、ポン、ポンと置いていったら線になった感覚。

フィーリングで作れる曲と、ヒアリングしてしっかりデータをとってロジックで作ってハートを織り込むパターンと。応援ソングの作り方にも細かい違いはありますが、結局最後はすべてハートが決め手にはなるんです。ハートとフィーリングで作って、後からロジックを足す場合もあるし。「Make A Wish」は、ほぼフィーリングのまま出来上がっちゃった。すごくヒューマンな曲ですよ。

○「自分と大黒摩季のギャップ」から18年……今は?

――過去の取材記事をいくつか読んできたのですが、「みんなが大黒摩季を作る」とおっしゃっています。今から18年前のこの本でもそのことが書かれていて、「自分と大黒摩季のギャップを楽しんでいる」とありました。今はいかがですか?

あれから18年経つと、ギャップが埋まっているのでどっちがどっちか分からない(笑)。ギャップを埋めようと努力していたらギャップが無くなっちゃって、どっちがどっちか分からなくなっちゃって、今は「家庭のある身の大黒摩季」だったりするから。外にいる私が個人の大黒摩季だったり。ライブのMCも、ここでしゃべってるような感じになっちゃったりして、スタッフからは「少しはカッコつけましょうよ」とか言われる(笑)。だからね、今はもうギャップないんです。ほぼね。

――楽曲作りにおいて、ギャップの有無はどちらの方が適しているんですか?

どっちなんだろう。私はギャップをご褒美だと思ってますけどね。みなさんもそうだと思います。例えば、鈴木ちゃんという女の子がいて、上司や周りが思っている「鈴木ちゃん」を演じなきゃいけない。そんなことは誰だってあると思います。リクルートスーツ着て、なんで毎日ヒールはかないといけないんだろうとか。上げ底のスニーカーの方が走りやすいのにとか。それでも彼女は、ここにいようとする。

でも、そこをウマイこと折り合いつけられないものかと。時折ヒールをはいて驚かれたり、時折上げ底で走って部下を引き連れたり。「そんな私でありたい」を続けると、気がついたらイケてる女になっていたりするもんじゃないのかなって。

――いつ頃にギャップが無くなったと感じたんですか。

病気が治って、去年帰ってきてからです。つい最近ですね。体の調子が戻ってきたの、最近だから。6年も普通の生活を送っていると、何がギャップなのかもわからなくなったというか。だから、周りに聞いたんですよ。大黒摩季ってどうやってたんだっけ?って。歌わない大黒摩季は、ただの人ですからね。八百屋さんにジーパンで行って、髪の毛束ねてると誰も気づきませんから(笑)。

――病気療養中、吉川晃司さんからオファーがあったそうですね。

そうそう。アルバムのコーラスを頼まれたんですよ。全然歌ってなかったから、「今までのような声、出ないと思います」と伝えたんですけど、「自転車は一生乗れるものだよ」と言われて。吉川さんにディレクションされているうちに、徐々に「大黒摩季」を思い出しました。

大黒摩季はハリがあって、地声が尖っていて、波形だとこれぐらいでみたいに全部説明してくれたんです。最後にビブラート大きくかけてとか。そうやって、「あっ! 大黒摩季に似てきたね!」って(笑)。

○「自分の地図」と「三点方式」の変化

――そんな裏話が(笑)。さて、「夢」に関連しての質問なのですが、著書には「夢を叶えるためには『自分の地図を書く』こと。そして、『自分の地図を書く』ためには、自分の声を聞くこと」。また、ご自身の夢については、「最終地点=自分の夢の最終目標」「現在の地点=今の状況」「その間の地点=最終目標までの小さな、そして近い目標」の三点方式で考えるとありました。今現在、この三点方式でどのような地図を描いていらっしゃるのでしょうか。

若い時はもっともらしいこと言うんですよ(笑)。難病のお子さんたちも含めると、計画的に目標の時期を決めるというのは切ない話ですよね。何年後と決めていても、必ずズレてしまうんだから。今の私ぐらいの歳になったら、ズレてもいいと思ってくる。好きでそっちを選んだ結果なわけだから。でも、遠回りでも望んでいれば遠回りじゃない。バックしていてもそっちの方に行きたければ、それは進行方向なわけで。向かい風といっても、後ろを向けば追い風。その先の方向を変えればずっと追い風だから。

――その状況の受けとめ方次第ですね。

はい。環境と運命は変えられないから、言葉を作り変えて、屁理屈にも似たポジティブが大黒摩季だと思っているので(笑)。言葉でその気になると今日の目線が変わる。目線が変わると、景色も変わってくるでしょ? 流されてるんじゃなくて、そこに飛び込んで流れてると思えば、「自分の意志」になる。そうすると、憎々しい人も減るじゃないですか? 人のせいにしたり、人を憎むと体に毒がたまりません?

