西田厚聡氏。2013年1月26日、世界経済フォーラム年次総会にて(出所:Wikipedia,Copyright by World Economic Forum)


 東芝の社長、会長を歴任した西田厚聡氏が2017年12月8日、死去した。73歳という若さだった。異色の経歴で東芝のトップまで駆け上がったが、晩年は、会計不祥事の責任問題が発覚し、無念の日々を送っていた。

 西田氏は、風雲児でもあり、東芝という名門で保守的な大企業から見れば、異次元から来たようなスケールの大きな経営者の人生は波乱万丈だった。

 最後に会ってから少し経ってしまった。

 銀座でお昼を一緒したとき、西田氏は予想よりも元気だった。

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スイカで電車に乗る生活

 「朝は頭も体も元気だから、ドイツ語の専門書を読む。午後は英語の本。だんだん疲れてくると日本語の本に変えるんだ」

 その日も、ほとんどの時間、最近読んだ本の話をした。不祥事の話を聞いても、嫌な顔ひとつせず、淡々と、説明してくれた。

 食事を終えて、「どちらへ行くのですか?」と聞くと、「品川の歯医者さんにね・・・。有楽町駅かな」

 駅まで送りながら、「運転手さん付きの車のない生活に慣れました?」と聞くと、笑いながら「それがねぇ。これは全く慣れないんだよね。スイカ? これを使うのもね・・・」

 有楽町駅の改札を入って、ホームを探す後姿が、とても小さくて元気がなく、胸がつぶれる思いで見送ったのが最後になってしまった。

 初めて会ったのはもう30年近く前だが、本格的に会い始めたのは、1992年に筆者が米国駐在になってからだ。

 ある日、会社に電話がかかってきた。

 「東芝のニシムロといいます。覚えていますか? 米国駐在になったので一度、会いませんか?」

 東芝アメリカの副会長兼東芝取締役としてカリフォルニア州アーバインに赴任してきた。その後、東芝の社長、会長になる西室泰三氏だった。会いに行くと「パソコン事業会社の社長の西田さんも知ってるでしょ?」ということで3人で夕食に出かけた。

フォーチュン500で営業攻勢

 それから、数か月に一度、ニューポートビーチにあった日本食店で夕食を一緒するようになる。西海岸だから夕方のスタートが早い。午後6時前から。2人とも酒豪で、11時頃まで4時間、5時間、特に米国のハイテク産業の動向や米国経済についてまじめに話をした。

 インテルはどうしてあんなに強いのか、マイクロソフトの「ウィンドウズ」の時代はいつまで続くのか、メディアの融合は本物か、パソコンはどこまで進歩するのか、シリコンバレーは衰退するのかますます発展するのか、IBMは蘇るか・・・。

 あの時、どうしてあんなに熱く語り合えたのだろうか。

 米国の産業界は大きく変化しつつあった。そして、2人が、「大望」に向けて最もぎらぎらしていた頃だったからだろうか?

 西室氏が一足早く帰国した後は、西田氏と2人での会合が続いた。話題に事欠かず、いつも長時間、グラス、杯を重ね続けた。

 当時は、「ウィンテル」とパソコンの全盛期で、西田氏は「フォーチュン500」のランキングに載っている米国の大企業に片っ端から連絡をして、パソコンを売り込むため、飛び回っていた。

 コンパックやデル、HPが圧倒的なシェアを握る米パソコン市場で、大企業に的を絞ってぐんぐんシェアを伸ばす姿は圧巻だった。

 ある時、サンノゼ空港でばったり会ったことがある。大きなショッピングバックを2つ。雑誌と本がぎっしりあった。「こっちが仕事、こっちが個人用」

機内での猛烈読書

 機内では、米国のビジネス雑誌を猛烈なスピードで読み、必要な部分だけ破って後は捨てる。その後、ビジネス書。最後に、趣味の専門書。それでも時間が余ると日本語の小説を読んでいた。

 2人とも日本に帰っても、交流は続いた。

 1996年、西室氏が専務から社長に昇格する。筆者は直接の担当ではなかったが、記者会見に行った。その帰り、何フロアか下にあった西田氏の事業部長室にアポなしで立ち寄った。

 会議中だったが、すぐに出てきた。

 「西室さん、ホントに社長になりましたねー」。こう言うと、「いやほんと、ほんとになっちゃったねー」

 2人の関係は、親密でありながらも時に微妙だった。

 何年か後のことだ。西室氏が財界活動をますます本格化させようとしていた。

 筆者が「すごい勢いですね。このままいくと、NHKとか郵政のトップとか、そういう人事になりかねないんじゃないですか? 大丈夫ですか?」と言うと、「いや、本当にそういう話になりかけていて・・・」と困惑した表情だった。

西田でなくてはできない事業?

