菊地成孔の『密偵』評:「日帝時代」を描くエンタメ作が凄い勢いで進化している現在って?

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■「坂本龍馬が教科書から消える」について

参考:菊地成孔の『暗殺』評:「日韓併合時代」を舞台にした、しかし政治色皆無の娯楽大作

 龍馬末梢肯定派にも、否定派にも等しく、<歴史教育は近現代史からやるべき説>を唱え、あたかもリベラルなコメントをしてやったりで、したり顔を決め込む人々が多いが、筆者の考えでは、この説は、単なる、物わかりの良いライト左翼、ライトリベラルであって、何せ正反対な両派から出てくる説などというものが脆弱でないわけがない。

 この、そこそこの賢者の物言いでもあるかの如き言説は、第二には坂本龍馬らを歴史の教科書から消すべきかどうかの議論と無関係であり、第一には、独立した有効性すらも低い。というより、数学的に成立しえない構造になっているのは言うまでもない。

 完全な無知という状態から「目の前の、今のこと」を学ぶには、その前提となる近過去の理解が必要であり、それを学ぶには、その前提的な、、、と無限軌道の果てに「やっぱ起源から」という、これまた極めて有効性の低い方法が導き出される可能性が高いのは、ほとんど自明である。

 「歴史の授業は近現代から」と発言して満足している者は、既に「目の前の、今のこと」を、ある程度、あるいは完全に理解している者たちであり、完全な無知である者たちの立場に立っているつもりが、上からになっている、という、非常にありきたりな権力構造の罠にはまった善意に満ち、自説を疑わない。

 では、ならば、とばかりに、ここで修正B案が導かれる。「適度な近過去から現在までを繋ぎ、それを全て理解したら、もうワンブロック過去へ」。しかしこれもどうだろうか? 県政と都政と国政の違いが全くわからない者に対し、まあとりあえず廃藩置県から行こう。といったやり方を設定する。しかし、県政と都政と国政の違いがわからない者の多くは、衆議院と参議院の違いもわからない。国債や公定歩合についても完全な無知であろう。全て、どこが適度なスタートポイントとなるのか? 予想されるのは混乱ばかりだ。

 食い下がられ続けた賢者は面倒になってアナーキーに振る舞う。「だったらもう20世紀で切ればいいよ。あらゆるコンテンツを1世紀ごとバッサリいくしかないでしょ」。言っている本人のアティテュードが既にアナーキーなのだから、もう訴追は無駄である。20世紀を知るには19世紀を知らねばならない。話は元に戻る。

 しかし、この方法は、コンテンツを個別に扱って良しとする、ならだが、期限が偶然にも世紀あたまにあるコンテンツに対しては、そこそこの有効性もないとは言えない。

 曰く印象派から始まる近代美術、曰くフロイドから始まる精神分析学、曰く世界大戦というイベントを中心とした戦争学、調性の破壊を旨とする近現代音楽学、これらは皆、20世紀初頭もしくは19世紀末に起源があることによって、20世紀史としてまとめられ、デイケイドごとに分節して理解することが比較的容易だ。

■そして、その一つが「日帝時代」について。である事は間違いない

 何故なら、それは1910年から始まっているからである。この年の8月22日、日本と朝鮮半島の間で「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。朝鮮半島側は全ての統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲渡し、518年続いた朝鮮王朝は滅亡し、日本の植民地体制が始まった。いわゆる「日帝時代」の開始である。

 「そもそもなんでそんなことになったの?」という、一問手前のエッセンシャルな問いを一旦完全に無視してしまえば、あとは「1919年に最初の大きな独立運動」→「朝鮮総督府(大雑把に日帝)によって徹底的に潰される」。「これを受けて30年代には中国の上海に<大韓民国臨時政府>が作られる」→「日帝に追いかけられて中国国内を転々と」。「41年、太平洋戦争が勃発」→「45年の終戦=日本の敗戦、を受け植民地支配から解放」。と実に分かりやすく流れがまとめられる。<日帝時代。は35年間だった>。これだけでも、おおおおおおおおと思うK-POPファンは多いだろう。