――そうですね。嫌いな人でも良いところ見てみるとか。

はい。あの人のお陰で、いい人のことが分かったと思えばいいじゃない(笑)。すごいイヤなやつでも。三点方式の話もそうですが、脳みその「逆算的な考え方」は変わってないんですよね。自分がやりたいことを言っても、だいたいの業界人から「絶対に無理」という言葉が返ってくるんだけど。

――最近、そういうことはありましたか?

「Lie,Lie,Lie」というシングルのビッグ盤、A4盤を作ったんです。別名「裸眼盤」。小さい文字が見えなくなるんですよ、本当に。老眼鏡かけてもなお、文字が小さすぎて見えない! みんなの大事なクレジットが、ただの線に見えちゃう。バックコーラスをやっていた頃、私たちの時代は自分のクレジットが載っただけで、次のレートが上がるんですよ。クレジットって、すごく大事なことなんです。だから、次に自分が業界に戻る時、「私のためだけでもいいから裸眼盤を作る」と心に誓っていて、本当に作ったんです。

――周囲は当然反対するわけですよね。

でも、それを押し切って。店頭も場所を取ってしまうから、あまり好まれないみたいで(笑)。ビッグ盤1枚でCD4枚分ぐらい置けるから、嫌がられるんですよね。でもね、激しく売れ行きが悪いわけでもなく、中高年のファンの方々が喜んでくださいました。「ほら、ご覧なさいよ!」です(笑)。

デザイナーやカメラマンも、「摩季姉、最高!」って喜んでくれました。だから、やってできないことってないんですよね。めげてしまう人は、説明するのが面倒臭いだけだと思う。私は分かってもらえるまで説明します。諦めてるんじゃなくて、めげてる。私はその点、あきらめの悪い女なので。

――『情熱大陸』(16年11月放送)でも、そうおっしゃっていました。

本当に不可能になるまでやめませんから。私、しつこいんですよ。だからマネージャも根負けする。47都道府県ライブも「絶対無理」って言われたのに、ほらできている。しかも80本になってるよ(笑)? そうやってうれしいハプニングが起こるほうが、動いてもないのにつまずいて、それをハプニングと呼ぶより、よっぽど気持ちが良いじゃないですか。だからきっと、夢を叶えるためのマテリアルは好奇心と気分。だって、見たいんだもん。触りたいんだもん。行きたいんだもん。作りたいんだもん。どうしても(笑)。

――そうやって、人と夢の架け橋になっているのが今回のプロジェクトですね。

もう本当にすごい人たちだと思います。願いを叶える手伝い。私はビジネス的な面もありますが、みなさんは気持ちで全部やってくれるんですよ。なんて良い人たちなんでしょう。だからお子さんたちはそのラッキーをキャッチしたら、お隣の子に「メイク・ア・ウィッシュ」を教えてあげて。そうやって、ラッキーをどんどん広げていけば、きっと笑顔もポジティブもスパイラルしていく。

●ボランティア参加者が拍手を送った表彰式スピーチ

このインタビューの直前、「メイク・ア・ウイッシュ オブ ジャパン」の25周年記念パーティーで壇上に招かれた大黒は、申し訳なさそうにマイクの前に立つとボランティア活動や同曲に込めた思いを吐露。スピーチに耳を傾けていたボランティア参加者からは温かい拍手が送られていた。

○病気で歌う夢を絶たれて

私のような者が皆様を差し置いて恐縮なんですけども、すごくうれしいです。25周年、まずはおめでとうございます。大黒摩季と「メイク・ア・ウィッシュ」はドンピシャの同級生なんです。大黒摩季のデビューは92年5月27日。その年の12月に「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」が設立されました。縁は想像を超えて、勝手につながっちゃうものだなとすごく思っています。

テレビ番組企画で、歌手デビュー15周年を機にハワイでメイク・ア・ウィッシュのイベントに出演することが、突然決まったんです。泳げなくて水恐怖症だったんですが、サーフィンをすることになって。テレビは私を死なせないと思ったので挑戦することにしました(笑)。