 2004年の年末近く。ソウルに大雪が降った日だ。西室会長(当時)が筆者が駐在していたソウルにやって来て、夜遅くまで新羅ホテルのバーで飲んだことがある。

 当時、東芝はパソコン事業で巨額の赤字を計上し、西田氏を急遽、パソコン事業のトップに復帰させ事態収拾を図っていた。このときの措置も、その後、「不正会計」として批判を浴びることになる。

 「パソコン事業のV字型回復が西田さんの社長昇格の条件なんですか?」

 もう日本の電機業界の事情に疎くはなっていたが、こう聞くと、意外な答えだった。

 「いや、V字型でなくてもいいんですよね」

 もう社長には事実上内定していたのだ。このとき、西室氏にこう話した。「でも、そもそも、西田さんがいなければ赤字になるという事業だとしたら、それはもう持続可能ではない事業で撤退すべきではないんですか?」

 「確かにそうですね・・・確かに」。短い答えだった。

2冊の本の話

 2005年2月、今度は西田氏がソウルにやって来た。筆者がソウルに駐在していた3年間に西田氏は何度もソウルに来た。2005年3月末で帰国する前にもう一度来るという「約束」(?)をきちんと果たしてくれた。

 食事をしてお気に入りのインターコンチネンタルホテルのバーで一杯やった時、例によって、「最近の本」が話題になった。

 「英国と米国でね。企業の歴史についての本が2冊出てね。東インド会社とか・・・参考になりましたよ」

 ああ社長になるんだ、そう思った。数か月後、社長に就任した。

 2007年、筆者は、ソウルの研究所で、悶々とした日々を送っていたことがある。そんな時、突然、連絡があった。「予定を1日延ばすから夕食を一緒しましょう」

 社長になっても、相変わらず、「本」の話が中心だった。いったい、いつ時間があるのか。本の話をするたびに驚かされた。聞くと、早朝や夜、週末に、貪欲に読書を重ねていた。

 どうして、あんな難しい本を読み続けたのか。

 一度は学者の道を選んだほどその分野が好きだったこともある。欧州政治思想が専門で東京大学の博士課程で学んだ。福田歓一教授(2007年死去)を心から尊敬し、「政治学のノーベル賞があれば、福田先生だ」と酔うと何度も話していた。

 人一倍旺盛な好奇心もあった。だがそれだけではないだろう。どこかで、「会社生活とは違う自分」を維持することで、東芝という保守的な組織で時に思うようにならないことで生じるストレスをコントロールしていたのではないか。

 会社の話も、もちろん、たくさん聞いた。

天からの贈り物

 長年、西田氏と経営についての話をしてきたが、「あれ!? え!? それはないでしょうが・・・」と思うことはあまりなかった。西田氏は、言葉や他人の評価に感情移入があることはあっても、判断基準はいつも、合理的だった。

 ところが、ウェスティングハウス(WH)の買収の一件を質問したときはびっくりした。

 「WHが売りに出ているという話を聞いたとき、天からの贈り物だと思った」と言ったのだ。のけぞりそうになった。

 その後、東日本大震災が発生し、WHの経営不振、一連の不正会計問題へと発展していく経緯を見るたびに「天からの贈り物」という言葉を、鮮明に思い出すことになった。

 「後継者」について聞いたときも、「あれ!?」と思った。

 「2人、候補者がいるんだ。出身部門だけではなく、会社全体のことを考えて判断する習慣をつけるように指示しているんだけど、WHが最大の懸案だからね」と言い、結局、重電出身の佐々木則夫氏を指名した。

 この経緯も、長年の西田氏の判断から見ると、「説明が不明瞭」だったことは否めない。

東芝という組織

 誤解を招かないようにしよう。西田氏は決して、「一か八か」でWHの買収を決めたのではないはずだ。原子力について重電について、猛烈に勉強し、事前に事業化調査を入念に重ねたはずだ。

 経営者に結果責任はあるが、買収した時点でWH買収を「間違い」と指摘することなどできなかったはずだ。

 だが、だ。

 西田氏が社長になる前に、西室氏にパソコン事業について「西田さんじゃなければできない事業というのは、持続可能な事業なのか?」と聞いたとことがあると書いた。

 WH買収も同じことではなかったのか?

 東芝にとっては歴史的な買収だった。だが、WHという会社も、原子力という事業も、西田氏はともかく、サラリーマン経営者では、こなすことがきわめて困難な事業だった。

 特に、東芝のようなトップ人事を続ける企業ではなおさらだった。東芝は、中途入社の西田氏に大きな機会を与えた。そのことに西田氏はいつも感謝していた。誰よりも東芝の社史を熟読し、創業者や歴代社長に敬意を払っていた。

 「佐波さん(正一元社長)はすごいんだ。今でも、あんなに勉強している。この間も、こんなことを教えてもらった」

 社長OBについて、よくこんな話をしてくれた。だが、一方で、名門・伝統企業のどうにもならない慣習や制度についてもいらだちもあった。

 東芝のトップ人事もその1つだ。東芝は、名門企業であるがゆえに、経団連など財界に多くの人材を輩出してきた。名誉なことであろうが、それゆえに、トップ人事にも暗黙のルールがある。

