教師の指示に従い校庭にとどまることになったという

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宮城県石巻市の大川小学校。

2011年3月11日に発生した東日本大震災の大津波。当時校庭にいたとされる78人の児童のうち、70人の児童がここで亡くなり、4人の児童が今も行方不明のままだ。11人いた教職員も10人が命を落とした。

当時6年生だった3男雄樹君を亡くした佐藤和隆さんと、3年生だった長女未捺(みな)さんを亡くした只野英昭さんに現場を案内してもらった。

只野さんの長男で、当時5年生だった哲也君は、津波に飲み込まれながらも奇跡的に助かった1人。覚悟を持って自らの経験を語り続けている。

「俺らの自慢は、ここは自然でないものはないという場所だったので。山あり川あり海あり湖あり。ないものがない場所だったんですけど。あの3.11の津波はすごい津波だったと言われています」(只野さん)

「山さ逃げっぺ」届かなかった子どもの声


本記事はGARDEN Journalism(運営会社:株式会社GARDEN)の提供記事です

あの日。

地震から津波到達までは51分。

子どもたちは教師の指示に従い校庭にとどまることになった。大津波警報は全員に伝わっていた。

「ここにいたら死ぬ」「山さ逃げっぺ」と訴える児童もいた。「津波が来ます、高台へ」。市の広報車や防災無線の呼びかけも聞こえていた。

「当時この校庭には敷地内には防災無線があって。2時46分と3時37分の2回、『大津波警報発令、沿岸や河川に近づかないでください』という放送を連呼してたんですよね」(只野さん)


しかし、校庭ではたき火の準備も始まっていて避難する雰囲気ではなかった。

「昇降口のあたりに焼き芋のドラム缶を当時置いていたと思うんですけど、それを運んでいたという証言がありました。火をおこして暖を取ろうとした。要はここに居続けるという行動になるんですけど。逃げるんだったらそんなことしないで移動を開始していたらいいんですけど」(只野さん)

学校の体育館裏や校庭脇には山がある。かつてシイタケ栽培の体験学習が行われたり、低学年の児童が授業でも登ったことのある裏山だ。


「(石巻市教育委員会からは)、|録未陵匹譴婆擇バッタバッタと倒れてきて危険なので登れない(※1: 大川小学校事故検証委員会が2013年6月15日および9月27日に行った現地調査では、「地震や津波による倒木ではなく、強風を原因とする倒木である可能性が高い」と結論が出されている)、∋劼匹發梁では急で登れないと説明を受けました。ただ、いろんな人をこの山に連れてきて登ってもらったんですけど、『無理だ』という人は今まで誰一人いませんでした、この勾配を。実際に学校の先生と登っている写真もあるのに、子どもたちは登れないと」(佐藤さん)

校庭での待機は覆らなかった

その山への避難を提案する教師もいたが、1度決まった校庭での待機は覆らなかった。

川からはすでに水があふれていた。大津波がいよいよ迫って、教師と児童は移動を開始した。上級生が先頭となったが、整列する余裕はなかった。

「もう津波が来ているから、急いで」

教師と児童が向かったのは裏山ではなかった。まさに津波が迫る川の方角、「三角地帯」と呼ばれる高台への避難だった。


津波は川を約4km遡り、堤防を越えて大川小に迫った。

ゴーという、地鳴りのような音が聞こえた。

15時37分、津波到達。幼い命が濁流に飲み込まれた。避難を開始してから1分後のことだった。

「津波が来る直前、1分か2分手前の15時35分ごろに、移動開始して向かったのは、あろうことか橋のたもとの堤防に、要は川に向かって移動してしまった。行くなと言われたところに行ってしまった。避難している正面の川からあふれてきて。これは当時、津波をかぶっても助かった息子が全部話してくれました」(只野さん)

本当のことが知りたい、この悲劇を繰り返さないために

あの日から、6年以上の月日が経過した。

なぜ自分たちの大切な息子や娘は命を落とさなくてならなかったのか。親たちは今も真相究明のため声を上げ続けている。

震災後、石巻市教育委員会の説明は二転三転し、矛盾も多かった。遺族たちは証言の改ざんを疑った。文部科学省が立ち上げた第三者委員会も、途中で事実解明を放棄した形で2014年3月に終了した。