ワイキキにレジェンドサーファーがいて、すごくおっかなくて悪そうな人なんですが(笑)、ハートがすごくピュアで。その人が「メイク・ア・ウィッシュ」というチャリティーイベントをやると。「摩季は歌手でしょ? ハワイの人たち、子どもたちにも全部つながるはずだ」と、チャレンジさせられました。

「Make a Wish」はそのハワイで作った曲。日本人の私以外には日系人やアメリカ人、その他にもいろんな人種の方がいて。そして、パールハーバーには歴史がある。そこで歌を作ることになったんですが、何よりもメイク・ア・ウィッシュという言葉が好きでした。

私の北海道の実家はパン屋さんで、商売でワサワサした家で。幼いころ、さびしい時もあったけど、音楽を聴いている時だけは「メイク・ア・ウィッシュ」だったんです。だから、危うく積木くずしになるところを夢や希望の力だけで、ギリギリこうして音楽のロックというところに帰って来ることができました。

夢の叶え方はブルース・スプリングスティーンに教わり、人としてサバイバルすることはボブ・ディランに教わり、何かに反発する時は物を壊すのではなく「ハートで行け」というのをローリングストーンズから教わり。そんなことを思い起こさせる言葉だと思います。

サーファーの人に「歌手でしょ?」と言われて「このオヤジ!」と思ったんですけど(笑)、「一緒に歌詞を作ろう」と。だったらバンドは、そこに住んでいるすべての人種で。この時のライブには、大野(寿子)さんと一緒にメイク・ア・ウィッシュのチームとサーファーチームと一緒に出て、会場のみなさんとメイク・ア・ウィッシュのPRをしました。クリムゾンさんというメーカーさんがタオルを提供してくれて。

ハワイ人、スペイン人、アメリカ人、日本人のバンドを作って、出来上がった曲はすごくヒューマンでボーダレスな曲になりました。その時までは協力する側だったんですが、6年間病気をして歌うことも絶たれてしまって、夢も希望もなくなった時。その時の「メイク・ア・ウィッシュ」が、「もう1回歌いたい」でした。

そう思っている時に、吉川晃司さんが「大黒くん、君の声が欲しいから出てきなさい」と言ってくれて(笑)。きっと昔の声は出ないと思ってたんですが、「大丈夫だよ」という人が一人でもいたら、ちょっとだけ、半歩でも進める。今日より明日。明日がつながっていくと未来になる。こうして去年の8月に無事復帰させていただきました。

私は企業の方々のように、コンスタントに何かを提供してきたわけではないのですが、メイク・ア・ウィッシュを作っているみなさんとお子さんももちろんなんですけど……私のファンの人たちは8割が女性で。この間も、「お母さんの介護がずっと大変だったけど、やっと3時間空けられるようになったから元気をもらいにライブに来ました」という方がいました。きっと私のミッションというのは、そうやって夢を叶えるお手伝いをしているメイク・ア・ウィッシュのみなさんやお子さんたちの周りを盛り上げる役なんだなと、今はちょっと実感しています。

メイク・ア・ウィッシュという希望の力がこれからもずっとつながって、「POSITIVE SPIRAL」という曲があるんですが、Change of Smile……笑顔をみんなでシェアできますように。そして、ネガティブスパイラルじゃなくてポジティブな気持ちがスパイラルしていきますように。そういうメイク・ア・ウィッシュになってもらえればなと思っています。

これからもみなさんが困ったら「Make a Wish」を歌って、"不器用な言葉"を超えていければなと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。応援しています!

■プロフィール大黒摩季札幌市内の高校を卒業後、アーティストを目指して上京。スタジオ・コーラスや作家活動を経て、1992年「 STOP MOTION」でデビュー。2作目のシングル「DA・KA・RA」をはじめ「チョット」「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「ら・ら・ら」など立て続けにミリオンヒットを記録し、1995年にリリースしたベストアルバム『BACK BEATs #1』は300万枚を突破。2010年に病気治療のためアーティスト活動を休止。その間、地元・北海道の長沼中学校に校歌を寄贈、東日本大震災により被災した須賀川小学校への応援歌・歌詞寄贈、東日本大震災・熊本地震への復興支援など社会貢献活動を行う。アトランタ・オリンピックや「ゆうあいピック北海道大会」のテーマソング、アテネ・オリンピックの女子ホッケー・チームのサポートソング、2015年には再生に向けたスカイマーク・エアラインに応援歌を提供するなど「応援ソング」には定評がある。2016年8月、ライジングサン・ロックフェスティバルでの出演を皮切りに、故郷である北海道からアーティスト活動を再開した。