 土光敏夫氏の2代後の社長だった岩田弐夫(かずお)氏はいわゆる「岩田ドクトリン」という内規を作り、社長任期を4〜5年にした。会長定年は70歳だ。

 社長退任後は、揃って経団連副会長を務めている。

 「老害」「長期執権」を防ぐための知恵だが、トップ人事が硬直化せざるを得ない。西室氏は4年、西田氏の前任である岡村正氏は5年で退任した。それぞれ経団連副会長になり、西室氏はその後多くのポストを歴任した。岡村氏も日本商工会議所の会頭になった。

 西田氏は一部で言われるように「財界」に強い意欲を示したいたわけではない。社長在任期間よりも財界活動期間がはるかに長くなることに、疑問を感じていた。

 とはいえ、サラリーマン経営者でありながら長年トップに居座る経営者にも批判的で「東芝の慣習」を評価していた。

 だから、西田氏がいくら「突出した」経営者であっても、せいぜい任期は5年間だ。WH買収を決めてから残された期間はわずか2〜3年しかなかった。その点をどう考えていたのだろうか?

 西田氏は、韓国財閥のオーナーと頻繁に会っていた。オーナー経営に企業統治上の問題が多いことを指摘しながらも、その視野の広さや長期戦略、大胆な決断にいつも感服していた。

 社長の任期が限られていることを当然の前提として受け入れながらも、何となく釈然としない思い。それが焦りにならなかったか?

 後任の佐々木氏についての話も何度もしたことがある。

 「でも、選んだのは西田さんですからね・・・」。そう言うと、「そうです」といつも静かになってしまった。

 会長在任中から後任社長と対立し、不正会計問題で相談役を退任するなど晩年は、無念の日々だった。会計問題については、最後まで第三者委員会の発表を批判し、裁判でも徹底的に争う姿勢だった。法的な問題については、司法の判断を待つしかなかった。

 だが、 本人も、「歴史的な責任」は痛感していた。経営者としての経歴が予想もしなかった幕切れをしたことを自問、自戒する日々だった。

早朝に起きて倍は働く

 学者時代に、ドイツ語、英語と、文献を読む訓練を徹底的に仕込まれ、だから、サラリーマンになっても、半導体や原子力の専門書を読みこなして技術者と激論を戦わせた。

 30歳前後でイランの東芝法人に入社したことは有名だが、このとき「遅れてサラリーマンになったのだから、人の倍以上働く」と心に決めた。深酒をした翌日でも早朝に起きて、誰よりも早く出社して猛烈に働いた。

 どの事業でも、基準を世界トップ企業に置いて、何よりも「機会損失」を嫌った。WH買収で原子力事業が最大の懸案だったが、収益源として何よりも愛着を持っていたのが半導体事業だった。半導体事業はもっと利益が上がるはずだ、が信念だった。

 だから、サムスン電子の戦略については驚くほど詳しく知っていた。

 「ニシダさんは、日本の経営者とは全く違うタイプだね。タフだけど、情報をよく分析していて、判断が早い」

 筆者は、インテルやサムスン電子のトップから何度も西田氏の話を聞いたことがある。

 一度、サムスン電子の社長と一緒に会ったことがある。2人とも、猛烈タイプでガチンコ交渉がいきなり始まった。このときは「決裂」してしまったが、ずっと親密な関係だった。

 「理事」に一選抜で昇格した時、「これでやっと追いつけた」と嬉しそうに笑っていたことを思い出す。昇進や出世を堂々と目指したが、一部で言われるほど地位や役職に対する貪欲さはなかった。

 議論をして時に相手を論破するから社内でも味方も敵も多かった。スーパー合理主義でありながら、親分肌で、義理堅い「昔気質」の一面があった。

 論破されても「また飲みに行くか」と相手に思わせる広さもあった。ぱっとしない部下にも優しい面もあり、また、東芝の伝統をぶち壊すほどの「過激派」でもなかった。人間関係では保守的だった。

 「ルターの新しい評価がドイツの学界で話題になっていてね・・・」

 「相対性理論についての新しい見方をする本が米国で出たんだ」

 「臂平の伝記を読んだんだけど、中国人の名前が英語で出てくるんで、苦労しました。そうしたら、日本語訳が出ると聞いて、もっと待てばよかった・・・」

 「ルターですか(絶句)・・・あれ、それに今日は、ドイツ語と英語の新刊ばっかりですか? それじゃ、簡単に読めないじゃないですか・・・」

 もうこんな会話ができないと思うと感慨深い。

 今年になって、大病を患った後も、旅行をしたりと一時は回復の兆しを見せていたと聞いていた。年末に会おうと、メールを送ったが、初めて返信がなかったので胸騒ぎがしていた。

 ご冥福をお祈りします。

筆者:玉置 直司