荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第9回:ラップ以前にあったポエトリーリーディングの歴史

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 “ラップ”の前にあった“ポエトリーリーディング”について書く。

(関連:荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第8回:カルチャーの“空間”からヒップホップの”現場”へ

 この冬に公開される、不世出のラッパー・2PACの伝記映画『オール・アイズ・オン・ミー』冒頭で語られているように、2PACの母親も父親も、そして名付け親エルマー・“ジェロニモ”・プラットもブラックパンサー党のメンバーだ。彼のトゥパク・アマル2世という18世紀のペルーにおける植民地解放蜂起の指導者から採られた名前はこうした周囲の環境ゆえで、また、例えば「Dear Mama」をはじめとした彼の曲の発想のもとにはブラックパンサー党の強い影響もある。

 1966年、ブラックパンサー党は、60年代前半に高揚を見た公民権運動の行き詰まりに対し、憤懣やるかたない学生だったボビー・シールとヒューイ・P・ニュートンらによって、カリフォルニアはオークランドにおいて結成されたアフリカ系アメリカ人による政治的な団体だ。彼らは67年の1月には街路の店先にブラックパンサー党本部を設置、また『ザ・ブラック・パンサー:ブラック・コミュニティ・ニュース・サービス』という週刊新聞の発行を開始した。そこには鑑別所でプリントショップに回されデザインに目覚めたエモリー・ダグラスのアイコニックなグラフィックアートが大きく掲載されていく。

 党の情報相であり、各国との連絡を統括していたとされるエルドリッジ・クリーヴァーにより真正のものでないとはっきり否定されたとはいえ、ブラックパンサー党の政治的ラディカリズムは、マルクス=レーニン主義と近しかったという。そして、彼らの綱領の最初に記してあるように、その具体的な行動方針はまず“ブラックコミュニティの運命を決定する権力”を誰が持ち得るのかについて分ち難いからこそ、その政治的ラディカリズムとカルチャーのありようは彼らの毎日の暮らしのなかでユニークな形で結びついていた。

 ブラックパンサー党のコミュニティへの毎日の介入は、子供の教育や蔓延する麻薬など医療問題を含めてのカウンセルから、求職の手伝い、無料の食事配給など65もの細目からなるもので、コミュニティのカルチャーや生活に強く根付き、暮らしの空間を変化させるものとなっていく。

 毎日の暮らしの空間ーーブラックパンサー党が黒いベレーに青いシャツ、黒いパンツというアイコニックなスタイル/ファッションを創造したこともつけ加えよう。それを、映画『ライトスタッフ』の原作者、作家のトム・ウルフは “ラディカル・シック”と呼んだ。

 このことは、アニエス・ヴァルダのようなフランスの“新しい波”のなかのただ1人の女性映画作家を強く引き寄せたといえる。ヴァルダは1965年の生き生きとした処女作品『5時から7時までのクレオ』の3年後、当時住んでいたカリフォルニアで美しいドキュメンタリー『ブラック・パンサー』を制作した。

 ブラックパンサー党の存在と行動が作り出した新しい現実と、カルチャーにおいての諸芸術形式のなかでのポップ音楽との相互作用の結晶は、2PACの場合のように両親を通してだけ結合するのではない。1968年、彼らのラディカリズムとカルチャーの接合されたストリートでのアクティビズムをテレビ越しに見たジャラール・マンサー・ヌルディーンとウマー・ビン・ハッサンは、詩の朗読をラディカリズムと前衛芸術のないまぜとなった表現行為として捉えたThe Last Poets(最後の詩人たち)というグループを、ニューヨークはハーレムで結成した。

 彼らの1stアルバムは35万枚売れ、別にThe Rolling Stonesのミック・ジャガー主演の映画『パフォーマンス』に曲が使われたことからもわかるように、The Last Poetsはサブカルチャーシーンの確かな波と化した。揺籃期のヒップホップへの影響は決定的であり、The Cold Crush Brothersのグランドマスター・カズはJalalのソロプロジェクト『Hustlers’ Convention』(1973年)をすべて暗記し、自作のライムの作詞を始める際に参考にしたという。カズの初期の押韻リリックが、そのままThe Sugarhill Gangのヒップホップ/ラップ初のミリオンセラー「Rapper’s Delight」に盗用された挿話は有名だが、サウス・ブロンクス以外の多くの人々はラップとは何かということをカズの押韻を通して記憶した。ヒップホップ/ラップに手渡されていったボキャブラリーというなら、例えば、アフロ・アメリカンたちが自身を”nigger”と呼ぶことが、広く最初に知れ渡ったレコーディング作品としても、The Last Poetsの1stアルバムがあった。

 ブラックパンサー党が“資本家によるコミュニティの収奪の終わり”(『ザ・ブラック・パンサー:ブラック・コミュニティ・ニュース・サービス』創刊号に掲載の綱領より)を欲すその目的のため、資本家から取り戻し再構成したコミュニティの空間の重要な要素のひとつは、無料の食事に無償の医療や、コミュニティに情報を伝えていく週刊新聞の発行と同様に、The Last Poetsを典型とした、ポップ音楽と詩の朗読を組み合わせたアーティストたちのパフォーマンスであったといわれている。

