東京には、いろいろな妻達がいる。

良き妻であり、賢い母でもある良妻賢母。

夫に愛される術を心得た、愛され妻。

そして、あまり公には語られることのない、悪妻ー。

これは、期せずして「悪妻」を娶ってしまった男の物語である。

女性の美に並々ならぬ執着を持つ藤田は、若く美しい妻・絵里子と結婚するが、振り回される日々が続く。とうとう家出までした絵里子だが、突然帰宅する。




妻が語る、意外な家庭環境


「どこって…普通に実家よ、杉並の。」

絵里子に家を出ていた3日間に泊まっていた先を尋ねると、悪びれもせずそう答えた。

「え…?お父さんとお母さんのところかい?それじゃあ、一言そう言ってくれれば良かったじゃないか。」

非難めいた口調は絵里子が最も好まないものだ、と藤田は口を開いてから気がつくが、いつもの絵里子の威勢がない。

絵里子はワインを飲みながらうなだれて何も言い返さず、上の空な表情を見せた。

2人で暮らした時間は少ないかもしれないが、濃密な日々を過ごしてきた自分にとって、絵里子のちょっとした変化は手に取るように分かる。

梅原のところに行っていたのではと疑心暗鬼になっていたが、そうではないと分かった今、藤田は絵里子への愛情が再び溢れ出すのを感じた。

「絵里子ちゃん。何かあったの?」

そう尋ねると、絵里子は頬杖をつきながら大きくひとつため息をつく。

「私の実家ってね。お父さんが物凄く嫌なヤツなのよ。」

絵里子の父親…。

藤田は、出会って2度目に結婚を決めた後、形ばかりの挨拶に行った絵里子の実家のことを思い出す。

2人で日取りを決め、藤田は世間一般の夫がするように、妻の父親に頭を下げた。

藤田はいかに絵里子が素晴らしい女性かを熱弁し、自分が一生彼女を困らせないことを約束した。

「実家にいると、本当に息苦しいのよ。とにかく、あいつを中心に全てが決まる。細かいことでも気に入らないとすぐに怒鳴るし、お母さんはそんなあいつに一切口答えしない。私のことも、出来損ないの娘、っていう態度で接するんだから。」

あまり自分のことは話したがらない絵里子から、初めて聞く家庭の話だった。

絵里子の父親は藤田と似て痩せ型で、そう威圧感のあるタイプではなかったが、やや神経質な側面があるとも考えられる。

独善的な父親に評価されてこなければ、娘としては居心地の悪い家庭だったのかもしれない。

藤田は絵里子を抱きしめながら、自分はこの子をうんと甘えさせてやろうと誓った。


平和が戻った家庭に起きる問題とは?


儚い幸せ


絵里子が帰宅し、ようやく精神的な安定を得た藤田はとある使命感に燃えていた。

あれからまた話を聞くと、絵里子は小さな頃からひとつ上の兄と比べられてきたという。

父親はすぐに怒鳴り散らす男で、異様にしつけに厳しく、母親は優しかったが父親には逆らわないところが不満だったらしい。

結婚をすれば、自分の機嫌ひとつで大声をあげ家族を萎縮させる父親と離れて住める。それに藤田なら、絶対に父親のような夫にはならないだろうと思った、と絵里子が本音を漏らしてくれた。

ー当たり前じゃないか。

絵里子の希望でと予約した飯倉の『レストラン サヴール コンプリス』で「フォアグラのガトー仕立て」を前にはしゃぐ絵里子を眺めながら、自分は絶対にこの子を幸せにしてみせる、と強く決意した。




確かに藤田は、初めはその完璧な美しさだけに惹かれて絵里子に近づいた。

だが、絵里子には、美しさだけではない妙な魅力がある。

摑みどころのない猫のようで、何よりも自由を愛し、貪欲なまでに楽しいことに目がない。

自由奔放過ぎるきらいはあるが、組織で出世争いに奔走し、美しい女と食事をすることでしか楽しみを見出せなかった藤田が初めて「心」を動かされた女だとも言える。

そんな絵里子と、これからもやっていこうと決意した矢先ー。

「あー美味しかった!藤田さん、ごちそうさまでした!私、お友達が飲んでるっていうから少しだけ参加してくる。場所も六本木界隈ですぐに帰れるから心配ないわよ。」

悪びれもせず、一人タクシーに乗り込もうとする。

藤田が、送っていくよと言っているのに、大丈夫だからと言って聞かない。怪しさを感じた。

ふと絵里子のスマホの画面が光った。暗い夜道で、画面いっぱいに光る「梅原さん」という文字が見える。

藤田は自分の頭の中で、何かがプツンと弾けるのを感じた。


ついに限界を超える藤田の行動


僕にだってプライドがある


「…いい加減にしろ。」

自分でも驚くほど低い声が出た。

さすがにまずいと思ったのか、絵里子も乗り掛けたタクシーを降りる。だが、顔は仏頂面のままだ。その表情にも腹がたつ。

「お前、これからあの男のところにいこうと思ってたのか!」

つい、道端で大声を出してしまう。その間も、絵里子のスマホは鳴りっぱなしのままだ。怒りが頂点に達し、強引にスマホを奪い通話拒否ボタンを押す。

「何するのよ!」

絵里子も負けじと声を張ってくる。何やら文句を言っているが、車の騒音と頬を切るような寒さで、まともに聞き取れなかった。




やっぱり、この女はダメなのかもしれないー。

ほんの10分前までは情にほだされ、不遇な家庭環境で育った絵里子を救ってやろう、という考えだった。

だが、自由奔放で自分の思い通りにならないのは許せても、嘘をついてこんな夜更けに他の男の元へ行くような女を妻にしておくわけにはいかない。

藤田は不満そうな顔で不貞腐れている絵里子を一人残し、そのままタクシーに乗り込む。

置いて行かれた絵里子の驚いた表情が見えるが、構わない。絵里子は少し、自分の行いがいかに非常識か、思い知れば良いと思う。

梅原の元に行きたければ行けばいい。そんな女なら、もうこちらから願い下げだ。

運転手に自宅の住所を告げるが、このまま家に帰るのも気が進まない。

タクシーが進む間も、藤田は飲み仲間の友人に久しぶりにLINEを送った。週末には必ずホームパーティーをしている田村にも、少ない女友達にもLINEを送ってみた。

そしてふと、同僚の「小野友里江」のアイコンを見つける。絵里子のことで相談に乗ってもらった時に、「何かあったらすぐに相談してくださいね」といってもらい、LINEを交換していた。

藤田は数秒ほど考え、小野にメッセージを送る。

ー土曜日の夜に突然申し訳ありません。小野さん、今どこかで飲んでいたりしませんか?

メッセージはすぐに既読になった。

ー藤田さんこんばんは!今お友達と西麻布で飲んでいて、そろそろ帰ろうかなと思っているところです。藤田さんはどこで飲んでるの?

なぜだか今夜は、どうしても自分のことを分かってくれる誰かと話したかった。

藤田は小野と飲みに行く約束を取り付けると、運転手に行き先の変更を伝え、シートに深く座りなおしたのだった。

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小野と飲みに行く約束をしてしまった藤田。2人の関係はどうなるのか?