10月1日、川崎大師における北の湖前理事長の銅像除幕式に出席した貴乃花理事(左)と八角理事長(写真:日刊現代/アフロ)

当コラムは東洋経済オンラインの有料メールマガジン「本田雅一のIT・ネット直球リポート」からの抜粋記事です。

日馬富士が酒宴で後輩の貴乃岩を暴行、傷害を負わせた事件は、人気・実力とも充分兼ね備えていた現役横綱の引退にまで発展した。人々の関心が高く、報道が過熱する背景には、日本の国技として一定以上の人気を保っているだけでなく、職業力士による大相撲を興行する日本相撲協会が公益財団法人として認定されているという背景もあるだろう。

公益財団法人ということは、すなわち単なるスポーツ興行ではなく、古来より伝わる日本固有のスポーツである相撲の伝統と文化を後世に伝え、守り、普及させるといった文化振興事業ということだ。

しかし、実際の大相撲がかなり“興行側”に偏った活動となっていることは、誰もがご存知のところだろう。

ネット全盛時代の危機管理について考える

伝統と文化を守る文化振興事業というのならば、一定の節度を持って運営されなければならない。そこに重大な問題が生じた。北朝鮮が新型ICBMと思われるミサイルを発射した中で、そうしたニュースを押しのけてまで行われる過熱報道は、個人的に行き過ぎという印象もあるが、日本相撲協会の位置付けや過去の不祥事から続く「またか」という思いがこのニュースバリューをさらに引き上げているように感じる。

さて、この事件はさまざまな謎に包まれた日馬富士の電撃引退から、さらにドラマティックな展開へと移ろうとしているが、本記事はその最新ニュースを追いかけようというわけではない。ネット全盛時代の危機管理について考えてみよう、というのが今回の記事の主旨だ。

大相撲を巡る不祥事は以前よりあったが、近年、特に2007年に『週刊現代』が八百長告発を行ったあたりからは、力士暴行死事件、大麻事件、野球賭博事件など度重なる醜聞が露呈するようになった。

以前からそうした問題は存在したのかも知れないが、“環境”の変化によって、不祥事を抑え込み内部に留めることが難しくなってきたのだろう。

環境は変化している。とりわけ情報伝達の速度は早く、また大きな組織から見ると取るに足らない個人であっても、時にSNSなどで発言が注目され、瞬く間に考え方が広がっていくのが現代だ。

時代の変化を読み取れない組織が“延焼”を促進

日馬富士による暴行傷害事件における日本相撲協会の対応、広報、あるいは事件を取り巻く人物の行動や発言を見ていると、そうした環境変化を正しく認知できず、結果として世論の強い反発を招いている。非ネット時代であれば、あっという間に風化し、単なる“週刊誌ネタ”だけですぐに終息したのだろうが、今は報道する側もネットで世の中の反応をリアルタイムで感じながら伝え方を考えている。

筆者はこうしてITやネットカルチャーをテーマにしたメルマガを書かせていただいているが、今回のケース、もちろん暴力による傷害事件を軽く扱うことは問題だが、一方で協会の“コミュニケーション下手”にも、問題を大きくする原因があると感じた。

日本相撲協会の対応、あるいは協会員である力士たちの対応でもっとも良くないのが、“自分たちの常識”が世の中の多くの人の感覚とズレていることを認識できていないことだ。ズレを認識できていないため、誤った言葉や行動を選び、事を収めようとしているのに、なおさら炎上するといったことを繰り返す。

日々、稽古で研鑽を積んでいる力士たちに、一般常識と角界の常識の違いを把握するのは難しいのではないか、という話もあるが、協会理事や部屋の親方たちには力士たちが活躍する環境を作る責任がある。当然ながら“協会の中”と“協会の外”の考え方や物事の捉え方が異なることを充分承知した上で弟子たちを指導し、危機発生時の言動や行動をすべきだ。いや、そもそも問題発生の温床となる悪しき習慣を断つといった改革を行うべきだ。

中でも筆者が“象徴的”と感じたのは、日馬富士の引退会見である。

日馬富士は引退会見で、暴行被害者の貴乃岩に問題があったため、先輩として指導する目的で暴行を働いたと話した。“暴力という手段を用いたことが誤りだった”とする会見にもかかわらず、まったく矛盾する“生活態度の指導に暴力を用いる”ことを、心のどこかで肯定しているように感じられる。この貴乃岩に対する暴行を“指導”と話したところに、今回のさまざまな問題が凝縮されている。