 それは、例えば、ブラックパンサー党の集会の内外でのThe Last Poets、The Watts Prophets、ギル・スコット・ヘロン、デヴィッド・マレイ、そしてニッキ・ジョヴァンニ、もしくはそれ以前に時代を変えた遠景としてのボブ・ディランやジョーン・バエズといった、パフォーマティブな詩の朗読とポップ音楽の交錯を実践したアーティストたち。またパンサー党に友好的で資金を提供したGrateful DeadやSantanaといったミュージシャンたちに、党員であったChicのナイル・ロジャースやチャカ・カーンといったミュージシャンたちも数えられ、広範囲に及んでいく。

 彼らのなかでも、当時来日していたジャズアーティストたちは、批評家/オーガナイザーとして知られる故・間章を通して“黒豹党支援日本委員会”及び、彼らと繋がりのあった日本の新左翼組織と接触し交流があったという。

 1971年には、日本でも“黒豹党支援日本委員会”による『ザ・ブラック・パンサー:ブラック・コミュニティ・ニュース・サービス』が発行されている(第6号まで)。その紙面をみると、アメリカの“黒豹党”のニュース記事と並び、例えば、朝鮮再統一について、ミクロネシアなど植民地主義について、日系人の問題について、それに“男性が朝食を作り、女性も武装する”ブラックパンサー党のラディカリズムが生み出した男女平等についての記事も掲載されている。

 それでは、今日のヒップホップ/ラップのもとのひとつにもなった、ラディカリズムとアートの暮らしのなかの結びつきの帰結としての、The Last Poetsやギル・スコット・ヘロンなどの芸術表現の行為、いわゆる“ジャズ・ポエトリー”は日本語ラップ以前にあったのか。

 詩人の白石かずこは、吉増剛造や諏訪優ら詩人たちと、沖至やナウ・ミュージック・アンサンブルなどフリージャズミュージシャンとのセッションを重ね、のちにサム・リヴァース、バスター・ウィリアムスたちとジャズ・ポエトリーのアルバム『Dedicated To The Late John Coltrane And Other Jazz Poems』(1977年)をリリースしたが、1960年代終わりから70年代はじめの日本でのジャズ・ポエトリーの不遇について、彼女の詩的回想記『黒い羊の物語―Personal poetry history』にこう書いている。「“この頃はジャズ喫茶時代ともいえる。(中略)だが、詩の朗読はというと、NHKのラジオの朗読の時間がお手本とされていて、人々はそれが朗読と思っていたから、ジャズの即興演奏と詩の朗読など全く無謀だと思って、それを聴きもしないで否定していた時代だった/それにエンターテイメントとしてのジャズとは全くちがうニュージャズ、クリエイティヴな実験に実験を重ねてできた前衛ジャズ、フリージャズなどは騒音として耳をかたむけなかった」

 『Dedicated To The Late John Coltrane And Other Jazz Poems』は、この連載にもたびたび登場してきた坂本龍一と、白石とも交流のあった詩人、富岡多恵子の傑作ーー初期のオノ・ヨーコの幾つかのアルバム、もしくはのちのローリー・アンダーソンの『Big Science』を思い起こさせるーー『物語のようにふるさとは遠い』(1977年)と共に記憶されるべきポエトリーのアルバムだ。ポップ/ロックの領域からのポエトリーの試みも、その8年後の佐野元春のマルチメディア作品としてデザインされた『Electric Garden』を待たなければならない。

 21世紀のはじめからみると、東京の都市空間のなかに存在していた、その当初ラディカリズムに刃を迎えて解こうとしたジャズやフォークと詩の場ーー例えば、ロックアウトされた早大のバリケード空間の中での山下洋輔トリオによる演奏/パフォーマンス、もしくは西口フォークゲリラーーは、はっぴいえんどやキャロルとフェスティバルという“幻覚の共和国”空間を通して、初期のいわゆるシティ・ポップやよりヘヴィなロック/ソウル/ファンクとクラブ(ディスコ)などへ瓦解していったようだ。

 これはもちろんジャズが重要でなくなったというのではないし、またジャズからロック/ダンスへという文脈を意識したアーティストがいなかったというのでもない。そのことは日本に映画『ワイルド・スタイル』のキャストとクルーがやって来る少し前、東京は吉祥寺のライブ喫茶「マイナー」という空間と、そこで活動していたA-Musik、ガセネタ/TACO、工藤冬里、白石民夫、灰野敬二といったミュージシャンたちが日本においてのポストモダンな文化の趨勢、ポストコロニアルな状況をはっきりと見据えながら確固たる音を出すことを始めていたこと(そして、その状況を背後に出てきたECDというラッパーの存在)、もしくは近藤等則という希有なアーティストの足跡を思い起こすことで十分だと思われる。(荏開津広)