関係者の証言を記録したメモが廃棄されていたことも報道機関の取材でのちに明らかになった。

「(貴重な証言を破棄されたり、)証言を捏造されたりっていう扱いを遺族の親だけでなく、生き残った子どもにまでそれをやっている現状、これは絶対に許さないですよ。正しく伝えないとダメなんですよね。物語じゃなくて、美談にしちゃダメなんです。つらいことこそしっかり伝えなければならない。成功事例から学ぶことより失敗事例から学ぶことの方が断然多い。三陸は何度も何度も津波が来て、その都度人的被害を繰り返しているのは、つらいことを忘れろ、喋るなという部分があるんじゃないかな。だったら、繰り返さないように、つらいことこそしっかりと伝えていこうよと思うんですよね。つらいのは同じです。つらくないわけじゃないです。でもそれをやらなければ第2の大川小学校の悲劇が起きてしまう。だったらやらなきゃいけない」(只野さん)


なぜ、51分もの間、子どもたちを校庭にとどめたのか。

なぜ、すぐ目の前にある裏山への避難がなされなかったのか。

なぜ、「山へ逃げっぺ」と不安げに訴えた子どもの声は教師たちに届かなかったのか。

唯一生き残った男性教師は、口をつぐんでいる。子どもたちの証言から、自ら山へ避難していたことがわかった。


「あの先生が心を病んでいるのは噓を言わされているからだと思っている。あの先生は最初は本当の報告をしているんですよ。ましてや、自分は先に山に登っていっているんですから。それを、助かった4人の子どものうちの1人、3年生の男の子がそう証言しています。『自分が登ろうと思ったら先生はもう山の上にいて“こっちだこっちだ”って言ってた。誰にも助けてもらってないよ、自力で登ったんだ』。俺と哲也の前で、震災後にその子はそう話してくれたので」(只野さん)

真相究明のための訴えを起こした

児童23人の19遺族は、石巻市と宮城県を相手に真相究明のための訴えを起こした。

「金が欲しいのか」と心ない声にさらされることもあった。しかし、現場であの日何が起きていたのかが明らかになるまで自分たちは闘う、親たちの決意は固かった。

仙台地裁は昨年10月、教員らは津波の襲来を約7分前までに予見できたと認定し、学校側の過失を認めた。現在、仙台高裁で控訴審を争っている。

結審は来年1月23日だが、原告団が求めていた唯一生存した教師への尋問は一審に続き行われないことが決まった。

只野さんたちは「語り部」として大川小学校を訪ねる多くの人たちにあの日を伝える活動を続けながら、沈黙する学校側の門を叩き続ける。

佐藤さんは言う。

「宮城県の、特に石巻の学校の先生たちは、大川小学校のことを一切口にしません。震災から間もなく7年ですが、教頭会でも校長会でも、大川小の議題は一切ないんです。おかしいでしょって。学校で起きたことですよ。なのに裁判にまで発展しないと解決できないのかと。そういう組織なのか、教育の現場って。それが一番解せないですよね」

只野さんはさらに続ける。


「これでは子どもたちを守れない。教育の現場にいる大人たちが一番それを伝える立場なのに。なぜ黙っているんですかって。『これじゃダメだ、ちゃんとやろうよ』というのは本当は教育関係者なんですよね。ましてやここで津波をかぶって全部を見ていた哲也に、もう7年になりますけど、『こういう対応とっていいんだ』というのを見せ続けているんですよね、それじゃダメでしょ。『これがダメだったんだ、こうしていかなければいけないんだっていうのを教えてくださいよ、哲也に』って、そう思います」

只野さんや佐藤さんたちの発信は終わらない。

悲劇を繰り返さないために


本当のことが知りたい。この悲劇を繰り返さないために。

「たくさんの人に見てもらって、津波は怖いってしっかりと学んでいってもらいたい。一番伝えたいのは、ここにいた人と同じ思いはしてほしくないということです。津波って怖いんだということを、ひとかけらでも学んで帰ってもらえれば、未来の命を守るということにつながっていくと思うし、減災にもつながっていくと思うんですよね。防災の教材として利用してもらえればなと」(只野さん)

撮影した映像と証言の約50分の素材は編集することなく公開したいと思う。皆に伝えたい。

「大川伝承の会」については「GARDEN」当該記事へ。

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