「だから日馬富士は酷い男だ」と書きたいわけではない。日馬富士が暴力によって指導を行った背景には、“後輩を指導する際、場合によっては暴力も許される”とする誤った認識、空気があると考えるべきだろう。なぜなら、同席していた他の力士、力士以外の関係者も、“暴力による指導”で頭皮を縫い合わせるほどの負傷を負う事件があったあとにも、事件が明るみになる前まで何ごともなかったように振る舞っていたのだ。

そのことは、同じく引退会見で「貴乃岩が(暴行事件の翌日、日馬富士のところに)謝りにきた」という部分からも透けて見える。暴行を受け、怪我を負った側である貴乃岩が謝罪したのは、同郷の先輩力士の“指導”を(自発的か否かは不明ながら)受け入れ、納得しているからこそといえる。

すなわち、大型リモコンを用いて殴打するという凶器を使った暴行を“指導”と捉える背景、空気感があり、入院するほどの大けがでもなければ、見過ごしてもおかしくないということだろう。ここまで大きな社会問題として取り上げられることに困惑している関係者が少なくないことからも、暴力の結果が露呈したときに今回の事態を招くと予見できなかったことを指し示している。

協会に不足しているのは“共感する能力”

ところで、筆者は“日本相撲協会内の問題”として捉えるとき、関係者全員が納得の上ならば、世の中の常識をそのまま当てはめる必要はないと考えている。男性だけの組織の中、屈強な格闘家が集い、強烈な縦社会の中で生きているのだ。そこには、一般常識では推し量れない独特のルールがあってもおかしくはないと思うからだ。

ところが話が“暴行傷害事件”となってくると話は変わってくる。当人たちが納得していた暴行傷害事件だったにもかかわらず、貴乃岩の師匠である貴乃花親方が被害届を出して刑事事件とした理由は筆者にはわからない。

しかし、被害届が出されたのだから、その時点で協会内だけの問題ではなくなり、一連のできごとは一般常識のもとに判断されるようになる。報道され、多くの人たちが知ることになれば、それぞれが持つ常識の範囲で“暴力行為に対する評価”が行われ始るのだ。

今回の問題を、もっと身近なテーマに置き換えて考えてみよう。仮に、今回起きたことが学校内や職場の出来事だったらどうだろうか。

「仲間内で遊びに行ったカラオケボックスで、後輩の態度が悪いからと説教をしていたら、彼女からメールが入ったと言って笑いながらスマホを弄り始めた。ムカついたのでリモコン使って殴った。後輩の態度がなっていないのを正そうとしただけだ」

「弊社の社員が飲食店で後輩社員に暴力行為を行った。彼は責任をとって辞職すると話しているが、実にもったいない。すばらしい能力を持った社員だったのに」

こんな説明の仕方が許されるはずはない。

他にも引退会見には不思議な言葉遣いがあった。それは「横綱としてあるまじき」という部分である。横綱という品格が求められる地位だからこそ、暴力を用いるべきではなかったと読めてしまう。真意はわからないが、本来ならば「社会を構成するひとりの人間として(暴力は)あるまじき」行為だったと言うべきだ。

ものごとを“整理”し、それぞれに正しい対処を行う

日本相撲協会内の問題をどのように解決していくのか。指導の中で使われる暴力に対して、どう対処していくべきなのか。あるいは、もう少し踏み込むならば、ライバル同士である別部屋の力士が集まり、地方巡業とはいっても八百長事件を経た大相撲において興行期間中に親睦会が開催されることの是非も問わなければならない。

こうしたことは、暴力問題とは別に協会内で解決しなければならない。解決できないのであれば、このネット時代、協会内と一般社会の間にある常識の乖離があからさまなものになり、人々からの支持を失うだけだ。


ネット時代には文字や画像、動画などの形で、個人の意思がさまざまな形で表出する。そうした中で、現状の認識や物事の捉え方が乖離したまま一方的に情報発信しても、決して共感は得られない。

そして共感を得られなければ、さまざまなところから「おかしい」「常識がない」と意見が上がってくる。ふだんはさほど大相撲に興味がない人たちでさえ、そこに自分の意識や常識との乖離をみれば「なんだそれは、ヒドすぎる」と声を上げ、そのひとつひとつの声が新たな非難の声を生み出していく。

暴行傷害事件に関しては、厳正な捜査のもとに法的な裁きを受けるべきだろうと思うが、今回のような非常事態において、どう危機に対処してコミュニケーションを取っていくべきなのか。さまざまな意味で今回の事例は良い教材となるだろう。