■本作「密偵」の時代設定は

 作品の性質上(実在の人物が出てこない=歴史ものとしては不透明)明確には設定されていないが、<20年代>である。19年3月1日に起こった「3/1独立運動」が弾圧されたばかり、まだまだ独立運動家による熱量が荒々しかった時代である。

 そして、当連載で過去に扱った『暗殺』(参考:菊地成孔の『暗殺』評:「日韓併合時代」を舞台にした、しかし政治色皆無の娯楽大作)は、<30年代>、臨時政府も上海から逃れて杭州に移っている。『お嬢さん』(参考:菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密)は、日帝時代終了への秒読み段階である<40年代>のデカダンが、19世紀末デカダンと二重写しになるような歌舞伎的なパースペクティヴが作品を律していた(『隻眼の虎』(参考:菊地成孔の『隻眼の虎』評:おそらく同じソフトによって『レヴェナント』のヒグマと全く同じ動きをする朝鮮虎)」はかなり象徴的なファンタジックで、何十年代か判別がつき辛い)。

 そして、『暗殺』のレヴューで紹介した通り、「韓国の若きスピルバーグたち」の一人であるチェ・ドンフン(46歳)は明言するのである。「私は、この時代について、一切何も知りませんでした。だから図書館やインターネットを使って調べ上げたのです」。冒頭に登場した「歴史教育は近現代史から」派の残念な賢者が現れるに憚りはない。

■作品自体のテイスト&ストーリーは

(以下、公開中につきネタバレおおっぴらなので注意) 

 作品の視界、つまり美術、衣装、照明は、アメリカ映画の、いわゆるローリング・トゥエンティものと同じである。服装、車、重火器、建築物、路面のデザインは既にインターナショナル化されており、日本の大正ロマンものとも相同的である。

 ご存知の通り、アメリカではギャングと禁酒法とジャズで踊る20年代から、大恐慌の30年代、2次大戦の40年代、ミッドセンチュリー文化のフィフティーズ(以下略)と、デイケイドのキャラクターは手垢にまみれているが、その風俗デザインが北東アジアにまで及んでいたことが映画的な楽しさに満ち、かなりのハイバジェットであろう、CG抜きの完全再現に成功している本作においては眼福とさえ言えるだろう。

 そうしたハリウッド感とも言える豪華な視界を舞台に、脚本、特にスタートから中盤の京城行き列車内でのサスペンスまでは、今や「改めてこれが韓流」とも言うべき精緻さで描かれ、「二重スパイ物」という、登場人物の信頼関係が極限まで薄く設定されるジャンルを、堂々と乗りこなし、痛快なまでに強烈な緊張感をコンマ1秒の間段もなく維持させることで、「バルカン超特急」「見知らぬ乗客」といったヒッチコック・クラシックスの系譜にあると言っても過言ではない。

■主役は狭く設定すれば2人

 反日活動団体「義烈団」のメンバーであるコン・ユ(現在、ドラマでも映画でも乗りに乗っている彼は、話題になった韓流ゾンビ映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(参考:菊地成孔の『新感染 ファイナル・エクスプレス』評:国土が日本の半分の国。での「特急内ゾンビ映画」その息苦しいまでの息苦しさと上品な斬新さ)と並び、奇しくも「極端に緊迫した列車内」を舞台にした作品に連投する事となったが、設定はあらゆる意味で両極端な2作の「列車内での演技/アクションのクオリティ」は優劣がつけられないほど高い)、そして彼に誘われる形で、日本警察との二重スパイになってゆくソン・ガンホである(義烈団のトップであり、カリスマの自己愛、行動力、扇動性、そして無能性や天然のユーモアまでを高度に演じきったイ・ビョンホンは、作中の登場時間も鑑みるに、特別出演に近い)。

