今、東京の男女が密かに抱えている悩みがある。

恋人や夫婦間での、肉体関係の喪失だ。

この傾向は、未婚の男女においても例外ではない。

2017年冬、付き合って5年になる相思相愛の彼・健太からプロポーズされた美和子は涙を流す。

ふたりの5年間に、何があったのか?

実は、同棲1年が経つ頃から、ふたりは不完全燃焼の夜の夜を境に“プラトニックな恋人”となっていた。美和子は思いをぶつけるが、レス問題は一向に解決しない。

30歳になった美和子は、学生時代の友人・茜に悩みを相談。御曹司・瀬尾を紹介され、いよいよ健太との別れを考え始めた美和子だったが…?




時は確実に過ぎて


「美和子、今夜空いてる?」

締め切り間近のプレスリリースを纏めていたら、背後から懐かしい声がした。

「百合先輩!なんだか、久しぶりですね」

同じPRチームだった百合先輩は、この年の春、商品開発部に異動になった。

社交的で男女問わずすぐに打ち解けられる彼女に、PRは天職に見えたけれど、商品開発に携わるのが入社当時からの夢で、密かにずっと手を挙げていたらしい。

振り返った彼女の顔に、いつもと違う神妙な気配を感じた私は、姿勢を正し百合先輩に向き直る。

「…大丈夫ですよ。これ、19時までには終わらせますからその後で」

頷いて見せる私に、百合先輩は「ありがとう」と口を動かしてその場を去った。

プリーツスカートを揺らして歩く百合先輩のシルエットが、以前より小さくなった気がして、私は不意に心細くなる。

時は、非情に過ぎていく。

百合先輩に連れられ参加した食事会で健太と出会ったあの夏から、もう3年以上が経つ。20代だった私ももうすぐ、31歳になろうとしていた。


久しぶりに食事をした百合先輩から、衝撃の告白


男女を結びつけるもの


銀座に繰り出した私たちは、当時オープンしたばかりの『ビストロ・マルクス』に奇跡的に入ることができ、はしゃぎながら席についた。

しばらくは職場での近況などをアップデートしていたが、ふいに会話が途切れたとき、開放感とワインの力も手伝って、私は健太のことを吐き出してしまいたい衝動に駆られた。

しかしオフィスでの百合先輩の含んだ表情を思い出し、そっと、様子を伺うようにして彼女を覗き込んでみる。

私の視線を受け止めた百合先輩は小さく頷くと静かに下唇を噛み、そして観念するようにゆっくりと、重い口を開いた。

「…私ね、離婚したの」

「…え!?」

それは思いもよらぬ、告白だった。

「本当なら今月6周年だったのよ。スイート10まで、持たなかったなぁ…」

百合先輩は乾いた笑顔を浮かべたが、その声は力なく、とても切なく響いた。私は居たたまれなくなって、絞り出すように問う。

「どうして…仲良し夫婦だと思ってました」

実際、百合先輩の会話に時折登場するご主人の話は、いつも仲睦まじいエピソードばかりだった。記念日には毎年ハワイに行き、正月に届く年賀状ではいつもその際の写真をおしゃれに加工していた。それなのに、どうして。

驚きを隠せない私に、百合先輩は、ここだけの話にしてねと前置きをして声をひそめた。

「私たち、ずっとその…レスだったのよ。でも私も別に、仕事も続けたいし、飲み歩くのも大好きだから絶対に子どもが欲しいというわけでもなくて。実際、夫とも仲良しで、ちょっとしたスキンシップもあるからそれで満足してたの。…いや、満足してると思ってた、というのが正しいかな」

あまりにも突然の、そして身につまされる話の内容に私は言葉を失う。

何を言っていいかわからず黙り込んでいると、百合先輩は一呼吸置き、ふいにどこかすっきりとした表情を見せた。

「でも…ある出来事があって、その時に気づいちゃったの。私はやっぱり女で、女の性には抗えないんだってことに」

-女の性には、抗えない。

その言葉は抽象的であるのに、妙にすんなりと私の心に入り込んだ。

健太と私の間には、他の誰にも取って代わることのできない絆がある。人生を共にするパートナーとして理想的なのだ…レスであることにさえ、目を瞑れば。

それでも、どうしても割り切れない思い。その答えをこの時、百合先輩から聞いた気がした。

「34歳で離婚なんて、バカだなって自分でも思う。でもそれよりも、誰とも抱き合えず、レスのまま結婚生活を続けることの方が…私には地獄に思えたのよ。心の繋がりを何より求めるくせに、それだけじゃ満たされない。強欲なのね、女は」