 特に、韓国人でありながら日帝の狗であるソン・ガンホの日本語は、役作りの結果か偶然か、滑稽さや稚拙さを感じさせぬシリアスさでもどかしく押し殺され、たった数年で「カタコト問題(参考:菊地成孔の『隻眼の虎』評:おそらく同じソフトによって『レヴェナント』のヒグマと全く同じ動きをする朝鮮虎)をクリアした韓国映画界全体に驚きを禁じえない。

■しかし、映画としての完成度は

 知的なサスペンスとアクションが有機的にリンクするピーク(列車内)までと、ピーク後のトーン激変が評価基準となるだろう。

 筆者のジャッジでは、列車が京城に到着した、その駅出口で、凄まじいアクションを繰り広げながら、結局一網打尽になってしまう、という所まで水平に一貫したゲーム的な知性が、一度完全に放棄され、韓国映画における、一種のワイルドなサーヴィスとも言える、「日帝による残虐な拷問シーン(ヒーローとヒロイン、つまり最美男と最美女に最残虐がなされる)」が連続し、プロレスの悪役の如き、お約束の悪意を煽る展開は、残念ながら残念だったとしか言いようがない。

■もしそれが、知的に制御されているというのならば

 シンプルにいって、途中でエモくなってしまうのは、いかなる理由(本作では「日帝の残虐さを描くことで、観客の憎悪を煽る」という目的)によるものであっても破綻=失敗と映ってしまう。

 リアルなガチのナチスを描くか、漫画の悪役としてのアンリアルなナチスを描くのか、これは我らが鶴見辰吾の演技力のせいではない、「21世紀の日帝時代エンタメ大作」が、どのような新時代のバランスをとるのか、そこがハリウッド型に成熟した韓国映画に問われるポイントである。

 そしてそれは、そっくりそのまま「朝鮮半島が、結局未だに民族統一されていない」という事実に対するスタンスの取り方と重なってしまう。スタート時のトーンとマナーに合わせるならば、ここで自虐性や自己嫌悪などのエモさは社会的なメッセージという嘔吐となる。前述の、「知的エンタメなのに、ナチスがリアル」というのも、同じく嘔吐となる。

 「鶴見辰吾=日本警察トップ暗殺」という、本来ならば作品の山場となるシーンが、「ボレロ」を使った、寒いユーモア感覚と相まって、腰抜けた印象になってしまい、投獄されたコン・ユの無念、一瞬、裏切ったかと思わせながら、観客の思惑通りに仁義を果たすソン・ガンホの俠気と罪悪感、といった激しいエモーションとの交差が、後半に向かってどんどん座りが悪くなってしまうのは、嘔吐によるものである、と筆者は評価する。

 そして、こうした点において、エンタメとしてのクール統一だったのが『暗殺』であり、独特の美学に染め切ったのが『お嬢さん』であり、少なくとも作品が嘔吐はしていない。

■とまれ、本作は前述の「カタコト問題」に関しては、この一連で最も成功している

 つまり、進化としての得点をあげているのだ。進化だけが進化ではない。定着と安定もまた進化の一種であり、本作の全編を流れる「もうこういうジャンル普通ですし」という安定感は、「うおー、日帝が戯画化されるまでのエンタメが!」というヒリヒリ感がフレッシュだった、たった2年前の『暗殺』から、ぐいぐい進化/安定がなされている、というのが韓国映画界の揺るがぬ事実だ。

 「ナチスが出てくるコメディ」、例えば『まぼろしの市街戦』『プロデューサーズ』の如き、高い知性に基づくネクストレヴェルは目前に迫っているのか? それとも肝心なところで嘔吐してしまう作品が定番化するのか? そもそも嘔吐による吐瀉物は栄養がまだ残っている離乳食と近く、映画の実質として陽性に評価する人々も多かろう。「慰安婦人形」が可愛いキャラクター化して学生の間でバズった。という、ちょっと前のニュースが孕む「新しさ」は、こうして映画にも波及している。(菊地成孔)