百合先輩の言葉を聞きながら私はどうにも息が苦しくなり、助けを求めるように彼女を見上げて、ハッとした。

落ちた照明の下、伏し目がちに語る彼女の表情は、その静かな口調とは裏腹にとても艶っぽい、女の顔だったから。


男女を結びつけるものは、心より身体…?迷いつつも、美和子は御曹司・瀬尾と再会する


心を決めた夜


茜が紹介してくれた、ビジネスホテルチェーンの御曹司・瀬尾さんから再び誘いがあったのは、初めて会った日から2ヶ月近くが経ってからだった。

家まで迎えに来るという申し出をどうにか断り、代々木上原の『セララバアド』で待ち合わせると、私を認めた瀬尾さんがわかりやすく嬉しそうな表情を浮かべるのが見えた。

「美和子さん。いや、なかなか時間が作れず本当にすみません」

「いえ、お忙しいと伺っていたので」

時々届く短いLINEからも、彼の多忙さは伝わっていた。ここ最近はずっと、宮崎と福岡に新設するホテルの開業準備で九州と東京を往復する日々らしい。

しかし時間が空いたことは、むしろ私なりに気持ちを整理することができて好都合だった。特に百合先輩と話してからは、無理矢理にでも前に進むしかないんだと自分に言い聞かせ、健太とは少しずつ、距離を置くようにもなっていた。

私は瀬尾さんとの再会に彼が好みそうなリトルブラックドレスを選び、いつもより赤いグロスで艶を纏った。

「…でもあまりに連絡がないので、もしかして何か嫌われるようなことをしたかと心配していました」

彼を見上げるようにしていたずらっぽく笑ってみせると、彼は「とんでもない!」とムキになって弁解をはじめ、そんな彼を私は可愛いな、と思った。




「美和子さん」

コースも終盤に差し掛かろうという頃、目前で繰り広げられる芸術的なデモンストレーションに見とれている私の横で、瀬尾さんが急に落ち着きなくソワソワし始めた。

改まって名前を呼ぶ声に、私は直感的に身構える。

彼の強引な性格から、こういう展開になるであろうことを予想はしていた。私は、ともすると引きずられそうになる過去に決別するように、深呼吸をする。

「はい」

「美和子さん、その…僕と、結婚を前提に真剣にお付き合いをしていただけませんか?まだ会って間もないですが、とても美しく魅力的で、僕にとって美和子さんは、ぜひ人生を共にしたいと思える方だ」

瀬尾さんの眼差しは真剣そのもので、迷いも躊躇もない。そんな彼にただ身をまかせて生きていける女は…きっと、幸せだろう。

「ありがとうございます。そんな風に言ってくださって嬉しい。ただ…」

私の言葉を聞いてわかりやすく上気するまっすぐな彼を、これ以上裏切るわけにはいかない。私は、覚悟を決めた。

「瀬尾さん、実は私には、同棲している人がいます。きちんと別れるまで、少しお時間をいただけますか?」

「そう、だったんですか…」

瀬尾さんは思いがけない私の告白をすぐには受け止められない様子で、その後たっぷり2分間黙り込んでしまった。

正直に話したのは、私にとってある意味賭けだった。

真実を知ってもなお、彼は私を選ぼうとするだろうか。私を、信じてくれるだろうか。…ダメなら、それまでだ。

しかし瀬尾さんは、いつも通り有無を言わせぬ口調で、私にこう言ったのだ。

「わかりました。その代わり、僕とやっていく気があるなら、すぐに家を出てください。新しい家は、僕が早急に手配します」

彼の命令にも似た言葉に、私はただ、頷いた。

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ついに美和子が、健太に別れを切り出す。